ドクター
usual happenings & unusual patients
ややこしくてスミマセンが、日本語と英語が混じっております(全部日本語やけど(笑))。
日本語のセリフを『 』、英語のセリフを「 」 で、表しております。
そう思って読んでやって下さいまし(*^^*)
『アリスっ!!!』
ほとんどのERスタッフは日本語はわからない。しかし、その一言だけは誰でも聞き取れただろう。
シカゴを通り、バッファローへ向かう夜行列車が、脱線事故を起こし、乗員乗客に死者や負傷者が大勢出てしまい、7月の暑いシカゴ内の病院はどこも大忙しになった。いくつかの病院に分けられ運ばれているとはいったものの、その数はただ事ではなく、セイント・ジョゼフ病院のERも、一時的に戦場と化した。
こんな時、ER内のドクターもナースも専門など言っていられない。もちろんいろんな科を診ることが出来なければERスタッフは務まらない。内科も小児科も外科も、すべての患者を手当たり次第診なければならなかった。こういった事故の場合、早急な外科的処置が求められる。
脱線事故は真夜中に起こり、救助作業も難航していた。そのため、患者はずれて運び込まれ、ERスタッフは休む間もなく、次々に的確に処置を行っていくしかなかった。
その中で割と早めに運ばれてきた意識不明の患者に付き添った背の高い若い男性がひたすらその名を叫んでいたのである。
『アリスっ!! しっかりしろ!!』
ER内では珍しい光景ではない。
突然の不慮の事故、病気の患者が運ばれてくるところである。その身内にとってはまさに晴天の霹靂であり、驚き、信じることが出来ないあまり、スタッフに対し非難を浴びせることも、毎度のことだった。
そんな中で、そのおそらく日本人と思われる男性の勢いは尋常ではなかった。
たまたまそのアリスと呼ばれる患者を引き受けたのは、Dr. ミッターマイヤーであり、ミッターマイヤーはその男性を追い出すように指示した。しかし、誰にも押さえつけることも出来ず、ミッターマイヤーに食ってかかった。
「あんたは医者か?」
それは流暢な英語であったが、その声音は低く冷静で、暴れんばかりの態度とあまりにも対照的で、脅かされるよりも恐ろしかった。
しかしミッターマイヤーにはそれに屈している時間はなかった。
「私はウォルフガング・ミッターマイヤー。ERの小児科医です。この患者の名前は『アリス』ですね? 治療しますので、出ていて下さい。…それにあなた自身も手当が必要でしょう」
ミッターマイヤーはアリスという男性を診察しながら、努めて冷静に答えた。
額や左腕から血を流しているその男性は、その返答が気に入らなかったらしい。
「なぜ小児科医が?! アリスは大人だ!!」
そういう問題ではない、とその場にいたERスタッフは全員思っただろう。
「Dr. ミッターマイヤーは優秀なドクターです。この方の治療は我々にまかせて、あなたもあちらで治療を受けて下さい」
その場にはあまりに不似合いな、落ち着いた優しい声音でヤンが言った。とくかく落ち着かせて追い出すのが先決なのだ。このままでは本当に治療の邪魔でしかない。何しろミッターマイヤーの胸ぐらをつかみかかろうとしていたところだったのだ。それを寸でのところで止めたのは、いつの間に外傷室に入ってきていたのかわからないロイエンタールだった。後ろから騒ぎ立てる男性の腕を取り、やや少し上から見下ろしながら、先ほどの男性よりも、もっと脅しの利いた声で小さく言った。
「アリスを殺したいのか」
低いロイエンタールの、尋ねるというよりも、このままではそうなる、という意味合いを込めた口調に、いきり立っていた男性がピクッとびくつき、動きを止めた。
「縫合してやるから来い」
あまりにも有無を言わせない低いテノールに、その男性は反論はしなかった。
引きずり出されながらも、アリスから目を離さないその男性の姿も、ERスタッフには見慣れた光景であり、切なくなっている時間はなかった。「ミスター・アリス、聞こえますか?」
