ドクター外伝
金髪のドクター
ちとネタばれしてるかな… ラインハルトとキルヒアイスは 、
ドクターの終わり頃に登場します。ホンマにちょこっとだけ…(^^)ゞ
冬から突然夏に変わるようなシカゴの春。セイント・ジョオゼフ病院では、絶え間なく患者が訪れるという、いたって日常的な風景が見られた。外来の待合室では、いつになれば呼ばれるのやらわからず、お尻に根が生えてしまいそうな患者も多い。子どもにいたっては、待ちきれずに泣き叫ぶのも、よくある光景だった。
そんな中、医師免許を取得したものの、まだまだレジデンスであるラインハルト・フォン・ミューゼルは、水いっぱい飲めない外来業務にうんざりしていた。
3時間待ちの3分診察とはよくいったもので、実際どうしてもその通りにしか出来なのだ。そうしなければ、待ち時間が延びるいっぽうであり、日が暮れても終わらないだろう。
しかし、ラインハルトのオーベン(指導医)である内科医ヤン・ウェンリーは、かなりそれを無視した診療体制を独自に行っている。それは、もっとも肯くべきことなのだが、サービス精神を超えた勤務にうんざりする同僚たちであった。ヤンが診ることが出来なかった患者は、結局他のドクターに回ってくるため、尚更であった。
このことで、ヤンとラインハルトは何度か話し合った。ときどき、同じく内科医を目指すラインハルトと同級のジークフリード・キルヒアイスも交えた。これは、かつてここで勤務していたウォルフガング・ミッターマイヤーらも議論したことであり、回答はそう簡単に出ない問題であった。「キルヒアイス、お前はDr.ヤンをどう思う?」
「…尊敬すべき、素晴らしいドクターだと思います。技量も知識も」
「…だが、実践には向かない」
「私はそこまで申しませんよ、ラインハルト様」
「なぜだ?」
キルヒアイスは一瞬うつむいて、呼吸を整えてからまた鋭いアイスブルーを見返した。
「Dr.ヤンは、大切な診療を実践しておいでです。それがこれまでとは違うように見え、確かに他のスタッフのフォローが大変かもしれません。ですが、患者を大事にすること、これが医療の原点ではないでしょうか…。私はどんな患者に対しても、同じように接し、少しでも不安を取り除こうという姿勢を崩さない彼を見習いたいと思ってます」
「…あのぼんやりした対応が素晴らしいのか?」
キルヒアイスは、ラインハルトの素朴な疑問に苦笑した。
「患者が気負わずに話せるという雰囲気を作るのも、ひとつの技術でしょう」
「ふむ? それは身につけるものではなく、生まれ持ったものだろうか」
「いえ…それもあるでしょうが、おそらくは信頼を寄せられる口調や返答、そして親身さを感じてもらうのが、大事なのではないでしょうか…。気がついたら、Dr.ヤンに吐き出してしまう、そんな感じをラインハルト様もお受けになられましたでしょう?」
ラインハルトは、幼馴染がここまで熱心に語るとは思わず、こちらまで真剣に考えてしまっていた。そして、これこそが人々がキルヒアイスに引き寄せられる要因でもあった。ヤンと同じような意味で、キルヒアイスも生まれついてそんな雰囲気を纏った人間だった。
「…わかった。と思う。だが何とか効率良く出来ないものだろうか。ヤンのやっていることが良いことだと皆が知っているのに、実際には行われていないどころか、敬遠される。これでは、何の解決にもならないではないか? キルヒアイス」
ラインハルトは、ヤン個人に対する非難を超えて、病院全体の体制についてまで思いを馳せた。キルヒアイスには日々の実践と学習で手いっぱいだと思うレジデンスが、こんなにも広い視野で見れるラインハルトが驚きだった。自分も同じように考えないでもないが、口に出す勇気はなかったのである。
「そうですね…ラインハルト様」
「ふん。困ったような顔をするな、キルヒアイス。さしあたって、レジデンスを脱出しないことには、何も語れまい。わかっているさ」
キルヒアイスは、小さく笑みを浮かべるしか出来なかった。親友の歯がゆさが、わかりすぎるくらいわかる優しい人だったから。その週の外来も、ヤンの患者がラインハルトのところに回ってきた。ため息をつきつつ、疲れた顔を見せることもしなかった。
その患者は70歳を超えた、大柄な黒人であった。外来の部屋がいきなり狭く感じたラインハルトであった。しかし驚いた顔をするわけにもいかず、型どおりの質問からはじめた。
「…肺ガン末期と本人もわかっていて、自宅療養中、酒もタバコも自由?」
