家 族

 


 

 医師の責任は重い。医師だけではなく、病院にいる医療従事者すべては、精神的にきつい仕事をしている。人の死と直面し、それがまた他人のことであっても辛く悲しく、また不当に非難されることも少なくないのである。フェリックスは、医師免許を取ってから割とすぐに、大きな壁にぶつかった。そしてそれは、決して珍しいことではなかった。
 誤診というものは、悪意がなくても誰も歓迎しない。それを行った本人も、わざとそうしたわけではない。それぞれが一生懸命で必死で、けれど最も苦しむのは患者であり、その家族である。フェリックスは出来る限りのことをして、たくさんの罵声を浴び、オーベン(指導医)やスタッフの冷笑と同情のまなざしの中、病院を後にした。
「…今ならわかるのに…」
 患者が運ばれてきたとき、自分は冷静ではなかったのだろうか。歩きながら何度もそのシーンを思い返す。けれど、そのときの自分も自分の能力のすべてを使ったと思う。脳をフル回転し、手足を動かした。
「つまり…使える能力がない…ってことかな…」
 新人医師ならば当然のことだけれど、フェリックスはただ落ち込んだまま部屋にたどり着いた。

 学生時代、フェリックスは辛いことがあったとき、大好きなジャズを繰り返し聴くことにしていた。気分が浮上するまではいかなくても、泣きたくなるような精神の悲鳴が少しましになったから。または、ルームメイトである友人と失敗したことについて話し合った。真面目だけれど、いつの間にかレジデンスの悪口になったりもした。それらは、完全ではなくても、次の日にもまた頑張ろうと奮い立たせる活力となった。
 ところが今。フェリックスは心から悔やんでいた。
「俺に…ドクターなんて向いてないんだ…」
 フェリックスの憧れは、自分の父たちである。強制されたわけでもなく、自分の意志でこの道を選んだはずだった。
 順風満帆とはいえない20数年の人生で、これほど沈んだのは初めてだった。

 フェリックスが知る父たちは、彼が物心が付く頃にはもうスタッフ・ドクターで、誰の目から見ても素晴らしい医師だった。難しい技術も習得し、判断は冷静で、患者やその家族への対応も良い。まるで教科書にでもなりそうな二人だ、とフェリックスは思っている。
「オスカーもウォルフも…元気かな…」
 こんな年齢になって甘えられない、と自分に言い聞かせても、苦しいときは優しい父たちを思い出した。今日はどこまでも耐え難くて、フェリックスは受話器を取り上げた。
 目を瞑ってでも打てるナンバーは、州の違う番号から始まる。遠く離れて暮らしているけれど、フェリックスは定期的な連絡を続けていた。そして、今回はイレギュラーなのである。
「ハロー?」
 2回のコールが鳴り終わる前に、耳元で聞き慣れた声が流れてきた。フェリックスの心臓はドキリと跳ね、背筋が伸びる気がした。電話に出たのは、小柄な方の父である。
「……もしもし?」
 ゴクリとツバを飲み込む以外、フェリックスは何も言わなかった。何を話せばいいのかわからなくなり、ただ相手の不審そうな声だけを聞いていた。それでも、フェリックスには父の声だったから。
 耳を澄ますと、向こうで何か話しているのが聞こえ、もう一人の父が受話器を奪う姿まで見える気がした。
「ハロー?」
 いつもより低い声が、自分の家族を守るものだとわかる。フェリックスは泣き笑いしそうになった。
 二人の父の声を聞き、フェリックスは静かに受話器を置いた。

 部屋のソファでぼんやりと天井を見つめていると、初めてこのアパートと父たちと暮らした場所との類似点に気づいた。天井の隅が、どこか似ていたのだ。それだけで、フェリックスはまた泣きそうになる。
「情けないな…」
 ルームメイトもいなくて良かった、とフェリックスは鼻をすすった。
 誰も見ていないから、この部屋を自分が子どもだった頃の家だと思い込んで見ることにした。目を閉じて、父たちを思い出す。そこには、完璧なドクターで父であろうとする二人がいる。けれど、自分は確かに落ち込んだ二人も見てきたはずである。
「…ウォルフ…はオスカーに…」
 そして、ロイエンタールが落ち込んだときは、ミッターマイヤーが励ましていた。
「励ます…ってのとは…違うような…」
 フェリックスは、幼い記憶を必死で呼び起こした。

