「アルっ!アルっっ!!」
どんよりとした雲の下、シカゴの街を駆け抜ける救急車。歩道から視線を送る人々にとっては日常の出来事でも、乗っている人々には生死すらかかる一瞬である。周囲を蹴散らすように走る一台に、本来ならば「仕事」として乗っているはずの人間が、わずかな望みを賭けて病院へと向かっていた。
シカゴ、聖ジョゼフ病院救急救命室。瀕死の患者とその関係者、という人々には慣れているERのスタッフも、今回は少し勝手が違った。普段以上に空気が重苦しいのは、天候のせいばかりではない。
「やりにくいな」
的確な処置を施しながら、ロイエンタールは口の中で呟いた。今看ている患者は消防士。取り残された子供を救おうと無茶な行動に出た同僚を助けるため、危険を承知で炎の中に飛び込み、結果として自らが重傷を負ってしまったのだ。
ERの外では、彼の仲間が重苦しい沈黙と共に佇んでいた。ただ1人だけ、オレンジ色の髪をした背の高い青年が落ち着きなく廊下を歩きまわっている。
「落ち着け、ビッテンフェルト」
年配のキャプテンが青年をたしなめた。だが、彼自身やり場の無い気持ちを抱えている事が、その声に滲み出る。待合室で待つように、と一度は言われたのだが、ある予感が彼らをそこに釘付けていた。
的確な処置と言っても、この状態の患者にできることは限られている。要するに、ロイエンタールほどの優秀な外科医でさえほとんど手の施しようの無い状態であった。隣の部屋で同僚の小児科医が子供を診ているのが視界の隅に入る。ロイエンタールが担当している消防士が、文字どおり命懸けで救った子供だ。
「Dr.ロイエンタール」
彼と一緒に処置にあたっていたヤンが、ロイエンタールの注意を促した。
「せ、んせい・・・」
最後の力を振り絞るように、患者が笑顔を作っている。
「もう、良いです・・・。話、したい・・・皆呼んでくれますか?」
ロイエンタールとヤンが目を合わせた。軽く頷いたヤンが部屋の外へと向かう。煤に汚れた消防士たちが、まるで自分達が死人であるかのような表情でERへと入ってきた。
「よくやったな。アルバート」
キャプテンの言葉に、アルバートと呼ばれた患者は嬉しそうな顔をした。
「子・・・供は?」
「貴方のお陰で、かすり傷一つありません」
何時の間にか入ってきたミッターマイヤーが優しく声をかける。だが、その瞳は悲しみの色をしていた。助けられた一つの命。そのために失われていくもう一つの命。
「良かった・・・おい、フリッツ」
アルバートの視線が動き、部屋の隅で俯いているビッテンフェルトに小さな声で呼びかけた。ビッテンフェルトの顔が上がる。アルバートが危険を冒したのは、炎のような髪をした、同僚で親友の消防士を助けるためでもあった。
「アル・・・」
「もう、無茶するな・・・俺がいなくなったら、誰もお前を止められない・・・」
「アル・・・何言って・・・」
半ば本気で理解できない、という表情でビッテンフェルトが応えた。他の消防士たちの心に、更なる痛みが走る。
「・・・わかったな・・・」
それがアルバートの最後の言葉だった。穏やかな微笑みのまま、ゆっくりと目が閉じられ、心電図の波形がみるみる変わっていく。ERスタッフの動きが慌しくなる一方、消防士達は誰一人動こうとしなかった。
「死亡時刻、2月4日15時31分」
いくつかの踏むべき手順を踏んだ後、ロイエンタールが敢えて抑揚の無い声で告げた。その瞬間、
「嘘だ!」
ビッテンフェルトの周りで嵐が起こった。猛然とロイエンタールに掴みかかり、声を張り上げる。
「まだ助かる、そうだろう?!」
「お、落ち着いて」
慌てたミッターマイヤーが間に入ろうとしたが、逆効果だった。小柄な体が、190cmを越えるであろうビッテンフェルトに吹き飛ばされる。そしてそれを見た途端、自分に対する行為には眉一つ動かさなかったロイエンタールの顔色が180度変わった。瞳に危険な光が宿る。だがその時、
「やめなさい。君が暴れた所で、彼が戻ってくるわけじゃない」
