あなたのにおい


 

 ミッターマイヤーは自分の専門分野である小児内科、特に新生児に関する論文が、発行と同時に連絡が来るように、業者に依頼してある。メールで機械的に来るそれらを、暇を見つけてはチェックする。ずいぶん便利な世の中になったものだとたまに笑う。
 もっと時間があるとき、例えば伴侶であるロイエンタールや小学校に通う息子も不在のとき、ミッターマイヤーがパソコンに向かう時間は長くなる。医師として、小児科以外の最新の論文は、軽くても押さえておきたいからだ。
 科学全般を扱うサイトに入ったミッターマイヤーは、思いもよらないタイトルに目を奪われた。
「…ゲイは…視覚ではなく、嗅覚で興奮する?」
 要約すると、そんな感じの論文だった。自分たちがこういう関係になってから、「ゲイ」という単語には敏感になった。それまでもゲイの患者に出会ったこともあったのに、当事者になっただけで、世界が変わったとミッターマイヤーは感じた。それが嫌というのではなく、ロイエンタールによって変えられてしまった大きな点といえるのだ。
 その論文は、同性が同性に惹かれるのは同性の「体臭」だというものだった。
「…におい?」
 男性が女性、女性が男性、つまり異性のどこにまず惹かれるか。
 こだわりがない人でも、誰もがまず外見から入るだろう。顔やバスト、胸筋や大腿四頭筋、ヒップや足首など、もしかしたら髪の毛や瞳の色かもしれない。
 けれど、その論文によると、ゲイ、この場合は男性同士のみの話らしい。
 真面目なミッターマイヤーは、真剣に考えた。
「体臭ってのは、自分ではあまりわからないし…体臭がきついとかは、主観的ではあるかな」
 結局は好みの問題なのだろうと思う。実際、体臭を相手に強調するお国柄もあるのだし、少しでも体臭を消そうとする文化もある。汗をかいている相手に対して、それもいいと思えるのは、そこに好意があるからだとミッターマイヤーは考えた。
 そして、自分はロイエンタールの体臭がおそらく気に入っている。改めて考えたことはないけれど、そうなのだろうと思う。

 そもそもの始まりを考えたら、自分はもっと怒ってもいいのではないのだろうか。ミッターマイヤーはそう考えて、やはり苦笑した。このアメリカでは裁判沙汰にもなりうるだろう。けれどあのとき、なぜか、本当にどうしてなのかわからないままに、了解の体勢を取っていた。それまで、親友という立場以外の目で友人を見たことはなかったのに。
「それはまあ置いておくとして」
 ミッターマイヤーは誰もいない部屋で咳払いを一つした。
 同居し始めて、2回目が問題だった、と思うのだ。
 改まると踏み込めない親友と、どうしていいかわからない自分。
 そんな自分たちが、よくここまで、それぞれのいろいろなものを振り捨ててまで来たものだ、と感嘆した。

「ただいまー」
「おかえり、フェリックス」
 自宅近くに止まるスクールバスを、出来る限り出迎えようと思っているのに。
 考え事をしていたミッターマイヤーは、フェリックスに詫びた。
「迎えに行けなくてごめん、フェリックス」
「ん? いいよー トムが一緒だったし」
 ご近所の友人の名前が出る。そろそろ親よりも友人の立場が大きくなる年頃なのだろう。
「ウォルフ、俺、遊びに行ってきていい?」
「…遅くなるなよ。気を付けて」
「うん」
 という返事は、もうかなり遠くから聞こえた。

 学者肌のミッターマイヤーは、息子のことも論文と結びつけた。
「フェリックスは…まだ体臭はあまりないよな…」
 将来、実の父に似たにおいを持つのだろうか。顔はかなり似てきているし、身長も自分を追い越すのは間違いないだろう、とミッターマイヤーは笑った。

 

「ただいま」
「……あれ? オスカー?」
 まだパソコンの前に座ったままのミッターマイヤーは、自分ののめり込みっぷりにかなり驚いた。
 ロイエンタールは首を傾げる伴侶の額に、軽く口付けた。
「ウォルフ、フェリックスは?」
「あれ……まだ…かな?」
 遊びに行ったまま、まだ戻っていないらしい。もうすぐ夕食の時間なのに。そして、ミッターマイヤーは部屋が薄暗くなったことにやっと気が付いた。
 ロイエンタールがため息とともに、ミッターマイヤーの肩から手を放した。その瞬間に空気が流れて、ロイエンタールのにおいがした。
 突然、目を丸くしたミッターマイヤーに、ロイエンタールは少し驚いた。
「…ウォルフ?」
 数秒黙ったあと、ミッターマイヤーは目を閉じて広い胸に顔を埋めた。仕事帰りのその体からは、彼本来のにおいがする。ちょっと汗くさいともいえるのに。
「なんか……安心するんだよなァ…」
 薄いTシャツに鼻を押しつけ、ミッターマイヤーは独り言をいう。
 だから、最初の夜も、2回目の夜も、怖くなかったのだ。
 3回目の夜以降、だいたい自分がリードを取ってきたロイエンタールは、今では自信たっぷりに耳元で囁くのだ。
「ウォルフ? 俺は誘われてるのか?」
 広い腕の中からも、蜂蜜色の頭上からも、吹き出す笑いが聞こえた。
「…まあ…今だけ…」
 ミッターマイヤーはロイエンタールを見上げ、降りてくる口付けを待った。

 

 

 


「双璧の甘い日常を書いてください」
と実はよく言われます。
クリアできてますでしょうか?(笑)
この論文のタイトルは忘れましたが、
実際に2〜3年前「BIO TODAY(かな?)の
最新論文で読んだ記憶があります。
世の研究者はいろいろな研究をしてるんですねぇ(笑)


2005. 11. 9 キリコ

 

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