ヤンのお世辞でも綺麗とはいえないカルテの記載と、患者自身の言葉で、それがわかった。患者はビル・クライマーといい、ビルと呼べとしつこく諭した。
「Mr.クライマー? なぜタバコを止めないのだ? タンが絡んで大変だとわかっているのに?」
「ビルだ」
大きな黒い瞳が上から見下ろしてくる。ラインハルトの質問にも笑顔を浮かべるだけだった。
「…ビル。何のために毎週外来を訪れて、吸入して吸引して、薬を服むのだ?」
「そりゃあ、Dr.ヤンがそうしろって言うし…。あいつぁいい先生だぜ」
楽しそうに笑う患者に対し、ラインハルトのアイスブルーはどんどん鋭くなっていく。
「しかし、根本的に習慣を改めなければ、そうそのタバコを止めなければ、治療の意味もないではないか」
ほとんど怒った口調に、ビルは大きな肩をすくめてみせた。その反応に、ますますラインハルトもイラつきのボルテージを上げた。
「手術も不可能だとわかり、放射線と内服でということには納得しておられるようだが、それでは治療効果は半減してしまう。なぜ、Dr.ヤンも止めないのだ?」
患者とカルテに向かって、怒りをぶつける。そんな細い背中を見て、ビルはいとおしそうに微笑んだ。
「…なぁDr.ミューゼル? Dr.ヤンも最初は同じことを言ったぜ? もっと穏やかな顔をして、もっと自信なさそうにだったけどよ」
ラインハルトは、形のよい眉を寄せ、患者に向き直った。問い返そうと口を開いたとき、隣からヤンが覗いた。
「あー、Dr.ミューゼル…すまないが、彼には処方を頼む。ビル、調子はどうだい?」
「おう、元気だぜ、Dr.ヤン。相変わらず、他の先生に迷惑かけてんだな」
そう言って、ガハハハと大声で笑う。同時に咳き込んだ。ヤンは慌てて会話を止めた。
「…ならまた来週。今度は私が診察するから」
「ああ、俺はこの美人のドクターで構わないぜ」
ラインハルトは、力強い腕に背中を叩かれ、患者と同じように咳き込んでしまった。
「さ、吸引の時間だ」
その場を取り仕切ったビルは、むせ込むラインハルトを急き立てた。その後、一通りの感情をキルヒアイスにぶつけたラインハルトは、自分の激昂を押さえることには成功したものの、ヤンの考えの一片たりとも理解することは出来なかった。黙ったまま相手の思うようにさせていた親友は、ただ一度小さく頷いただけで、何も言わなかった。
ラインハルトがビル・クライマーの巨体を見たのは、それから数週間後のことだった。場所はER処置室である。
廊下を闊歩する金髪に、ビルはすぐ気が付いたが、生憎と酸素マスクのおかげで大きな声も出せなかった。そして、何の偶然か、日頃はまっすぐ前しか見ない青年が、ふとドアの窓を振り返った。その視線の先には、見覚えのある大きな手を振るビルがいたのだ。
「…ビルではないか。ここで何をしている?」
勢い良くドアをあけ入室してきたドクターの質問に、ビルは笑うしか出来なかった。
「ここで? そうさね、死ぬ準備かな?」
息苦しそうな中で、冗談めいてまた肩をすくめる様子に、ラインハルトはまた怒りがこみ上げてくる。
「そんな冗談は嫌いだ」
「…冗談じゃないんだがねぇ…」
端から見ていると、ドクターと患者というよりは、おじいちゃんと孫、または近所の悪ガキのようだった。ビルは、美しい金髪をなびかせて、怒りに震えるアイスブルーを見るのが楽しかった。とても生き生きとして、もうすぐ死に行く自分とは正反対に生気に溢れているからかもしれなかった。
ラインハルトも怒りながら、患者の顔色やら様子、または繋がれた機器類を見ればわかった。本当に余命後わずかの、最後の微笑みだということが。
「…タバコを止めないからだ!」
ラインハルトの怒りにまかせた発言に、ビルは弱々しく、けれど懸命に答えた。
「好きだからねぇ…」
「なぜだっ! 長年奥さんや子ども達にも止められただろう? Dr.ヤンも止めただろう? 俺もそう言ったはずだ。なぜ、体に悪いとわかっていて吸った?!」
まだ若いラインハルトにとって、関わった患者、どうでもいいと思う相手も多いけれど、それでも平気であの世に送り出せるほど彼は冷たい人間ではなかった。その中で、妙に気になったこの老人が、なぜ死を早めることをしたのか、そしてそれをヤンが黙認していたのかが、どうしても納得出来なかったのだ。
「妻子だけじゃなく、職場でも村の中でも、ときには財布の中身も止めろと言っていたさ」
ずっと起坐呼吸のままのビルは、背中の枕にもたれたまま目を閉じた。
