フェリックスという名の息子たち
妊娠・出産でつらい体験をされた方には思い出させてしまうかもです。
ご注意くださいませ。
小児外科医となったロイエンタールは、その中でもNICUを中心に診ている。手術室にももちろん出入りする。依頼があれば、ERや産科にも赴く。そして、何の縁か、産科から小児外科へのオファーがあるとき、ロイエンタールが当番のことが多かった。
今日も、ロイエンタールは産科へ向かうエレベーターの中で、小さくため息をついた。それがどちらかというと哀しい部類に入る仕事だからだ。
「…慣れないな…ウォルフ」
誰もいないけれど、話しかけるように独り言を言った。
これから自分が取る行動は、すべてその愛しい人から教わったものだから。出産というと祝う気持ちで溢れている。ロイエンタールには長年それは理解できないものだったが、フェリックスという息子の存在を知って、ようやくわかってきた。人の親になる気持ちも、その子の幸せを願う気持ちも、だ。
そして、だからこそ尚一層、子宝に恵まれない夫婦や失う家族の気持ちにも、思いを馳せることができる。その苦しみを苦しみとして想像することができるようになった。
ミッターマイヤーと自分とが選んだ職業は、医師の中でも最もそのことを強く感じる科だと、ロイエンタールはいつでも再認識させられる。それが自分の意志によるものであっても、やはりロイエンタールはため息をついた。
呼ばれた先では、産科スタッフがその夫婦を取り囲んでいた。皆が一様に無表情にも見える。それはただ一つ鳴る機械音のせいだろう。これから起こることをすべて、その夫婦以外は知っていたから。
「私はオスカー・フォン・ロイエンタール。小児外科医です」
新しく加わったスタッフの簡素な紹介に、手を握り遭った夫婦は小さく微笑んだ。その様子は、この夫妻がすでに知っていることを物語っている。
母親の体内の心拍音は、すでに消失していた。今はただ、体外に出るのを待っているのだ。ロイエンタールは、お産に立ち会うたびにフェリックスのことを考える。そのときの様子を、出産した母親本人によく聞いておけば良かったと後悔するのだ。けれど、同時に、知らなくて良かったとホッとする自分もいた。
今回死産を迎えようとする母親はまだ若く、父親もロイエンタールより年下だろうと思われる。初めての妊娠の夢が、もろく崩れていく瞬間を、ロイエンタールは何度も見た。まさか自分が、という拒否感は、誰もが持つ思いだろう。
ミッターマイヤーは、その恐怖心や猜疑心、夫婦の疑問をできるだけ取り除けるよう努力していた。
それはまだシカゴにいた頃のことだった。『たとえどれだけ驚いても…自分の子なんだ。亡くなってしまったにしても、それを自分の中で受け入れられるまで手伝わなければいけないと思う。隠しては駄目なんだ』
『…ミッターマイヤー、お前のいうこともわからんでもないが…それは医師の役目なのだろうか』
『さあ…別に小児科医でなくても、取り上げた医師でも助産師でもいい。ただ俺は、俺が診た赤ん坊ならば、俺がする』
そして、その言葉通り、彼は実行し続けた。病院を移っても、今でもその姿勢は変わらない。「Dr.ロイエンタール…」
回想に浸っていたロイエンタールは、ナースの小さな声で我に返った。すぐそばの産科医の手の中には、赤ん坊と呼ぶには小さすぎる存在が乗っている。そして、その赤ん坊を受け取るのが自分の仕事だった。
半分形だけのインファントウォーマーの下での診療は、周囲のスタッフには白々しいものでもあり、苦しいものでもあった。アプガー0という、すでに呼吸サインもない赤ん坊には、赤ちゃん用聴診器すら大きく見えた。在胎30週に先天的外表奇形を持つその子をに、ロイエンタールはいつも通り柔らかいタオルで包んだ。
「…男の子ですよ」
そう言いながら、ロイエンタールは両親の元へ近寄った。すでに涙を浮かべていた二人は、もう一度手を強く握り合った。
「お…男の子ですか…」
「…ええ」
ロイエンタールの腕の中にすっぽり隠れてしまいそうな大きさだった。そのことに、まず両親は驚く。ゆっくり顔を見せて、それからその腕に手渡した。
父親の腕は震え、声も出ないようだった。
「あなた…私に抱かせて…」
その顔を何分か見つめたあと、母親は疲れた声で申し出た。産後の処置は終わったものの、まだ起きあがれる状態ではない。寝たままのその腕に、ロイエンタールはそっと抱かせた。
