よくあっては困る日常
フェリックスの誕生日は、ロイエンタールもミッターマイヤーも仕事を休みたかった。予定ではそうなっていたし、現実的にロイエンタールは丸一日オフとなった。けれど、
「ごめん、フェリックス…帰れそうにないんだ…」
朝一番のミッターマイヤーの電話に、フェリックスが不機嫌になるのも無理はなかった。
日頃、忙しい父達の仕事について、特別文句を言ったことはない。それはずっとそういう家庭で「ドクター」という仕事の大変さを漠然と感じていたからだし、ロイエンタールもミッターマイヤーも、自分との時間をどれだけ大事にしているか知っているからである。
けれど、一年に一度のこの日だけは、さすがのフェリックスも駄々をこねる子どもに戻ってしまった。夕方になっても、彼の機嫌は戻らなかった。
大声で泣くよりも、さめざめと涙する方がよほど困る。ロイエンタールは心から動揺していた。ショックを受けるだろうと思っていたが、これほどまでとは予想だにしなかったのである。そこは、やはりフェリックスの従順さに甘えていた父達の弱さだった。これが、本来の姿なのかもしれないのだから。
「フェリックス…ウォルフも休む予定だったんだ…けれど…」
肩を撫でる父親にイヤイヤと首を振るフェリックスは、言葉でうまく言い表せないことを身体で表現しているように見える。ロイエンタールは、まず説得にかかろうとした。
「急患なんだよ、フェリックス…」
「…ウォルフ以外にもドクターはいるだろ!」
けれど自分の誕生日を祝ってくれる替わりはいないのだから。
「俺よりもそっちが大事なんだ…」
「…それは違う…けど…」
すべての要求を集約した短い言葉に、さすがのロイエンタールも二の句が継げない。フェリックスの言い分は、もっともなのである。
楽しくない誕生日の始まりを哀れに思い、ロイエンタールは意を決した。
「フェリックス、病院に行こうか」
涙の筋が残る顔を上げ、フェリックスは目を見開いた。
フェリックスにとって病院は珍しいものではない。けれど、院内の託児所かカフェテリアくらいしか行ったことはなかった。
子どもは感染源となりやすく、小児科は近づけないのが一般的だ。ロイエンタールとミッターマイヤーは、自分たちの職場にフェリックスを連れてきたことはない。それは、ガラスで保護されている部屋だということもあるが、ショックが大きいのではと危惧したことも大きいだろう。二人が勤めるNICUに、元気な赤ん坊はいないのだから。
「…この中?」
「そうだ。ここで待ってなさい」
初めて来る廊下は、近くの小児科とは違う雰囲気だった。子ども向けにディスプレイした壁が見えるのに、この部屋の辺りはどちらかというと暗い。フェリックスは一人で立っているのが落ち着かなかった。
廊下の端から、ロイエンタールは中に入っていった。それは、閉ざされたブラインドを開けるよう頼みに行くためだった。
勤務中のスタッフは私服のロイエンタールに驚いたが、面会時間の終わった今、彼の申し出にノーと言わなかった。
「オスカー!」
ゆっくりと静かな歩調でこちらに戻ってくる父親に、フェリックスは抱きついた。元気な彼は、漠然と感じたのかもしれない。うまく言い表せなかったが、ロイエンタールは黙って抱き上げた。
窓の向こうでスルスルとブラインドが上がる。その様子に、何が出てくるのかとフェリックスは身構える。怖いものではないと、ロイエンタールはその背を撫でた。
「フェリックス…一番奥を見てごらん」
父親と同じ高さの目線を巡らし、フェリックスはその先にミッターマイヤーを認めた。
「…ウォルフがいる、オスカー」
「そうだな…」
「おっきい…器械の前に座ってる…」
フェリックスは父親の真剣な顔は見て取れるが、何をしているのかはわからない。ただ座っているだけにも見えるのである。