瞳孔を調べながらミッターマイヤーは話しかけたが、反応はなかった。その顔はアリス自身の血液が流れ出て、アリスの顔がはっきりと見えないほどだった。前頭部に切り傷があったからだ。ナースが顔を拭くと、流血自体は止まっており、深い傷ではないことがわかった。
「バイタルは安定してます」
運ばれてきたときほど重傷ではなさそうであった。しかし呼びかけには相変わらず反応はなかった。
「頭部CTを依頼して」
両手両足に骨折もなく、また胸部腹部に取りあえず異常がないことを確認したミッターマイヤーはそう指示した。おそらくは頭を強く打ったのだろう、脳内出血を起こしたり、脳に障害がなければいいが、とミッターマイヤーは心から祈った。
一方、縫合のため小さな処置室に連れて行かれた男性は、ロイエンタールと向かい合い、しかし目を逸らしたまま黙っていた。
「名前は?」
「…火村。ひでお・ひむら」
その他は学生のバイエルラインが、国籍や傷害保険などについて尋ね、縫合することを伝えた。火村は額と左の前腕の肘あたりに大きな切り傷があったのだ。そこからの流血はとまっておらず、暴れれば暴れるほど血液は流れていた。
「バイエルラインは学生だが、優秀だ。縫合はプロですので」
ロイエンタールがそう言うと、火村と名乗った男性は、小さく鼻で笑った。
「この病院は、小児科医が大人を診て、学生が針仕事をするわけだ。とんでもない病院に運ばれて来たもんだ」
それに対してロイエンタールは何も言わなかったが、その金銀妖瞳で、誰もがすくみ上がるような鋭い視線で睨み付けた。しかし、火村の黒目がちな瞳も、全く負けておらず、にらみ返した。かわいそうだったのは、二人の間にいたバイエルラインであった。二人が、これ以上ないほど恐ろしい雰囲気を作っているのである。その迫力はなまじ二人が美形だったがために凄まじいものだった。バイエルラインは、ロイエンタールに睨まれて平気でいられるこの異国人を尊敬の眼差しで見るとともに、これからその男性の縫合をしなければならない自分を哀れんだ。
「バイエルライン、もしもこの御仁が暴れたら、セキュリティを呼ぶ前に鎮痛剤を大量投与して眠らせてしまえ。いいな」
そう指示ながら、バイエルラインの肩に手を置き、ロイエンタールは部屋から出ていった。
バイエルラインやロイエンタールの予想とは反し、火村は縫合中静かだった。だたその眉は苦しそうに寄せられ、おそらくはアリスと呼んでいた患者のことを考えているのだろうと感じたバイエルラインも、話しかけはしなかった。
患者が暴れることも患者の身内が暴れることも、日常茶飯事であり、黙って、またはフォローしながら受け止めるのも、ERスタッフの仕事なのだ。怒鳴られたからといって怒り返しても、冷静さを失い、それは医療ミスにつながる危険性があった。縫合され、額と左腕に包帯をまかれた火村が、バイエルラインに小さくありがとう、と言った時、バイエルラインは驚くとともに切なかった。火村自身の治療が終わると、あとはアリスを待つだけなのである。
「アリスについて、何か知りませんか?」
ようやく落ち着いたのか、やや冷静さを取り戻した瞳でまっすぐにバイエルラインに問いかけた。バイエルラインはずっと火村の治療をしていたのである。知っているわけはなかった。
「聞いてきましょう。待ってて下さい。」
そう言ってバイエルラインは部屋から出ていった。
戻ってきた時、その表情は悪くもなく嬉しそうでもない、と火村には見えた。
「今、CT室で検査中で…」
そこで切ったが、意識が戻っていない、ということは火村にもわかった。
「あとは、待合室でお待ち下さい。何かあったらお知らせしますから…」
同情しているのか、優しいバイエルラインの声音に、火村はもう一度感謝の言葉を述べて、処置室を出た。その後ろ姿は肩が落ち、まるで死刑宣告を受けた囚人が死刑台に行くようだ、とバイエルラインには思えた。
火村はアリスのそばについていなかった。見ているのがつらかったのだ。
列車が止まったあと、驚くよりも先にアリスの身を心配した。そして隣りにいたアリスの顔中が血だらけになっていたことに、全身がゾワゾワと粟立ち、瞬時に冷静さを失った自分を振り返っていた。