周囲には、ナース以外誰も残らず、静かな空間を作っていた。
対峙する母と息子を、父親はオロオロ見回すばかりだった。やはり男は駄目なのだろう、とロイエンタールは自分も含めて嗤った。
やがて、眺めていただけの母親は、その子の顔を撫で始めた。それは柔らかい優しい動きで、何度も後頭部を撫でた。
「ドクター…この子、苦しかったかしら…」
「……そうは思いません…が、わかりません」
「顔色が…赤黒いわ…」
「…まだ脂肪がついていないから…」
赤ん坊のイメージが白くてぷにぷにしたものなのだと、ロイエンタールはすでに学んでいた。けれど、週数の短い赤ん坊の皮膚は薄いままなのだ。
まだ疑問に思うことはたくさんあるだろうけれど、母親は全身くまなく見つめていた。何かを見逃さないように、何かを探すように。
「ねぇドクター…この鼻…私に似てるわ…そう思わない?」
「…額あたりはお父さんに似てますね」
「この指、足の指も私似よ…良かったわね、お父さんに似ないで」
「おい…どういう意味だよ、そりゃ…」
出産、正しくは死産から一時間経っていた。そのときようやく、少し明るく夫婦が話し始めた。ただし、二人ともずっと涙を流し続けている。
「この子は…私の子なのよ…ねぇ、あなた…見て?」
「ああ…ああ、そうだね…」
そうして二人でその子を抱きしめる。無表情を作ることに慣れているロイエンタールが、本領発揮する頃だった。
「ねぇドクター? 私がいけなかったの? そういえば妊娠がわかった頃、転けたことがあるわ…それともビタミン剤かしら。妊娠がわかる前には夜更かしもしていたし、仕事も辞めなかった…ねぇ、そのせいかしら…」
「…この子は先天的に疾患を持っていたために亡くなったんです。誰のせいでもありません」
「いや…ということは、俺の遺伝子かな… おふくろも流産したことあるって…」
「違いますよ。流産にも死産にも理由がある。この子の場合、胎内で生きることも難しかった…それだけです。誰のせいでもありません。子どもが産まれるということは…想像以上に奇跡なんですよ…」
自分がまさか、このような単語を並べるときがくるとは思わなかった。少なくともシカゴにいた頃のロイエンタールは、ここまで親身になったことはない。けれど、ミッターマイヤーは、どの患者にもそうしていた。その姿から、ロイエンタールは学んだのだ。
どんなに泣きながらでも、ショックを与えるような姿をしていても、この時間の重要性はおいておくことができないものだとロイエンタールは思う。ここで一人の子の生が終わったのだと認識できないと、先へ進めない夫婦のなんと多いことか。
しばらく親子だけにしていた部屋へ戻りながら、ロイエンタールはまた考えていた。「写真を撮りましょう。そして、手形足形です」
「……写真?」
この申し出に戸惑う両親も多いが、思い出すことのできるきっかけは、あった方が良いのだ。
「さあ…笑って」
「……ドクター…」
泣き通しの母親の肩を抱いて、父親は笑おうとする。腕の中の息子を、少しカメラの方に向けた。
「手形を取りながら、考えましょうか」
「……何をです?」
次々飛び出す予定に、両親は涙も忘れそうになった。
「名前です」
「……誰の?」
聞き返しながらも、すぐに答えに行き当たる。けれど、どうしても戸惑いの方が大きかった。
「あなたがたの長男ですよ」
後日、病院のロイエンタール宛にその夫婦から手紙が来た。それは感謝ばかりの内容で、医師らしいことは何もしていないロイエンタールは心苦しいことも思い出す。けれど、自分の親身が伝わったのがわかる嬉しい瞬間でもあった。
「オスカー? どうしたんだ、顔が笑ってるぞ」
ほとんどの人にはわからない表情の変化を、ミッターマイヤーはさすがに読みとる。ロイエンタールは休憩室だということも忘れて、愛しい人に抱きついた。
「俺は最近、名付け親になったんだ」
「…へぇ…で、何て名前にしたんだ?」
ロイエンタールは首を傾げて、わからないはずないだろうという顔をした。
「「フェリックスという名前しか思いつきません」」
と二人声を合わせて笑う。
「おいオスカー、女の子だったらどうするんだ?」
「…さあ…そのときは両親に考えてもらうかな…」
首に長い腕を巻き付かせたまま、ミッターマイヤーは笑った。それが相手への労りになると知っていたから。
これは日本のドクターのノンフィクションです。
2003. 6. 10 キリコ