「だからなぜなんだ」
「…そうさなぁ… とにかく好きなのさ」
「好きだったら何をしてもいいと思うのか」
「…副流煙以外はいいんじゃないかな? 後は自分の体のことだから」
ラインハルトが何と言おうと、ビルはずっと冷静だった。
そこへ突然主治医であるヤンが入ってきた。
「あれ? お話中だったかい?」
ラインハルトは突然貝の口が閉じたかのように黙り込んだ。またビルも、黙ったまま静かに微笑み、目線で連れ出すようヤンに伝えた。
「…Dr.ミューゼル、行こうか… ビル、また来るよ」
ビルはまた大きな手を振って、目を閉じた。そのままヤンはラインハルトを屋上まで連れて行った。
「あー何か私に話があるんじゃないのかい? Dr.ミューゼル」
ラインハルトは山ほどもある質問を珍しくまとめることも出来ず、ただシカゴの町並みに目線をやっていた。こんなときも俯いたりしないレジデンスを、ヤンは他に知らなかった。
「…彼はねぇ、ビルはね、自分の好きに生きてきて、それで病気になったなら仕方ない、と納得したんだよ」
問われる雰囲気でもなかったので、ヤンも独り言のように呟いた。お互い遠くを見つめたまま、ときどき視線を互いの横顔にやるだけだった。
「…ガンや死に対して、人間は納得出来るものなのだろうか」
そんなはずはないと言外に匂わせ、ラインハルトは問うでもなく問うた。ヤンはそれ以上何も言わず、病院で終わりを迎えようとするビルについているようにだけ指示した。
「彼に聞いてごらん?」それからたった5時間後、ビルの容態は急変した。そのとき、ビルの一生について聞いていたラインハルトの反応は速く、すぐさまスタッフドクターと主治医であるヤンが飛んでくる。
しかし延命処置もすでに拒否し、ただ楽に死にたいという希望を持つビルに対して、ドクター達が出来ることは少なかった。ただ静かに家族に見守られ、そして面会制限の多いICUに移さずにいる、それくらいだった。
意識が朦朧としているビルの大きな手を、ラインハルトは握った。まだ温かく、けれど力ない手のひらは、彼の70年の歴史を刻み込んでいる。そう言ったビル自身の言葉を、ラインハルトは自分に染み込ませた。
後はただ、取り付けられたモニターの機械音だけが、静かに鳴り響き、そして消えた。
ドクターにとって、すべては経験であり、楽しいこと、辛いこと、悲しいこと、すべて乗り越えていかなければならない。キルヒアイスは、黙り込んだままの親友に何も言わなかった。ただじっとそばにいて、突然握ってくる手を逆に緩く包み込み、互いの温もりで生きていることを確認する。
誰にも避けることは出来ない体験をし、ドクターとして一回りも成長するのだ。そう思ったヤンは、ラインハルトに何も言わなかった。しかし、その後、ラインハルトがドクターらしくなっていくことと反比例するかのように、若いもの、特に不衛生で非協力的に生きている輩を見たときの反応が、意地悪いものになっていった。
「お前達、タバコもドラッグもいいと思っているかもしれない。いいか、タバコってのは1本吸えば5分寿命が縮むものだ。血管が収縮し、病気になりやすい、ボケやすい、そんな体になるんだぞ、いいのか?」
絡んでくる不良グループに、まじめな顔で諭す。そして、笑われると冷たい瞳を全員に向けた。
「自由だ。お前達に選択権はある。ただし…」
一呼吸の間の後、これ以上ないくらい美しい顔と瞳に凄味を効かせ、一段と声を低くして訴えるのだ。
「病気になったとき、自分を納得させろ。それが出来ないのならば、今すぐ止めるんだな」
そう言い放ち、後は体に言い聞かせる。ケンカ慣れしているラインハルトだった。そんなラインハルトの変化を聞き、ヤンは後頭部をポリポリとかいた。
「極端な人だねぇ… そう思わないかい? Dr.キルヒアイス?」
報告したキルヒアイスも苦笑するしかなかった。ヤンは、真面目な教え子の、素直な感情に感嘆していた。
ヤンにもキルヒアイスにも、ラインハルトがビルのことでショックを受けただろうこと、そして人それぞれに人生があり、医療のすべてが万全ではないことを学んだと、わかっていた。
いやはや…こんなに長く、しかもシリアスっぽくなる予定じゃなかったんですが…
有栖川でもタバコを取り上げてますが… 小官はタバコは好きくありません!
愛煙家の方々に申したいです。病気になる覚悟で、そしてガンを宣告されても
納得するくらい、後悔しない吸い方をして下さい。
2001.6.13 キリコ