”あのアリスの顔に…、アリスの死…を思い浮かべたのは当然だ、火村英生。落ち着くんだ…”
火村はまだ日も登っていない暗い外のベンチで一人頭を支えながら俯いていた。
「コーヒーはどうだ?」
湯気の立ったコーヒーを手渡しながら、ロイエンタールは火村の横に座った。座っていい、とも、ありがとう、とも言わなかったが、そんな返事を期待もしていなかった。
「…アリスは…?」
「ミッターマイヤーが診ている」
あまりはっきりと、意識が戻っていない、と言わないスタッフばかりだな、と火村は思った。
コーヒーを見つめたまま、手が小刻みに震えそうになるほど、悪い方向にばかり考えていく自分がいて、それを誰にも悟られたくないと火村は思っていた。
「…大事な奴なんだな」
その静かで穏やかな一言に、火村はハッとした。ロイエンタールのその一言は、大切な人を失うかもしれない、と感じた時、人間はみな同じだ、と言っていることが、さっき初めて会ったばかりの火村にもわかった。
「…ああ…」
横に座りに来て、たいして話もしないロイエンタールを火村はおかしな奴だと思った。もう忙しさのピークは過ぎたのだろうか、外科医がこんなところで油を売っていていいのか、と心の中だけで思った。
火村がアリスと知り合って10年経つ、と言うと、ロイエンタールも俺にも10年来の大切な奴がいる、と言った。火村もロイエンタールも友人、とは言わなかった。
「遠慮せずに飲め。珍しく俺がおごってやる気分になったんだ」
心配だよな、とかきっと大丈夫だ、などという気休めも言わないこのドクターと話していて、苦痛にならない自分に気がついた。
「…遠慮じゃない。猫舌なんだ」
ロイエンタールはその火村の言葉に小さく笑った。火村もようやく口の端を動かすぐらいのことが出来るようになった。
「タバコ、持ってないか?」
「俺は吸わないからな。」
そっか、と小さく言った火村に、ロイエンタールは身の上話を始めた。
「…うちにガキが出来てな。家で吸ってはダメだと言われて、この際だから、と完全に禁煙した。もともとたいして吸ってなかったからな。お前はよく吸うのか?」
「ああ。ヘビースモーカーだっていつも怒られるんだ。 …ドクター、子供がいるんだな。いくつなんだ?」
その反応にロイエンタールは、火村と同じように口の端だけで笑った。
「ちょうど10ヶ月で、もうすぐ歩けるかもな」
何時間か前の恐ろしい顔はどこへいったのか、父親の顔になったロイエンタールを心のうちで親バカだ、と思いながら、でもその話題は楽しく感じた。
「一緒に育ててくれている奴も、それはかわいがってくれている」
どこまでうち明け話をするのか、ロイエンタールはそんなことを言い出した。
「奥さんじゃないのか?」
「伴侶だ。パートナーだな」
「ふ〜ん…」
相手のことや結婚については、別に興味はなかったし、なぜそんな話をするのか火村には理解できなかった。
「……さっき、何故俺がお前の縫合をしなかったか…わかるか?」
「…?」
火村にはその質問の意味がよくわからなかった。さっきからこのドクターが自分と何の話をしに来たのか、考えているのだが、どうしても1本の線に繋がらなかった。
「俺は冷静じゃなかった。アリスという男が運ばれてきた時のお前のようにな」
「…忙しいからって冷静じゃなくなってたら、命なんか預かれないじゃないか?」
「俺はお前に怒ってたんだ。忙しくても、俺はいつでも冷静だ」
「…俺に?」
ロイエンタールは膝に両手を置き、体を前に預け、身を乗り出した。
「お前はミッターマイヤーに手をかけようとした。だからだ」
その言葉で、ロイエンタールの大切なもの、ロイエンタールの伴侶、という言葉を正確に把握した。わざわざ旅行者の自分にバラすロイエンタールはおかしいんじゃないか、とも思ったが、しかしロイエンタールなりに気を使っているらしいことが火村にもわかった。
”俺にも大切なものがある、だからお前の気持ちはわかる、そう言いたいのか…。ひょっとして、このドクター。俺並に不器用なんじゃ…?”