大きくはないが他を圧する強さを持った声がビッテンフェルトの動きを止めた。
「それに、君だってこの勇敢な友人の前で醜態を晒したくはないだろう」
ヤンがいたわるような表情でビッテンフェルトを諭す。ビッテンフェルトの手がロイエンタールから離れ、壁に頭をぶつける羽目になったミッターマイヤーも、看護士の手を借りて立ち上がった。
「・・・ご迷惑をおかけしました」
キャプテンが精一杯の感情を込めて謝罪を口にした。数瞬の後に、ビッテンフェルトも拳をを握ったまま深々と頭を下げた。オレンジ色の髪の下で、涙が頬を伝っていた。
事件から数日。
一見何事も無かったように、消防署は日々の仕事に追われていた。彼らの思いとは別に、彼らを必要とする事件や事故は絶えず発生するのだ。それぞれが自分が従事する仕事の危険性を再認識する一方で、ビッテンフェルトの事を責めようとするものはいなかった。実際責めるつもりは誰にも無かったし、本人が1番傷ついている事は明らかだったからである。しかし、他の消防士達の、同情と哀しみを混ぜた視線は、正面きっての非難よりもビッテンフェルトにとっては辛かった。
そんな中、アルバートの抜けた穴を埋めるため、新たに消防士が配属された。
「ナイトハルト・ミュラーといいます。よろしくお願いします」
年相応の若々しい顔立ちと、年齢に不釣り合いなぐらいに落ち着いた雰囲気を持つ青年が、ビッテンフェルト達の新しい同僚だった。砂色の髪と瞳をした彼は、あっという間に新たな職場に慣れ、ベテランの消防士達にも負けない活躍を見せた。
「ミュラーが前にいた所の署長が、彼を手放したがらなかった理由がわかったよ・・・もっとも、こっちも簡単に手放す気は無いがな」
そう言って署長が豪快に笑ったほどである。
だがそんなミュラーにも、1つだけ解決できない問題があった。パートナーとも言えるビッテンフェルトと、上手くコミュニケーションが取れないのだ。2人の能力故か、特に仕事に支障が出たりはしないものの、誰の目から見ても深刻な問題である。
勿論ミュラーはどんな事情があって自分が異動してきたのか知っていたし、ビッテンフェルトとアルバートの親友と呼べる関係についても聞いていた。そして、その件でビッテンフェルトを傷つけたりする事の無いよう、細心の注意を払っていた。他の同僚達も、彼らの間が上手くいくように気を配り、さらにビッテンフェルト自身努力はしているつもりなのだが、それら全てが空回りしているようだった。
「本当は、ああいう奴じゃないんだがな」
「普段は陽気でばか正直で騒々しくて・・・でも憎めない良い奴だよ」
顔や言葉に出さない分、心中で悩んでいるであろうミュラーに向かって、同僚達はそんな言葉を掛けるしかなかった。
「あれ、NHLですか?」
ミュラーの配属から約20日。夜勤の休憩代わりに1人でTVを看ていたビッテンフェルトへ、コーヒーカップを片手に持ったミュラーが声をかけた。
「ペンギンズ対セーバーズ。セーバーズが2−1で勝ってる」
ぶっきらぼうに答えるビッテンフェルトには構わない様子で、ミュラーもTVの前に椅子を引っ張ってきてそれに座ると、目を輝かせて画面を見つめる。普段は見られない子供のような表情に、ビッテンフェルトは驚いた。
「・・・好きなのか?」
「は?」
突然の質問に、ミュラーがビッテンフェルトを振り返った。
「あ、いや、だから、ホッケーが好きなのかって・・・」
「えぇ、大好きです。高校までずっとクラブに入ってたんですよ」
「そうか、俺もだ」
「え、じゃあどこかで会っているかもしれませんね」
にこにこと笑うミュラーにつられて、ビッテンフェルトも自然と笑顔になる。
「そうだな、で、ポジションは?」
「小学校以来、ゴールテンダー(GT)一筋です。だから、やっぱりGTの動きが気になって。セーバーズのGTは素晴らしいですよね。オリンピックも彼のお陰で・・・」
ミュラーの声が熱を帯びる。放っておくと、いつまでも話し続けそうだ。
