人生の山
ロサンゼルスで穏やかに暮らすロイエンタール一家のもとに、珍客があった。
「…まさか…ヤン?」
「ああ、ロイエンタール。会えて良かった。まだここにいて」
ふーっと安堵した息を吐きながら、ヤン・ウェンリーは荷物を下ろした。
ロイエンタールとミッターマイヤーが勤める病院の廊下での、予期せぬ再会だった。「それで? なんで確認してから来なかったんだ?」
出会った様子を聞いたミッターマイヤーは、至極もっともなことを尋ねた。聞かれたヤンは、黒い髪をクシャリとかいた。
「いやぁ…急に思い立ったものだから」
「…旅行とかじゃないのか?」
「…観光ってことかぃ? 私がそんなにアトラクティブに見える?」
ミッターマイヤーは素直に返事をしていいものか迷った。
「…えーっと……まあ、とにかくゆっくりしてってくれよ」
そう言いながら、偽りのない親しみを込めて、ミッターマイヤーはグラスに酒を注いだ。
「ありがとう……ミッターマイヤー?」
「…うん?」
グラスを小さくならした後、ミッターマイヤーが一口口を付けたところだった。
「…なんというか…幸せそうだね」
ぶっと吹き出しそうになった。まさかの内容だったから。
「…ヤン?」
「あ…いや、唐突だったかな」
そう言いながら、また後頭部をかく。その仕草に、ミッターマイヤーも素に戻った。そうして、ヤンの言いたいことがわかったのだ。
「ごめん……全然連絡も入れずに…」
ミッターマイヤーは、ドイツに帰らずにロイエンタールの元へ来たことを誰にも話していなかった。あまりにもヤンが自然だったから、そんなことにも思い当たらなかったのである。
「いや…みんなは君はドイツにいると思ってるみたいだよ」
「…もしかして、ヤンはそう思ってなかった?」
「うーん……どうだろう? けど、ロイエンタールと一緒にいるのを見ても、何の不思議にも思わなかったからねぇ」
困ったような笑顔を浮かべるヤンは、自分たちの理解者だと心強く思った。
「ヤン…俺はお前にお礼を言わねばならないと思っていた」
「…礼? なぜ?」
そう言いながら、ミッターマイヤーはシカゴでの最後の日を思い出す。
「…お前の一言がなかったら……俺は、どうしていたかな…」
「………うーむ…どうかな。結果は変わらなかったと思うけど」
自分はたいして後押しにもなっていないとヤンは言う。ミッターマイヤーは笑ってこの話を打ち切った。
いずれにしても、懐かしい友人との再会を楽しもうとしていた。「ウォルフ?」
「あれフェリックス…起きたのか」
ソファからすぐに立ち上がり、ミッターマイヤーはフェリックスのために両腕を広げた。
「えーっ フェリックス? こんなに大きくなったの?」
「……だあれ?」
てっきり父親たちが呑んでいるのだと思ったら、小さい方の父の相手は見知らぬ大人だった。
「あれ…覚えてないかなぁ、フェリックス。私が予防接種したんだよ?」
「……ヤン…」
「…よぼうせっしゅ?」
「おー正しい発音だ。フェリックス、いまいくつ?」
「……5歳」
「えーっと、あれは3歳くらいかなぁ。シェーンコップと一緒に会ったこともあるんだけど…」
「…ワルターのこと?」
フェリックスは父親の腕から抜け出して、珍しいお客のそばに歩み寄った。一緒に暮らしていないもう一人の父の名が出ただけで、フェリックスは警戒心を解いたらしい。ミッターマイヤーは複雑な表情をした。
それから延々とも思える時間を、ヤンとフェリックスの会話で過ごした。いい加減目をこすり始めた息子を、ミッターマイヤーは嗜める。けれど、なかなかヤンのそばから離れなかった。
ついに意識を飛ばしたとき、ヤンもミッターマイヤーもため息をついた。
「ヤン…こんな時間まですまなかったな…おかげでゆっくり話もできなかった」
「…そうだねぇ…聞きたいことはまた明日にしようかな」
「…聞きたいこと?」
「うん……もう寝るよ、おやすみ」
大きなあくびをしながら、ヤンは客室へ入っていった。ミッターマイヤーは小首を傾げながら、だんだん重くなる息子を抱え上げた。同じ夜が終わる頃、目が離せない患者を診ていて帰ってこなかったロイエンタールが、あくびをしながら玄関を開けた。まっすぐに寝室に向かおうとした足は、子ども部屋からの話し声で止められた。
またフェリックスの部屋にいるのか、とロイエンタールは小さくやきもちを焼く。わざわざノックするのも大人げないと思いながらも、ロイエンタールはドアのそばで耳立てた。中から聞こえる声は、息子の声と友人のものだった。
「あ……ヤンか…」
寝ぼけた頭でそう思いながら、愛しい人がいるベッドに潜り込んだ。そこには間違いなく温かい存在があり、ロイエンタールはホッとした。
「……オスカー?」
「起こしたか…すまない」
ミッターマイヤーは目をこすりながら、習慣化した挨拶を贈った。