だいぶ経ってから、火村はすっかり冷めたコーヒーを一気のみした後、俯いてつぶやくように言った。
「…大事なんだ。とても…」
ロイエンタールはそれ以上なにも言わず、背中を丸くして俯いている火村の背中を一度だけ軽く撫でた。
火村は相変わらず外のベンチで一人座っていた。明け方近くER内で、バイエルラインがミスター・火村と呼ぶ声が聞こえ、火村は中に入った。
「あっ、ミスター・火村! 早く!! こちらへ!!」
先にかけるために早くもUターンしたバイエルラインに、全く遅れを見せず、追い抜かんばかりのスピードで火村は走った。”早く!”の意味が、どちらかのか、聞くのは怖かった。
ER内は、患者でゴチャゴチャしており、走りにくく、バイエルラインも火村も、人にぶつかり、物を落としながらアリスの元を目指した。たどり着いたドアのガラスから中を見ると、アリスは困ったような顔をドクターやナースに向けていた。
火村が息を荒くしながら、しかし静かに入っていくと、アリスは、ほっとすると同時に眉を寄せた。
『火村ぁ!! 良かった。無事やったんやな。俺、英語話せへんから、君のこと、聞こうに聞けへんで…』
火村を見て安心したアリスは勢いよく話しだしたが、火村があまりにも力強く抱きしめたため、しゃべることが出来なくなった。
『アリスッ!』
『火村…痛い…。苦しいて…』
アリスの声を耳元で聞きながら、火村はアリスを一層強く自分の中に引き込み、苦しそうにもがくアリスを無視し続けた。
二人の会話は、周りにいたスタッフにはわからなかったが、これもよくある雰囲気であり、お互いの無事を喜んでいる、ということはよくわかった。
ミッターマイヤーはいつまでも離れようとしない二人の様子に安心するとともに苦笑し、火村の背中に回されたアリスの左腕を引っ張り、点滴の滴数を落とした。その手を離すと、また火村の背中に戻ったため、ミッターマイヤーは苦笑とともに、少し呆れた。
「もう大丈夫でしょう。脳震盪を起こしていただけのようですので」
そう英語で説明すると、火村は納得したようだったが、アリスはキョトンとしていた。
『火村。…先生、何て言うてはるん?』
事故前と変わらないアリスの口調に、安心した火村も元の火村に戻った。
『アリスが頭打って、バカが一層バカになったって』
『俺のバカ?! どういうことや! それにまたバカって言うた!!』
火村はアリスの反応を喜んでいるが、アリスは少し怒っているらしい。 その二人の会話を聞きながらミッターマイヤーはいったいどういう通訳をしてるんだろう…といぶかしむんだ。ここは喜ぶであろう場面だったからである。
「…では、退院のことや事務的なことは受付で。気をつけて本国に帰ることが出来るよう、祈っています。お大事に」
そういってミッターマイヤーも他のスタッフも出ていった。
『先生、ありがとうございました。』
大きな声でお礼を言うアリスを見て、ありがとうくらい英語で言えないのか、と突っ込みたくなったが、火村はそれよりもしなければならないことがあった。
『アリス、ちょっと待ってろ』
『えっ、どこ行くん?』
その質問には答えず、火村はミッターマイヤーを追いかけた。
火村とアリスは、旅行を中止し、シカゴから日本へ直行するためにその日はシカゴ市内のホテルに泊まることになった。
『…傷は痛まねぇか?』
やたらと優しい火村に、アリスは少しこそばゆさを感じながら、出来るだけ元気良くうんと答えた。
『君こそ、痛くないん? 縫うたんやろ?』
そういいながら、アリスは火村の額の包帯にそっと手を当てた。火村はその手を外して自分の手の中に納め、ゆっくりと撫でていた。