「・・・そんなに好きなのに、どうしてやめたんだ?」
話の合間にふと浮かんだ疑問をビッテンフェルトが口にした。途端にミュラーの顔がいつもの大人びたものになる。
「大学に入ってから忙しくなってしまったもので」
実はミュラーの両親は、彼が高校生のときに亡くなっていた。弟と妹を抱えて、一度は就職を考えたものの、「大学を出ておいた方が、将来的には有利だから」という親戚の厚意で、最終的に地元の州立大学に進学した。そこでさらに奨学金を得、アルバイトに精を出しつつも、毎学期上限ぎりぎりでクラスを取り、3年で、しかも優秀な成績を残しつつ卒業したのである。「いつ勉強しているのかわからない」という友人達の声はもっともなものだった。
「ふぅん、そうか・・・」
その表情から察したのか、ビッテンフェルトはそれ以上何も言わなかった。
「良いお天気ですね」
消防車のフロントガラスを磨きながら、ミュラーが気持ち良さそうに言う。
「そうだな。建物の中にいるのが勿体無いぐらいだ」
3月上旬、まだまだ空気は冷たいが、青空の中の太陽は随分と春らしくなってきた。
先日の夜勤でホッケーの話題に盛り上がって以来、2人は急速に親しさを増していた。正反対の性格だったが、年下のミュラーが上手くビッテンフェルトの激しさをコントロールしているのかもしれない。何にせよ、周囲はようやく一安心する事ができた。
「アルも、こういう天気が好きだったな。よく仕事なんて放り出して、その辺で昼寝したいって言っていた・・・」
ビッテンフェルトがミュラーの前で亡くなった親友の事を口にしたのは、これが初めてだった。モップを動かす手を止め、どこか遠い所を見るような目をする。ミュラーはわざと気付かない振りをして、フロントガラスを磨き続けた。
「こういう青空みたいな奴だった。いつもいつも元気で・・・。誰からも、散歩の途中の犬からだって好かれてたさ。仕事だって、俺なんかよりよっぽど優秀だったし・・・あいつはあんな所で死ぬような奴じゃなかったんだ」
ミュラーの手が止まる。
「あいつはあんな所で死ななきゃいけないような奴じゃなかったんだ。それなのに、俺が・・・俺があんな事をしたから・・・」
傷を自ら抉るようなビッテンフェルトにかけるべき言葉を、ミュラーは必死に探した。しかし、出てきたのは適当とは言い難いものだった。
「でも、ビッテンフェルトさんも子供も、彼のお陰で助かったのでしょう?」
アルバートは友人を救いたいという彼自身の意志で動き、結果として不幸な事になってしまったのであり、決してその行動を後悔してはいないはずだとミュラーは思っていた。そしてそれを伝えたかったのだが、彼が選んだ言葉はあまりにも少な過ぎた。
「お前に何がわかるっていうんだ!!」
車庫内に響き渡るような音量で、ビッテンフェルトがミュラーに怒鳴った。他の隊員達が何事かと振り返る。彼らの視線の先で、ビッテンフェルトが握り締めた手を震わせながら、ミュラーは石のように固まったまま、立ちつくしていた。
実の所、ビッテンフェルトは怒鳴りつけるつもりはなかった。自分が発した音に、自分自身でも驚いていた。けれども、砂色の瞳の奥に傷つけられた心を見た瞬間、後には引けなくなってしまっていたのだ。
「なにも、知らないくせに・・・」
低く、うめくように呟くと、ビッテンフェルトは踵を返し、足早に車庫から出ていった。1人、取り残されたミュラーを、同僚達が遠巻きに見つめていた。
一旦良い方向へと向かった関係は、再び止まってしまったように見えた。
ビッテンフェルトはあの時感情に任せてミュラーを怒鳴りつけてしまった事に対して自己嫌悪に陥り、充分に反省していた――結局怒りは自分に向けられたものであり、ミュラーはそのとばっちりを受けたに過ぎない――のだが、「すまなかった」の一言を言うタイミングを上手く見つけられないままだった。亡くなったアルバートは良くも悪くもビッテンフェルトと似たような性格で、口論から殴り合いまで喧嘩が絶えなかった分、仲直りも速かった。しかし、ミュラーの場合今までとは勝手が違う。仕事上のパートナーとしての役割を完璧にこなす一方で、ますますその感情を物静かな表情の下に隠すようになってしまったミュラーに、どんな態度をとれば良いのか、ビッテンフェルトはわからなかったのである。
