ドクター
Welcom
ロイエンタールは、学会出張のため、数日東海岸へ出かけていた。一人自由な時間を多少楽しみもしたが、大切な家族が一緒でないことが寂しいとも感じ始めていた。
帰りの飛行機の離陸にホッとし、家に戻るまでに少しでも疲れを取ろうと、きつく目を閉じた。スチュワーデスの明るい声にも無反応のまま、ただひたすら眠りにつこうとした。しかし、意外と繊細な彼は、あまり外では眠れないのだった。
目指すロサンゼルス空港まで後数時間というとき、控えめの、けれどせっぱ詰まったスチュワーデスの声が通路を歩く。皆が振り向くが、それに対応出来る者は少なかった。
「…ドクターはいらっしゃいませんか?」
実は、ロイエンタールの長い医師歴で、これが初めてのことだった。ドラマなどではよく見かけるが、現実はそれほど出くわすものではない。
果たして外科医だった自分、そして今現在小児外科医の自分に、救えるような急病があるかわからないが、医師として、名乗りでないわけにはいかなかった。
何と自己紹介したものか、意外と困るものだと悩みながら、ロイエンタールはスッと立ち上がる。すぐに、スチュワーデスは飛んできた。
「ドクターでいらっしゃいますか?」
ここで押し問答しても仕方なく、力強く頷いたロイエンタールは、彼女についていった。外科医が産婦人科に関わること、これは帝王切開などの場合の縫合や手伝い、そんなものだった。それすらも、ERなどでも緊急の場面くらいだろう。つまり、ロイエンタールの畑違いの患者が、機体の後部座席を占領して横たわっていた。
「…う、産まれそうだとおっしゃるんです…」
スチュワーデスの声も上擦る。目の前の大柄の患者は、それ以上に大きいお腹をさすりながら呻り続ける。元々クールな仮面が崩れることはなかったが、ドクターとして平静を装い、必死で対応策を考える。
「…ロスまでは?」
「2時間です」
こういう反応は速かった。スチュワーデス達にとって、指示を与えてくれるドクターは有り難かったのだろう。
「…余所へ寄る時間は?」
「ロスが一番近いので」
ロイエンタールはしばし考える。立ったまま患者を見下ろしているだけだがわかる。わかってしまった。
もう、産まれてきてしまうだろう。
決断するまでグルグル考え込んでいるようで、実際は数分も経っていなかった。
「出来るだけ綺麗なタオルをたくさん。お湯も沸かしておきなさい」
スチュワーデス達にとって、指示を与えてくれるドクターは有り難かったのだろう。ピュッと準備に走った。
「あ、それから、他にドクターがいないか探してくれ。助産婦でもいい」野次馬というほどではないにしろ、気になって近づきたがる乗客を、カーテンで遮る。
毛布や氷など、いろいろ指示を与え続け、お産についての講義を思い出す。
遅ればせながら、ロイエンタールは自己紹介していなかったことに気づいた。
「ミズ。私はオスカー・フォン・ ロイエンタール、カイザー・ファウンデーション・ホスピタルの小児外科医です。お産の経験は学生のときと、ERで見たくらいで、」
「ああやっと名前がわかったわ、坊や」
ロイエンタールの説明を遮り、苦しそうに汗を浮かべながら、それでもその女性は笑った。
坊やと呼ばれたことをしばらく理解出来なかったロイエンタールは、自分が屈んで見下ろしている女性が思っていたよりも高齢、少なくとも自分よりは年上だろうということに気がついた。
「…一応ちゃんとした医師ですので、坊やは止していただけませんか?」
こんなときでも、ニッコリと笑う。女性をとろけさせてしまう、甘い表情だ。もちろん作り物だが。
「あたしから見りゃ、十分坊やだよ。大丈夫、この子は7人目なんだ」
ロイエンタールは驚いた。その年齢と体型(まるで3つ子でも入っていそうだった)に、そして7人目ということにも。意外でも何でもないが、「患者」という個人を前にすると、自然と身体全体が医師となる。これは一つの習性だろう。医師が「わからない」という顔や、不安そうな顔をすると、すべて患者や周囲に伝播し、信頼と伴わない状況を作ってしまうからだ。いかにそれが危険か、ロイエンタールは幾度も見知ってきていた。
「ひっひっふー!」
このような掛け声は、ロイエンタールは初めてであったが、恥ずかしいなどと思うことも出来ないでいた。ジャンボ飛行機の中、たくさんの乗客が耳を傾け、ハラハラしながら無事の出産を祈っているだろう、そんな処置室は、ほんの少しロイエンタールを成長させた。
そして、体型からは想像もつかないくらい安産で、しっかりしたベビーが誕生した。(太っていると、産道が脂肪で狭くなって危険なのである)