「…そうだ、ウォルフ? なぜヤンは子ども部屋に?」
「………えっ?」
二人とも驚いたけれど、答えはそれほど時間がかからずに導き出せる。フェリックスには、父親はやはり3人いるのだと再確認した。
「ま……いいか…」
「…フェリックスが引っ張り込んだんだろ」
二人とも小さく笑い、少し寂しそうな笑顔を浮かべた。父親たちが想像している会話と、実際のものは、少し違っていた。
フェリックスは、滅多に家に客を呼ばない父たちが連れてきたこの友人を、自分たちの味方だと思ったのだ。もちろん、シェーンコップの友人でもあったから。
「だからね、ヤン。俺たちって変?」
「……何が?」
強引に小さめのベッドに寝かされて、ヤンは眠い目を何度も擦った。
「友達ん家はさ、みんなお父さんとお母さんだろ? ウチはオスカーとウォルフだからさ」
「…それで?」
「……それで…って…」
ヤンはあくびを何とか堪えた。フェリックスが真剣に聞いているのがわかっているから。
「フェリックスは幸せじゃないのかぃ?」
「…俺? 毎日楽しいよ」
「ロイエンタールとミッターマイヤーは好きかぃ?」
「当たり前だろ!」
フェリックスはガバッとふとんから飛び出した。力説したつもりらしい。
「…じゃあ、何の問題もないんじゃないかな」
「………そう? そう思うか?」
「…言いたい奴には言わせておいてさ。誰に迷惑かけてるわけじゃないし」
最後の方はだんだん投げやりになってくる。けれど、ヤンもフェリックスが他に聞く人がいなくて選ばれたこともわかっていた。
「俺さ…ヤン。オスカーもウォルフも好きだ。ワルターも好きだよ」
「…そうかぃ」
「…ヤンも好きになった」
ヤンは小さく笑った。その小さな肩を軽く叩いて、「気が多いね」と心から笑った。
翌日の午後になって、ヤンは病院に現れた。勤務中の二人の小休憩に、カフェテリアに向かう。二人よりも寝たはずのヤンは、あくびを繰り返していた。ミッターマイヤーは苦笑を堪えた。
「疲れてるみたいだな、ヤン」
「…ああ、ちょっと天使に掴まっていたもので」
「……あれがそんな可愛いものか」
そう笑うロイエンタールも、その表現が気に入ったらしい。ヤンにコーヒーを注いでいた。
「…私は紅茶が好きなんだけど…」
というヤンの控えめな表現は、聞き入れられなかった。
「ところでヤン。聞きたいことって何だ?」
「ああ……えーっと…」
「…聞きにくいことなのか?」
とんぼ返りする友人に、二人は本人以上に気を遣っていた。相談ごとなら時間がかかるのだから。
かなり時間が経ってから、ヤンは躊躇いがちに切り出した。
「あのさ……プロポーズってどうすればいいのかな…」
「……えっ?」
ロイエンタールもミッターマイヤーも、思わず身を乗り出した。
ヤンがロスに現れただけでも意外だったのに。
「ヤン……結婚するのか?」
「……だからまだそのお願いもしてないんだって…」
「お前が……結婚…? まさか…」
自分と同い年の男に対して、ロイエンタールは失礼だった。
「…ねぇ、君たちの場合、どっちがどう言ったのさ」
「……それは……」
どれが本当のプロポーズか、と聞かれれば、言葉にしたもののことだろうか。けれど、いつの間にかというのが一番相応しい気もしたし、一緒に暮らし始めるずっと以前から当たり前のことのような気もした。
ロイエンタールは天井を仰ぎ見た。
「ヤン……俺たちの真似よりも、自分らしいのが一番だろう」
友人らしく、ロイエンタールはヤンに話しかけた。そして、それは心からの助言だった。
「そう…そう…かな、うん」
「…で、どんな相手なんだ?」
そのことについてはヤンははっきりしなかった。ただ、自分の指導した若い医師がいわゆるデキちゃった婚をし、先を越されてしまったことや、身分すら追い越されそうな勢いの話ばかり、たくさん話した。
珍客は、珍しく饒舌だった。「なあオスカー…ヤンって…」
何しに来たのだろうと思うのは悪いだろうか。そう考えて、ミッターマイヤーはそれ以上言わなかった。
「ああ…たぶんナーバスになってただけなんじゃないのか?」
「…相手、どんな人だろうなぁ…もしかして俺たちの知ってる人かもな」
「…そうかもしれないな」
いずれにしても想像できない、と思ってしまったことは、口にはしなかった。
ヤンは帰りの飛行機の中で、窓に映る自分の顔に話しかけた。
「やっぱりねぇ…理想の家族ってあるじゃない」
数年ぶりに見たかった、というのが、今回の一番の目的だったのかもしれない。
「フェリックスには…もうちょっと大きくなってから話そうかな」
ロイエンタールやミッターマイヤーがすでに越えた人生の一つの山を、ヤン・ウェンリーも立ち向かうところだった。
ヤン久々の登場ー! アメリカで思いついた話でござんす(^^)
2003. 6. 27 キリコ