「…あれはな、…どう説明すればいいかな…あの器械で赤ちゃんを助けてるんだ。真ん中に寝ている小さい子が見えるだろう?」
「…ほんとだ…」
これまでは、ミッターマイヤーと器械しか目に入らなかった。それくらい、小さな存在なのだ。
「あの治療…赤ちゃんが元気になるようにする器械なんだが、必ずドクターがそばにいなくちゃいけないんだ」
「…ずっと?」
「ずっとだよ。あの場から動いてはいけないんだ。難しい治し方なんだよ」
「…ウォルフはずっとああしてるの? 眠ってないのかな」
さっきまで不満タラタラだった父親のことを、今は心配している。ロイエンタールは皮膚の下で安心した笑みを浮かべた。
「交代しながらだ、フェリックス。1時間おきかな」
「…オスカーは代わらないのか?」
「俺は外科だからな。あれは内科医の領域なんだ」
「…むつかしい言葉」
つい職場では、いつもの自分の言葉を使ってしまう。家ではフェリックスに合わせて話すことが多いのに、とロイエンタールは少し反省した。
「…俺もウォルフもこの部屋の中で仕事してるけど、やってることは違うんだよ、フェリックス」
「……二人ともドクターなのに?」
「うーん…赤ちゃんが対象なのも同じなんだけど…」
それ以上ロイエンタールはうまく説明できなかった。フェリックスはわからなかったが、仕事中の表情をただ見つめていた。
しばらくして、ミッターマイヤーが他のドクターと交代した。立ち上がった瞬間、窓の外の顔に気付いて驚いた。そして疾風のごとく飛んでいった。
「オスカー、フェリックス、こんな時間に…」
どうしたんだ、と尋ねようとして、自分がもっと発するべき言葉に気付き、ミッターマイヤーは立ち止まった。
「ウォルフ!」
そこへ向かってフェリックスはまっすぐに駆ける。浮かんでいる笑顔を見て、ミッターマイヤーは少し安心した。抱き上げると、苦しいくらいに抱きついてくる。剥がそうとしても、フェリックスは密着したままだった。
「フェリックス…今日はごめんな…ほんとにごめん」
息子の後頭部を撫でながら、ミッターマイヤーは何度も謝った。たまたまとはいえ、同僚のドクターの急病で本当に代わりがいなかったのだ。苦渋の選択をしたミッターマイヤーだが、フェリックスに対して謝る以外は弁解もしなかった。
フェリックスは肩に埋めた首を振り、下ろしてもらうよう動いた。
「フェリックス?」
「…ウォルフ…わがまま言ってごめんなさい」
ミッターマイヤーは、聞き分けの良い息子に涙ぐみそうになった。
「…いや、俺が悪いんだよ、フェリックス。お前が謝る必要はない」
俯いていたフェリックスが顔を上げると、目の前に疲れた表情の父の顔があった。それでも笑顔を浮かべている。
「誕生日おめでとう、フェリックス」
「…うん…ありがとう、ウォルフ」
それからミッターマイヤーの交代までの短い時間、3人でカフェテリアでお茶を飲んだ。フェリックスは一生懸命しゃべった。
仕事に戻る父におやすみを言い、フェリックスは機嫌良く家路についた。
「オスカー」
「…なんだい、フェリックス」
「ウォルフってカッコイイな…」
うっとりとした表情に、ロイエンタールはどこかおもしろくなさを感じた。それは、ミッターマイヤーだけを褒めたのもあるが、どこかに嫉妬が入っているのもあったに違いない。そういえば、本当に小さいときからミッターマイヤーが大好きな子だったから。
それでも、そんなことを告げるほど大人げないことは出来なかった。
「…フェリックス…俺は?」
「オスカー? 俺、オスカーが仕事してるの、見たことないもん」
軽い憎まれ口を利いて、フェリックスは目の前にある自分たちの家に駆けていった。
「フェリックス!」
こういう治療法はホントにあります。お医者様は大変だ…2003. 2.14 キリコ