『俺のことはいい。とにかくえらい災難だったな。お前は頭打ってるんだ。ゆっくり休め』
『大変やったなぁ、火村…。君も頭切ってるけど、意識なくなったりせんかった?』
『俺は、平気だ。それに、優秀な外科医がお薦めの学生さんに縫合してもらったから』
苦笑しながらそういう火村に、アリスは笑っていいのか、怒るべきなのか悩んだが、とりあえず火村が怒っていない様子に同調した。
『あのセンセ、なんか君みたいに無表情やったけど、キレイな目してたなぁ、見た?』
”俺みたいに無表情?! とんでもないぞ、アリス。あいつがすげー顔したの、お前知らないからそんなこと言えるんだな。それに、あの瞳を見たどころか、真正面から思いっきり睨まれたぜ”
自分も睨み返していたことを棚に上げて、憎たらしいが確かにいい男だと思った相手を思いだしていた。
『でも、ミッターマイヤー先生は、ホワンとして優しそうやったな。何て言うてるのか、わからんかったけど』
火村はアリスがおそらくは無意識にあの二人のドクターを意識していることに気がついた。
”ま、鈍感なアリスが二人について、わかっているとは思えないけどな…”
『日本に帰ったら、あとは帰って休むだけだ。もう病院はごめんだからな』
”もう会うこともないだろう…。珍しい瞳にも。優しい小児科医にも”
火村は、アリスが退院するとき、ミッターマイヤーに謝りに行ったのだ。自分の行動があまりにも感情的で、八つ当たりをしていたことを反省し、素直に謝った。
ミッターマイヤーは、確かにアリスが言うように、ホワンとした笑顔で、気にしないで下さい、と言った。どこから見てもいい人そうな彼が、なぜロイエンタールなんぞに…などと考えてしまった。火村が謝った時、ロイエンタールがミッターマイヤーの後ろに立っていた。
”無表情にも見えたが、あの顔は絶対に好意的でなく笑っていたぞ。そう言い表せばニヤリ、といった感じで…。ちくしょう…”
夜中に、隣で規則正しい寝息を立てるアリスを横目に考えついたことがあった。
ロイエンタールにミッターマイヤーは不釣り合いな気がする、と考えていたが、もしかしたら、自分とアリスも同じなのではないだろうか。
ミッターマイヤーがアリスに似ている、とは思わないが、おそらく火村にとってのアリスという存在は、ロイエンタールにとってのミッターマイヤーに当たるのだろう、と。
似ている、と考えるのはおもしろくはなかったが、どこか似ているから、ロイエンタールと自分が、お互いのことをなんとなくわかったのではないだろうか。
”磁石で言えば、ロイエンタールや俺はS極、ミッターマイヤーとアリスはN極で、S極にはN極に惹かれて、S極同士は反発するんだ。 ……ま、いいか。もう会うこともないだろうし…”
火村は自身がかなりロイエンタールを意識していることに気がついていなかった。
列車事故から、丸1日半。火村もアリスも身体の調子も悪くなく、そのまま飛行機で日本に帰るところだった。空港へ向かうべく、ローカル線に乗ろうと階段を昇ろうとしたとき、アリスは視界の端に見覚えのある蜂蜜色の髪を認識した。
『ミッターマイヤー先生や…』
それはやや遠目であったが、間違いなくミッターマイヤーであり、隣にはロイエンタールが赤ん坊を抱いて一緒にゆっくり歩いていた。
『ロイエンタール先生の子どもなんやろか?』
『さあな。そうなんじゃねぇか? 抱いてるんだから』
火村は知っているくせに、アリスには話そうとしなかった。
『今から出勤かな』
『さあな』
そんなことよりも、早めに空港に行きたい火村は、会話を打ち止めようとしていた。しかし、アリスはその3人の姿から目を離さず、挨拶に行って来る、と階段を降りてしまった。
