父と子への応援歌
小学校に上がってから、フェリックスの世界はずいぶん拡がった。これまでは、家の中と病院の託児所がほとんどで、近所の子と遊ぶ機会もあまりなかったから。父親であるロイエンタールとミッターマイヤーにとって、息子の成長は嬉しいけれど、学校生活や交友関係が心配なのも当然だった。
そして、入学して半年も経たないうちに、フェリックスには遊びに行くくらい仲良しの友人ができていた。今日は学校が終わったあと、友人トッドと共にスクールバスを降りた。これが、初めての訪問だった。
「俺んち、今ママとステファニーがいるはずだから」
「…ステファニー?」
玄関までの短い道のりが終わり、話はそこで打ち切られた。
「帰ったよ、ママ」
「おかえりなさい、トッド。いらっしゃい、フェリックス」
もちろん前もって、今日遊びに来ることは伝えてあった。だから、ごく自然にフェリックスはその家に迎え入れられた。簡単な挨拶だけでリビングを通り抜け、トッドとフェリックスは2階へと上がった。
「トッド、ステファニーって誰?」
「…ああ…紹介するよ、こっちだ」
トッドの部屋に入る前に、フェリックスはステファニーという女性のところに案内された。
薄い桃色で統一された部屋の中央には、フェリックスにも見覚えのあるベビーベッドがある。そしてその上には、本物の赤ちゃんがいた。
「…ステファニー? 赤ちゃん?」
「俺の妹なんだ、フェリックス」
「……いもうと…」
トッドの拙いあやし方でもステファニーは笑顔全開で、頬を擦り寄せられると小さな声を上げた。その姿をじっと見つめていたフェリックスは、意外な申し出を受けた。
「抱いてみる?」
「……いいのか?」
「落とすなよ…しっかりお尻支えて……いいか、手を離すぞ」
フェリックスは、赤ん坊を抱くのは初めてだった。思ったよりもズシリと重たいその存在に、改めて腕に力を込めた。ビクビクしながらの怪しい手つきに、ステファニーは不思議そうに顔を上げた。
「…ハイ」
目と目があって、フェリックスはそれ以外に何も言えなかった。
真っ白い肌と金髪、そして自分よりも深い青い瞳は、まるで人形のようだった。けれど、差し伸べられた小さな手のひらは温かい。躊躇いがちに笑顔を浮かべると、ステファニーも同じ表情をフェリックスに向けた。
その後の、初めての友人の部屋訪問は、フェリックスにはあまり印象に残らなかった。舞い上がる、という感覚を、フェリックスは初めて知った。友人宅から帰ったフェリックスは、食事が終わってもぼんやりしたままだった。
「フェリックスはどうしたんだ?」
「…さあ…」
ケンカをしたという感じでもなく、けれど心ここにあらずの様子に、二人の父親はただ見守るしかできないでいた。息子の世界の尊重と、親の介入の限界を感じていた。
「…聞いてもいいかな…」
「いや、フェリックスが自分で言うのを待った方がいいんじゃないか?」
食後の後片付けもせず、ロイエンタールもミッターマイヤーもひそひそと話し合う。けれど、結論がでるはずもなかった。
「…オスカー、ウォルフ…?」
「な、なんだい…フェリックス」
夢から覚めたような顔をしたフェリックスは、それでもまだぼんやりと二人の父親を見ていた。
「赤ちゃんって…いいな…」
「…えっ」
この言葉に、まずは自分たちの仕事のことを考えた。けれど、フェリックスは現場を見たことはない。
「女の子…妹がほしいな…」
うっとりとため息とともに吐かれた言葉は、愛する父親たちを固まらせた。
「…フェ…フェリックス…」
二人はこんな日が来る気はしていた。これまで故意にそんな話題を避けていたわけではないが、フェリックスの成長とともに兄弟のことや母親のこと、いろんなことを乗り越えなければならないと、覚悟はしていた。それなのに、用意していたはずの返答は、どちらの口からもスムーズに出てこなかった。
「…俺、もう寝るね…」
おやすみのキスもしないまま、フェリックスは21時前に自分の部屋に入っていった。それから数日の間の、Dr. ロイエンタールとDr. ミッターマイヤーは、見ていて可哀相なくらい動揺していた。
「…すまない、ウォルフ…」
「いや…俺こそ…」
「シュミレーションしてても、ダメなものはダメだな…」
ロイエンタールは軽く笑った。困った状況ではあるけれど、その苦悩をミッターマイヤーと共有できるなら、それはそれで楽しいのである。
「…性教育から始める…?」
「男は子どもを産めません…か?」