ロイエンタールは、大きなタオルで赤ん坊の頭を支え、ゆっくりと母親と分離させる。身体を拭い、第一声を待つ。その元気な男の子は、全く健康そのもので、間をおかず大きな泣き声を機内に響かせた。
すぐに一斉の拍手がなったが、ロイエンタールには聞こえていなかった。自分の手の中にいる赤ん坊の泣き声だけに集中していたのである。だから、母親の呼びかけも、スチュワーデスが汗を拭ってくれたのも、気付いてはいなかった。
「坊や? ちょっと、ドク?」
何度めかの心配そうな呼び声で、ロイエンタールは我に返った。顔を上げると、患者のはずの母親が心配そうに自分を見つめ、そして両手をこちらに伸ばしていた。
「ありがとうよ、その子を抱かせてもらえないかぃ?」
疲れた笑顔で優しく言う。ロイエンタールは、呆れるくらい気が回っていない自分に叱咤した。
しっかりと首を支えて、タオルごと母親の胸に乗せる。大きな赤ん坊だと思ったが、母親の巨体の前では、やはり小さく見えた。
「ハィハニー… 私がママよ、元気で生まれて来てくれて、ありがとう」
ぼんやりと帰宅したロイエンタールを、息子も伴侶であるミッターマイヤーも、疲れているのだろうと判断した。しかし、「ただいま」も言わず、黙ったまま突然フェリックスを抱き上げたロイエンタールに、さすがに少し驚いた。
「…オスカー?」
抱き上げられ、首に腕を回しながら、フェリックスは遠慮がちに尋ねた。大きくて力強い腕が、ギュッとしがみついた気がしたのである。その姿を見たミッターマイヤーにすら、何も尋ねられる雰囲気ではなく、しばらくの間、3人は静止したままだった。
「オスカー」
フェリックスの優しく呼びかける小さな声だけが、何度か響いた。深夜、フェリックスが深い眠りについた後、二人はゆっくりとグラスを傾けた。食事のときも、その他も、ずっと黙ったままのロイエンタールに、ミッターマイヤーはいきなり詮索したりしなかった。本人が話したくなるまで待つ、またはただそばにいる、それが自然に出来る二人だった。
どちらかの氷のカランという音をきっかけに、ロイエンタールは細々と話し出した。
「…顔はウーピー・ゴールドバーグだな」
そんな言葉から始まり、ミッターマイヤーは小さく笑った。そして黙ったまま先を促す。
機内での出産、自分が立ち会い、取り上げたこと、巨体で高齢で、自分を坊やと呼んだことなど。
「…無事に生まれて良かったな… で、どっちだったんだ?」
「男」
「へぇ… 7人目か……なぁオスカー、もしかして…フェリックスと重ねてるのか?」
自分の息子の出産について、全く知らなかったことを思い出させてしまいそうで、躊躇いがちに質問した。大事な息子だと思える今なら、出産にも立ち会いたかったと、思うのではないかと考えたのだ。
「…それもあるが、それだけじゃないかもしれない」
ロイエンタールにしては珍しく、自信無さそうに、呟いた。
「…その母親…リタというのだが、彼女と話していたんだ」
出産を終えて、胎盤なども始末できた後、横になるリタのためにロイエンタールは膝枕をした。彼女の強い希望だっただけであるが、素直に従ったのである。そして、どんなに可愛いと思っていても、産後すぐに抱いて座ったままでいることも出来ない母親の代わりに、ずっと、ロスに着くまで、ロイエンタールがその赤ん坊を抱いていた。「ねぇドク? あたしゃいつも悔しいんだよ。…何がって? 7人も子供を産んでもね、この世の中で、一番最初にその子と出会うのは、母親であるあたしじゃないんだ。わかるかぃ? 一番最初に抱くのもあたしじゃない。まぁドク達が抱きしめてくれてるわけじゃないんだけどね… だからね、2番目からでも仕方ないと言い聞かせてね、後はこの子の人生の中で、一番抱きしめてあげられる存在になろうと思うんだ」
リタの話口調をそのままロイエンタールは伝えた。
ミッターマイヤーは、初めて聞く考え方に、さすがに驚いた。「…フェリックスを、初めて抱いたヤツは、誰だろうな…」
突然自分の口調に戻ったロイエンタールが、グラスを見つめたまま呟いた。せめて立ち会うことだけでも可能だったなら、と思っていることが、ミッターマイヤーにも痛々しいほどわかり、先ほどの自分の質問を愚問だと反省した。
ミッターマイヤーはロイエンタールの頭を緩く抱きしめて、囁いた。「……たくさん抱きしめて、一番になろう。オスカー…」
「あのねぇドク? 『フェリックス』ってのは、確か幸せを祈る名前だね。いい名だね…
この子にも、その名を贈ってやりたんだが、…いいかぃ? オスカー・フォン・ロイエンタール」
「…Alles Liebe unt Gute fur Deinen weiteren Lebensweg. Felix.」
ロイエンタールは、腕の中の親子に、優しいキスを贈った。
2001.2.6 キリコ