『おい、アリス! バカ 走るなって!』驚くほど早く3人ももとへたどり着いたアリスは、二人に日本語でお礼を述べた。ロイエンタールもミッターマイヤーも『ありがとう』くらいはわかる。昨日の朝まで意識がなかった青白い顔も、今は頬に赤みも差し、元気そうだ、とミッターマイヤーは安心した。
アリスは、二人のドクターの顔を見渡した後、ロイエンタールの腕の中の赤ん坊に目が行った。
『えっと、名前は…えー、』「名前は?」
ようやくその一言だけ英語で話すことが出来たアリスに、ミッターマイヤーはフェリックスと教えた。
近くで見ると、ロイエンタールもミッターマイヤーも目の下にクマを作った疲れた顔をしていた(夜勤明けだったのだ)が、フェリックスは一人ニコニコ元気そうだった。フェリックスは自分を見つめている見知らぬ人に、笑顔を向けていた。
『えー、フェリックス君を…抱っこ…って何て言うんやろ…』
そこへ火村が後から来たので、通訳を頼もうとした。
『止めておけ、アリス。落っことしたら、この瞳に睨まれるだけじゃ済まされないぞ』
アリスは反論出来なかった。落として責任取れるものではないのだ。しかし、東洋人から見て、欧米人の赤ん坊は天使にも見え、かわいくて仕方がなかった。
『かわいいですねぇ…』
その言葉は日本語のままだったが、アリスが言いたいことはなんとなく二人にも伝わり、ロイエンタールはほとんど表情を変えなかったが、ミッターマイヤーは「そうでしょう?」と言い、破顔した。そして、ロイエンタールからフェリックスを奪い、アリスに手渡した。アリスは突然両手に重たい赤ん坊をもらい、とまどったが、不安定な抱き方ながらもフェリックスも笑い、アリスも笑いかけた。
火村は内心、普通「かわいいですね」と言われて「そうでしょう?」なんて言うかな、などと考え、親バカな雰囲気をまとったミッターマイヤーをひそかに見つめていた。
”いや、二人とも親バカか…”
ミッターマイヤーとアリスが、通じないなりにも二人で話しているので、ロイエンタールと火村は手持ちぶさたになった。
「昨日は世話になりました。」
火村は、一応改めてお礼を礼儀正しく言った。アリスがお礼を言って、自分が述べないのもおかしいと思ったからだ。
「いや…こちらこそ失礼した。」
何を失礼と思ってるんだか、と思いながらも、どうやらお互い、”なぜまた会ったんだ?!” という顔をしていた。しかし、アリスがフェリックスを離さないので、立ち去ろうにも立ち去れない。
こちらの二人は会話も続かず、お互いの大事な人を眺めていると、アリスがフェリックスについて質問していた。
『ロイエンタール先生のお子さんですか?』
「ええ」
アリスの身振り手振りの質問を、ミッターマイヤーは理解したらしい。即答した。しかし、その後ロイエンタールまで答えた。
「俺達の息子だ」
ロイエンタールは英語がわからないらしいアリスにゆっくりと発音したため、アリスにも聞き取れた。しかし意味がわからなかった。
また、その答えに驚いたのは、アリスだけではなかった。俺達、と2人称にされたミッターマイヤーもかなり驚いたのである。
『俺達の子…って言うたよな…』
火村に確認するようにアリスがそちらを向くと、火村はただ右の眉と唇の端をひょいっと上げただけで、肯定も否定もしなかった。
『ほなら…どっちが産まはったんですか?』
さすがにこの日本語は面と向かって言われても、ロイエンタールにもミッターマイヤーにもわからなかった。火村が何が何でも通訳しない、と心に誓った瞬間でもあった。
”バカアリス…”またミッターマイヤーとアリスが二人の会話に戻ったあと、今度はロイエンタールから火村に話しかけた。