他方で、ミュラーも困惑していた。怒鳴りつけられた事に、確かに傷つきはしたものの、それよりも嫌われてしまったのではないか、という不安の方が強かった。万人に好かれるつもりはないし、仕事におけるパートナーとして割り切る事も可能なのはわかっていたが、ミュラーはビッテンフェルトに嫌われたくない、むしろ良い友人となりたい、と何時の間にか思うようになっていたのだ。同僚から聞く為人はともかく、なにより仕事の合間に見せる真摯さと優しさはとても魅力的だった。
結局2人とも小さな一歩を踏み出せば済むところを、嫌われたかもしれない不安だけが先行し、お互いの顔色を伺う事しかできない日々が数日間続いた。
たとえ消防士達が不毛な思いに囚われていようと、容赦なく火事は起こる。言いたい事を言えないまま、その日も911の通報で、2人は他の隊員と共に現場へと急行していた。
貧困層の住むアパートメントが密集する一角で、不吉な黒煙が上がっている。狭い路地に阻まれて消防車の到着が遅れる間に、炎は貪欲に全てを飲み込んでいく。やっと放水が始まり、住人の避難を確認している最中、若い女性が半狂乱でアパートへと駆け込もうとした。
「子供が、3人が中にいるの! 誰か助けて!!」
消防士に抑えられてもがきながら、女性はなおも叫び続ける。
「お願い、5階よ、助けて!!」
その叫びに、見物人のほとんどが絶望的な表情を見せた。3階付近から出た火は、すでにに5階への進入を果たしていた。
(またこれか!)
ビッテンフェルトの脳裏に、数週間前の出来事がよみがえる。アルバートを亡くした状況は、今回の現場に良く似ていた。
(もう、二度と・・・)
ひたすら与えられた役割を果たすだけのビッテンフェルトの横で、キャプテンが判断に迷っていた。彼の頭にも、先日の事件は大きな影を落としたのである。そして、その間にも女性は狂ったように助けを求め続ける。
正確には10秒も経っていなかったであろう。だが、一瞬の判断を求められる現場では長い時間だったかもしれない。
「おい、待て!」
突然1人の消防士が建物の中へと駆け出した。キャプテンの指示を待たずに動くなど、誰もが「またビッテンフェルトか」と思ったが、彼らの予想は外れていた。
「ミュラー!何を・・・!!」
そう叫んだのがビッテンフェルト本人だったのである。一瞬の驚愕の後、キャプテンとビッテンフェルトの目が合った。そして、キャプテンが何か口にするより早く、ビッテンフェルトはミュラーを追って走り出していた。
「どうしてあんな事をした?」
低い声でビッテンフェルトがミュラーを問いただす。
幸いにも子供達のいた部屋までは火の手は達しておらず、他の隊員の援助もあって、彼らはなんとか子供達を助け出す事ができた。なんとか、と言うのは、救出の際ミュラーが腕に軽傷を負ったからである。「大した事はない」と言い張るミュラーにキャプテンは「子供たちと一緒に、念のため病院へ行ってこい」と言い、ビッテンフェルトに付き添うよう命令した。聖ジョゼフ病院のERで、子供たちはミッターマイヤーとバイエルラインが、ミュラーの傷はロイエンタールがそれぞれ担当していた。
「あの・・・」
「あ、いたいた」
ミュラーが答えるより早く、ミッターマイヤーがドアから顔を覗かせて彼らに声をかけた。
「子供達は皆元気ですよ。消防士さん達にありがとうって」
「そうですか。良かった」
2人の表情が緩む。
「・・・ERのドクターも頭にこぶを作らずに済んだしな」
ロイエンタールの冷ややかな呟きに、ビッテンフェルトが顔を真っ赤にした。
「あ、あの時はすまなかった・・・」
「俺ではなく、Dr.ミッターマイヤーに謝れ」
「そんな、全然気にしていませんから」