「…男同士のことを聞かれるかな」
「母親を…覚えてるかな…」
それぞれが脈絡無く思ったことを口にした。そしてしばらく沈黙で会話を本筋に戻した。
「……逃げられることではないな…」
「その通りだ、ウォルフ」
ロイエンタールは天井に向かって大きなため息をついた。両親の機微に敏感なフェリックスは、先日の自分のぼんやりした発言が父親たちを固まらせたことに気が付いていた。ここ数日、二人ともが会話を避けようとしていたこともわかっていた。
フェリックスは、自分の家庭がごく一般と違うことにずいぶん前から気付いていた。トッドの家のように迎えてくれる母親もおらず、兄弟が産まれないことも漠然と知っている。賢くて、そして言って良いことと言っても大丈夫な相手を、すでに見分けることもできる。それは、フェリックスの処世術だった。
父親たちが当事者で、他に誰にも相談できないと感じたとき、フェリックスはもう一人の父親に連絡を取ることにしていた。これは、フェリックスの秘密の行動だった。
「ワルター…」
『フェリックス、いつも言ってるだろう? 俺は遠いところにいるから、電話代が』
「高いんだろ。わかってるよ…けど…」
元被保護者の沈んだ声で頼られて、シェーンコップが嬉しくないはずはなかった。わざとらしいため息をついたあと、シェーンコップは電話を持ち替えた。
『で、どうしたんだ、フェリックス?』
「…ワルター、俺、妹か…弟がほしい」
想像もしなかった内容に、さすがのシェーンコップも絶句した。
『そ……そうか。フェリックス、それをあいつらに言ったのか?』
「オスカーとウォルフ? 言ったよ…でも…」
その時の様子を思い浮かべて、シェーンコップは昔の友人を少し憐れんだ。しょんぼりとした息子に、彼なりの言葉を贈った。
『…フェリックス、俺は思うんだが…』
この長距離電話は、その後約一時間続いた。ロイエンタールとミッターマイヤーが、今夜こそと意を決して帰宅した夜、フェリックスは以前の彼に戻っていた。食卓で賑やかに話し、あまりまともな相づちを打たない父親たちを無視するかのように、フェリックスははしゃいでいた。そして、ごく自然とその話題が登った。
「あ、オスカー…ウォルフ、こないだのことだけど」
「あ……ああ、ああその話、えーっとちょうど俺たちも話そうと…」
「俺、やっぱりいらない」
「……はっ?」
二人の父親は顔を見合わせた。
「フェリックス…?」
上擦った声で、ロイエンタールが先を促した。
「だってさー、もしも俺より小さい子がいたら、オスカーたち、そっちばっか構うんだろ?」
「……えっと…そんなことはない…と思うけど…?」
「…ううん、きっとそうなんだ…ステファニーもそうだって、トッドが言ってた」
次々と会話が飛ぶ息子に、父親たちは必死で付いていこうとした。
「ステファニー?」
「うん! トッドの妹。とーーっても可愛いの!」
「……へぇ…」
ロイエンタールもミッターマイヤーも、突然出てきた「妹」という言葉の原因を知った気がした。
「可愛くて…あんな妹いーなーと思ったけど…やっぱりいい」
「…赤ちゃんだったのか?」
「うん……おむつとミルクで大変なんだって…笑うと可愛いよ」
さっきから同じ言葉を何度も連発する。よほど気に入ったらしい様子に、父親たちは少し切なくなった。
「でもさ…オスカーとウォルフを取られるくらいなら…いらない」
「…フェリックス…」
「あ! しまった、TVの時間だ!」
そして食後の挨拶とおそらく独占愛のキスを贈り、フェリックスはリビングに駆けていった。深夜、二人はベッドの中でその時の会話を反芻した。
「あれって…やっぱりシェーンコップかな…」
「お前もそう思ったか?」
突然考えが変わるのもおかしいし、何より口調がシェーンコップだったのである。フェリックスがいくら気遣って内緒にしていても、電話代を払うのはロイエンタールとミッターマイヤーだ。たまにある高価な請求書に目を剥くけれど、一人で国際電話をかけられることを喜びもし、自分たちではない父親に相談されることを寂しくも思った。
「適材適所…」
「変な言葉だ、オスカー。でも…シェーンコップも父親だからな」
少しずつ、フェリックスも周囲に目を向けていくだろう。そして、いろんなことを吸収する。
一方、ロイエンタールもミッターマイヤーも、親という試練を経験していくのである。
どちらも、友人たちの有り難い助けに支えられながら。
2003. 1. 25 キリコ