失いたくないもの

 


 

 ロイエンタールの体調が良くないらしいということにミッターマイヤーが気が付いたのは、実はかなり時間が経ってからだった。それは、ロイエンタールが隠そうと努力した結果が実ったせいだともいえる。しかし、現実を知ったとき、ミッターマイヤーには、ショックよりも怒りが大きかった。

 医師である彼らにとって、病人や亡くなっていく人は身近な存在であった。だがそれは、あくまでも他人の話であって、自分たち自身、もしくは家族のことになると、彼らの動揺は医療従事者以外の反応と変わりない。ずっと以前、シカゴにいたとき、フェリックスのミルク吐きやミッターマイヤーの虫垂炎にすら、彼らは動転していた。結局は、家族の前では、「医師」にはなれないのである。

「隣の市の…Dr.ケスラーに診てもらうことにした」
 観念したロイエンタールは、自分の方に向かない伴侶にそう呟いた。実際には、すでに診察を受け、手術する話も出ていた。それをいつ、ミッターマイヤーとフェリックスにいうべきか、考えすぎてしまったのだ。
「…彼は…消化器外科の専門家だ…優秀ということだし」
 ロイエンタールが少しでも安心してもらえるよう説明しても、ミッターマイヤーは窓を見つめたままだった。
「ウォルフ……黙っていて悪かった…だが…」
「…なぜ…」
 謝罪の言葉を、ミッターマイヤーは遮った。
「…なぜ俺に相談しなかった? 俺はそりゃあ外科のことはわからないし、元々お前の分野だから知り合いもいるだろうし…」
「…ウォルフ…」
「なんで俺に内緒にしてた? 気づかない俺も鈍感すぎるのかもしれない…けど……つらいのを教えてもらえないのって…」
 ロイエンタールは、ミッターマイヤーが怒っていたことについて、ようやく理解した。
 もしも立場が逆だったら…と考えると、やはり同じように思ったかもしれない。
「ウォルフ…すまなかった…」
 心から詫びて、ロイエンタールは俯いたままの伴侶を抱きしめた。
「…オスカー…俺こそ、気づいてやれなくてごめん……不安だったろう…?」
 優しい声でそう言って、ミッターマイヤーは伴侶の背中を両腕で包んだ。


 彼らの相談は何日かにわたった。
 手術の日や仕事のこと、フェリックスのことなど。
 結局、彼らはまだ小学校に入ったばかりの息子に知らせないでおこうと決めた。それは彼を一人前扱いしていないように感じられたが、もうすぐ夏休みの合宿に行く彼に、心配事を増やしたくなかったから。
 そんなわけで、手術の日はフェリックスの合宿が始まってすぐに決まった。それに合わせて、二人とも仕事を調整してもらった。

 

 手術の前日から、オペ前の準備のために入院した。付き添いは大部屋ではできないし、ミッターマイヤーは何としても一緒にいようと決めていたので、高くても個室に入った。
 手術時間は明朝6時からだった。だから、当然夕食を抜かなければならないロイエンタールのそばで、ミッターマイヤーは同じく腹を鳴らしていた。
「ウォルフだけでも食べてきなさい」
「そういうと思ったけど、俺が食べ物の匂いさせたらさ…」
 ミッターマイヤーがお腹を撫でながらそう言う。そんな仕草にロイエンタールは感動する。けれど、それでは大事な体がもたないと思った。
「ウォルフ…お前が手術をするわけではないのだ。俺の分も食べてきてくれ」
 仕方なく、ミッターマイヤーは食堂へ向かう。食べ物の匂いを気にしてる以上、そばで食べるわけにもいかない。けれど、ミッターマイヤーはロイエンタールのそばを離れたくなかった。
「オスカーって……意外と繊細だからな…」

 やけに早く眠らされても、眠れるわけもなく、当然睡眠剤が出てきた。
「一応…断ったんだけどな…」
「オスカーは服んでしっかり眠った方がいい…オペ後も大変なんだから…体力いるぞ」
 乾いた声で励まして、ミッターマイヤーは彼を眠らせようとした。
「…ウォルフ…」
「…なんだ?」
 ミッターマイヤーは、ベッドに腰掛けて、点滴の入った腕を撫でた。
「お前は…自分の手術跡をどう思った…?」
「えっ…?」
 思いもよらない質問だった。
 かつて彼が手術から戻ったあと、そこには自分の面倒を見る妻がいた。そのことをなるべく今は思い出さないように、ミッターマイヤーは首を振った。
「確か…お前は傷よりも、剃られた方を気にしていたな…」
 ロイエンタールは、目を瞑ったまま笑った。
「な…変なことを覚えているな、オスカー…」
 ミッターマイヤーは小さく笑いながら、ロイエンタールの手を叩いた。
 しばらくの沈黙の後、ミッターマイヤーは術衣をめくった。
「…ウォルフ?」
 すでに薄暗くしてある病室では、白い肌はいつもより青白く見えた。胸元から下腹部までゆっくりと撫でると、ロイエンタールが少しくすぐったそうにした。
 目で見ても、手で触れても、何もないすべらかな肌は、今夜限りなのだ。
 そう思った瞬間、ミッターマイヤーは堪えていた涙を抑えることが難しくなってきた。
 ロイエンタールが目を開けても見られないように、ミッターマイヤーは伴侶の腹部に頬を当てた。
「…オスカー…たとえここに傷が残っても……それでお前の命が助かるのなら…」
 どれほど大きな傷であろうと、自分と、そしてフェリックスのそばにいてくれるなら…そんな願いを込めて、ミッターマイヤーは何度も口付けた。
 ロイエンタールは何度か恋人の名を呼びながら、深い眠りに落ちた。

 何時間もの手術の間、ミッターマイヤーは病室で祈り続けた。
 ただ待つしかできない、ただ見守るしかできない病人を看る家族のつらい思いが、今はわかる気がした。

 その後、ロイエンタールは持ち前の体力のおかげか、順調に回復していった。
 フェリックスは、父の手術のことを知らないまま、成長していった。


 


何の病気の手術にしよう…
と考えましたが、あまり思い浮かばなかったので(笑)
ロイエンタールは意外と神経質なところもありそうな気がして、
消化器系にしてみました。
フェリックスが知らないまま…でいいのかなぁ…


2006. 11. 11 キリコ

 

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