 父たちが恋人同士でもあり伴侶でもあることに気づいたのはいつだっただろうか。それが、世間とは違う家族のあり方だと知ったのは、まだ小学生になった頃だ。思えば複雑な家庭だったけれど、フェリックスには愛された記憶しかない。そして、二人はフェリックスの前ではまるで親しい友人のように見えた。息子の前では、直接的な行為をいっさい見せなかったのである。
 けれど、フェリックスは知っている。自分が寝静まってから、ときには二人が寄り添うように座っていたことや、囁くような声で顔を近づけ合って笑い、グラスを傾けていることも多かったし、ときには喧嘩もしていた。
 ロイエンタールは、ミッターマイヤーが無理して明るくする夜には、黙ったまま彼を後ろから抱きしめていた。少し前のフェリックスならば「気障」と笑ったが、今はその腕を心から欲していた。ほとんど何も話さず、けれど静かに波に乗るように体を揺らし、二人で夜空を見上げていた。そのうちロイエンタールが耳元で何かを囁き、ミッターマイヤーは腰に回された腕に両手を乗せ直す。ずいぶん経ってから、小さく笑うようになる。その顔に安心して、影から見ていたフェリックスは寝室に戻ったりしていた。
 ミッターマイヤーは、無表情と言われるもう一人の父の機微をよく読みとっていた。無理して隠そうとすることもあったが、フェリックスにすらわかるものだった。けれど、ミッターマイヤーを見習って、フェリックスも何も聞かないようにしていた。彼はとっておきの酒を出し、黙って注ぐ。その行為だけが繰り返され、その間どちらも一言も発しない。トイレに起きたフェリックスは、二人から目が離せなかった。そしてしびれが切れる頃、ロイエンタールの頭が少し前向きに倒れ、それを当たり前のようにミッターマイヤーは抱き留めた。ただそれだけだった。
 夜の父たちは、言葉を掛け合うことなく互いを励まし合っていた。支え合っていたのだと思う。
 フェリックスは羨ましかった。自分も、そんなパートナーが欲しかったのである。

 どのくらい時間が経ったのか、ふと我に返ると部屋が暗かった。そのことにも気づかず、フェリックスは静かに涙を流していた。ちょうどそこへ、電話の音が鳴り響いた。いつもより、大きく聞こえたのは気のせいではないのかもしれない。フェリックスは鼻をすすってから、受話器をあげた。
「…はい…」
「フェリックス?」
「あ……ウォルフ…」
 鼻の奥がツンときて、フェリックスは話すことが難しくなった。泣いているのがばれるのが嫌だった。
「久しぶりだな、フェリックス…元気だった?」
「……うん」
「夜勤明け? 声が変だけど」
 心配そうな明るい声は、今のフェリックスの心に染み渡る。こんなにも安心できる声を、フェリックスはまだ他に持てないでいた。
「あ……ちょっとうたた寝してたんだ……オスカーは?」
「…ここにいるよ、替わろうか」
「ウォルフ、いいよ…」
「…フェリックス?」
 二人とも優しいけれど、フェリックスは自分とよく似た父の前では背伸びしようとしてしまう。それは、そっくりだから、尚のことかもしれない。
「オスカー? ウォルフは?」
「…今まで話してただろう」
 ロイエンタールは小さく笑った。息子の跳ねっ返りも、十分知っていたから。
「それよりフェリックス、こんな時間にいるとは…仕事にあぶれたのか」
「なっ…違うよ、仮眠に帰ってきただけさ」
「ほう…俺はまた、へまでもしてクビになったのかと思ったぞ」
「…オスカー…ウォルフに替わって」
 低い声でフェリックスは拗ねて見せた。子どもっぽいと言われても仕方がない。実際に、二人の子なのだから。
 受話器の向こうでミッターマイヤーが笑っているのが聞こえる。そして、「コラ」と小突いている姿すら浮かんだ。フェリックスは、涙を浮かべながら笑顔になった。
「ウォルフ? ひどいと思わない?」
「フェリックス、いいことを聞かせてやろう。オスカーが初めてオペに失敗したとき、どうし…」
「……ウォルフ?」
 受話器がおかしな音を立て、余計なことをばらされたくないロイエンタールがミッターマイヤーを止めているのがわかった。少し笑顔のままの怒った顔を、二人ともが浮かべているに違いない。フェリックスは、この二人の子で良かったと、心から思った。
「…あのさ、ウォルフ…今度休みがもらえたら、そっちに行っていい?」
「……当たり前だろ、フェリックス。いつでも待っているし、いつでも電話をくれよ。いいな?」
 念を押された気がした。おそらく、さっきの電話が息子からだと疑わないのだろう。二人揃って電話してくるのは滅多にないことだから。最後に受話器を離して鼻をすすり、フェリックスは元気良く答えた。
「ウォルフ、今度会ったときにオスカーの失敗談、教えて」
「ああ…もちろんだ。体に気を付けろよ、フェリックス」
「…うん」
 子どものように返事をして、フェリックスは受話器を置いた。


 夜遅くに帰ってきたルームメイトに、フェリックスは父たちと同じようにしてみた。
「なんだよ、フェリックス?」
「……うん…変だよな…」
 自分より少し低い身長のアレクに、後ろから抱きついてもらったのである。けれど、バランスも悪いし、ちっとも居心地が良いとは思えなかった。
「フェリックス…お前が今日落ち込んでいるのもわかるし、俺に出来ることなら協力する。けれど、これは…止めてもいいか?」
 その言い方に、フェリックスは吹き出した。
 行為を真似てみても、そこに心が伴っていないならば意味がないことに気づいたから。
「ごめん、アレク…なあ、呑むの、付き合ってくれよ」
「それならお安いご用だ」
 友人に背中を叩かれ、フェリックスは笑顔になった。
 
  

 


本をお読みでない方にもわかるように書いたつもりなんですが…
フェリックスは医師になります。あい。

2003. 4.18  キリコ

 

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