ミッターマイヤーが苦笑する。実際ミッターマイヤーはこぶの事などすっかり忘れていた。「余計な事を口にするな」と逆にロイエンタールを睨んだほどだ。ロイエンタールは涼しい顔をしていたが、彼としては2・3発殴ってやりたい所だったのを、嫌味の1つで済ませたのである。
「・・・終わりだ。3日後、もう一度来るように」
そう言って椅子から立つと、ロイエンタールはミッターマイヤーと一緒に部屋から出ていった。2人の消防士が残される。
帰り支度をするミュラーの正面に座り直し、ビッテンフェルトは再び問いただした。
「どうして、あんな無茶をした」
「どうしてって・・・」
「わからないのか?一歩間違えれば死んでいたんだぞ!また、俺に・・・」
その先は続かなかった。唇をかみしめ、ミュラーの視線から顔をそらす。そんなビッテンフェルトを見て、ミュラーの顔がわずかに綻んだ。
「でも・・・知っていましたから」
「え?」
「知っていましたから。ビッテンフェルトさんが僕を助けに来てくれる事を」
「思っていた」でも「信じていた」でもなく、「知っていた」。ビッテンフェルトは必ず自分を助けに来る。だから躊躇いなくあの炎の中に飛び込んでいけたのだ。
実はミュラーがビッテンフェルトに助けられたのは今回が初めてではない。正確にはミュラーの弟だが、火事に巻き込まれた所を間一髪でビッテンフェルトが救った事があるのだ。当時大学生だったミュラーは、彼の姿に消防士を志す事になる。ビッテンフェルトは救助した人の事をいちいち覚えてはいないし、ミュラーもわざわざそれを口にする気はなかったが、ミュラーのビッテンフェルトに対する信頼は、そこから始まっていたのだ。
ミュラーの言葉に、ビッテンフェルトは数秒間何か言いかけては止めた後、盛大にため息をついた。
「・・・フリッツでいい」
「?」
「名前だ。ラストネームなんかで呼ぶな。フリッツでいい」
「はい!」
満面の笑顔でミュラーが答える。その顔を見て、ふとビッテンフェルトが眉をひそめた。
「どうかしましたか?」
「あ、いや・・・何年か前に弟のホッケーの試合を見に行ったんだが・・・」
突然飛んだ話題に、今度はミュラーが変な顔をする。
「その時の敵のGTがものすごく上手くて、俺の弟は結構良いフォワードだったんだが、結局1点も入れられないで、試合そのものも完封負けだ。弟はかなり口惜しがっていた」
「はぁ・・・」
「俺も口惜しかったが、試合が終わった時のそのGTの笑顔は今も忘れられない。試合中の気迫なんて嘘みたいな、優しい笑顔だった」
そしてまた、ビッテンフェルトも優しい笑顔になる。
「やっと思い出した。ナイトハルト・ミュラー、この辺じゃ有名なGTだ。俺も一度対戦してみたいと思っていたんだが、こんな所で会うなんてな」
「昔の話ですよ」
肩を竦めてミュラーが言った。照れているようでもあり、少し寂しそうでもあった。
「何時の間にか話をきかなくなったと思ったら、やめてたんだな」
「それどころではありませんでしたから・・・」
「今は?」
「え?」
「今はそれどころか?」
ビッテンフェルトの真意がわからず、ミュラーは答えにつまる。するとビッテンフェルトはその辺から紙とボールペンを持ってきて、何か書き付けた。
「俺の所属してるアマチュアチームがそこで練習してる。暇だったら来い。・・・今、良いGTを探してるんだ」
ミュラーの視線が、ビッテンフェルトと渡された紙との間を忙しく往復する。みるみるうちに、困惑が笑顔――ビッテンフェルトに強い印象を残したあの笑顔――に変わっていった。
「はい!絶対行きます!!」
「うん」
ビッテンフェルトもミュラーに負けない笑顔を返す。
「あの、ところでチーム名は?」
「『ブラックランサーズ』なかなか強そうな名前だろ?」
・・・その後ブラックランサーズは、地元のアマチュアリーグにおいて、脅威の勝率を誇るようになる。
END
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