「アリスは、変わっているな。フェリックスは最近、初対面では人見知りするんだが…」
実際フェリックスはアリスに対して負の感情は持っていないらしい。初対面で抱かれても、笑っていた。
「別に変わっているわけじゃない。アリスがそういう奴だってだけだ」
変わっている、と言われたことが気に入らない火村は、目線をフェリックス中心の3人に向けたまま訂正した。ロイエンタールは特に気にしなかった。
ロイエンタールの目から見て、アリスはせいぜい20歳くらいにしか見えなかった。カルテからするとそれより10歳も年齢は行き、しかも自分より年上だということが、どう見ても信じられなかった。対する火村は、アリスよりは年齢相応に見えたが、しかしやはり東洋人は若く見える、とつくづく感じたのだった。
「子どもは好きか?」
突然ロイエンタールはそんな質問をした。
「…考えたことないな。でも俺は子どもには懐かれるぞ」
「…ほう…?」
ロイエンタールはその眉を少しあげ、意外そうな顔をした。そして、アリスが抱いていたフェリックスを連れてきて、火村の腕に抱かせた。
「フェリックス。このおじさんは好きか?」
父親であるロイエンタールが聞くと、フェリックスは何となく火村の顔を見た。その時の火村は、それこそ慣れない赤ん坊の抱っこにとまどい、アリスと同じく不安定であった。
そして、フェリックスは泣き出したのである。
『あれ…フェリックス。よーしよし』
いくら火村が英語が堪能といっても、赤ん坊をあやす言葉はすっとは出てこなかった。火村なりにフェリックスを抱いて揺すってあやそうとしたが、いったんついたその火は消えそうになかった。
そこでなぜか満足そうな表情のロイエンタールがフェリックスを奪い返した。
「赤ん坊はいいぞ。自分が変わる。これは真面目な話だ。…特に、俺やお前みたいな男にはな」
フェリックスを腕の中であやしながら、突然真面目な顔でロイエンタールは火村だけに聞こえるように言った。火村は、なぜこんなに話がコロコロ変わるんだ、こいつは、などと思いながら、だんだん泣きやんでいく赤ん坊を見て、なんとなく寂しかった。
”アリスが抱いても泣かなかったのに…”
「火村、聞いているか?」
「あ、ああ。聞いてるよ。だけどそれは無理だな。俺は一筋でね」
遠回しに嫌味を含んだ口調で、ロイエンタールの浮気、少なくともこの2年以内にミッターマイヤーではない女性と交渉を持ったことがあるはずの男にそう言った。
「…だったらアリスに産んでもらえ」
「……」
そういう考えが浮かぶのは、アリスだけじゃなかったのか、と火村は本当に驚いた。
”変な奴…”
2週間後、ERのロイエンタール、ミッターマイヤー宛てに手紙が届いた。
ER内でお世話になった、というお礼の手紙と、それぞれのドクターとの記念写真が何枚か入っていた。ミッターマイヤーは喜んで家に持ち帰り、ゆっくりとその手紙を読んだ。その手紙は、お世辞にも正しい英語とはいえなかったが、感謝の気持ちが読みとれ、ドクターとして、これほど嬉しいことはなかった。
「オスカー、見たか? お礼を言いに来る患者なんて、珍しいよな」
その海の向こうにいる珍しい患者の心からの気持ちと、包帯を巻いた患者とフェリックスの写真などのおかげで、満面の笑みを浮かべたミッターマイヤーが、楽しそうに言った。
その写真のほとんどは、ミッターマイヤーとアリスとフェリックスであった。ただ1枚だけロイエンタールと火村の写真があり、これ以上ないほど無愛想でおもしろ味のない写真だった。
しかし、ミッターマイヤーはその写真がとても気に入った。
”なんとなく似てる…気がしたんだよなぁ…俺に殴り掛かろうとしたし、ホットな奴なのかと思ったら…、アリスが元気になった途端、クールな表情でいたけど…。でもフェリックスを必死であやすときの顔なんて…まるでフェリックスが来た頃のオスカー…”
思いだしては一人笑ってしまうミッターマイヤーに、ロイエンタールは冷たい視線を浴びせた。
そして、その無愛想な男性二人に写真を見て、ますます憮然とした。
”こんな写真のどこがいいんだ…”
髪や瞳、肌の色は全然違っていたが、身長も表情も、そしてその態度もよく似ている、と認めたのは、本人達以外であった。
アリスを思いだしたミッターマイヤーは、あの時聞けなかったことを話し出した。
「オスカー、…俺達の子って…、どういうことだ?」
突然のそんな質問に、少し驚き、返事の変わりに聞き返した。
「そのままだろう?」
「…そのままって言っても…。お前とエルフリーデさんの子で、俺は…保護者…なのかなって思ってたんだけど…」
ミッターマイヤーは、フェリックスにとって自分がどういう存在なのか、はっきりする事が出来ないでいた。父でもなく、母でもなかったからだ。そう言いたいらしい雰囲気を察したロイエンタールは、はっきりさせておこうと言った。
「フェリックスの父親は俺だ」
一つ一つゆっくり確認するように話し、ミッターマイヤーもその度に頷いた。
「ウォルフ、お前は俺の伴侶だ。ならば、俺達の子だろう?」
最後の部分で頷けなかったミッターマイヤーは、だから自分は結局はフェリックスの何なのだろう、と床を見ながら考えた。
「…例えばあやすときにさ…。パパですよ〜とかって、お前は言えるけど…。俺はウォルフだよって言うのかなぁって思って、今までそうしてきたんだけど…」
「…なるほど」
そう言ってロイエンタールまで考え始めた。
「ウォルフ…俺は思うんだが…呼び名はウォルフでいいだろう。俺もオスカーと教える。血のつながりよりも、愛情という点で、お前は素晴らしい父親だと思うしな。俺が父親で、お前が伴侶だからといって、母親だと言う必要もないだろう」
ミッターマイヤーがそんな寂しい気持ちを持っていたことに、ロイエンタールは気づかず、悲しませていたな、と反省した。そしてこれこそ、早くに言うべきだったことを遅まきながら口にした。
「俺達は家族なんだ。そうだろう?」
「…オスカー…」
その会話から自然と続いた伴侶の睦言のあと、送られてきた手紙の最後の文章をミッターマイヤーが読み上げた。
「オスカー…お前に質問だぞ」
「…なんだ?」
「P.S ロイエンタール先生。どうやったら俺が子どもを産めるようになるのか、教えて下さい。…ってさ。…どういうことだ? 何かのスペルミスかな…?」
話が全く見えてこないミッターマイヤーに対し、ロイエンタールは心の中で笑った。自分が火村にそう言い、おそらく火村からアリスに伝わったのだろう。そして、あのアリスならば、そう考えるかもしれない、と思ったからだ。
”しかしもしかしたら、これは火村をからかった俺への火村からの反撃なのか…”
とにかくロイエンタールは返事は出さない、と言った。
遠い日本の空から、火村が唇の端だけで笑っている気がしたロイエンタールだった。
その後、なぜか気が合ったらしいミッターマイヤーとアリスは、文通友達として手紙やメールを出し合うようになった。その内容は、アリスは火村についての話が多く、ミッターマイヤーはほとんどがフェリックスについてであった。
夕陽丘のマンションの壁には、自分の子でもないドイツ人の赤ん坊の写真だらけになり、そこを頻繁に訪れる火村としては、忘れたいと思っているシカゴの金銀妖瞳を忘れられなくなってしまった。
1999. 10. 7 キリコ
2000.12.21改稿アップ