師 走
私は猫である。
そういう種類の生き物らしい。
産まれてすぐに親からはぐれ、同種に追われたり、死にかけたりしたこともあった。怪我をして迷い込んだ住宅街で、私は小さな人間に助けられた。「ファーター…ネコさん」
目も開けられないでいた私のそばで、小さな足音が聞こえた。近寄ろうとしたあとに、また遠ざかっていった。傷つけられなかったことにホッとして、このまま眠りにつこうとするとき、大きな手が私に触れた。
「…ひどい傷だ…動物病院に連れて行こう」
何か言って、私の体を持ち上げたらしい。私は抵抗もできずにいた。私が目を開けたとき、これまで生活していたような暗闇ではなく、妙に眩しい場所だった。体を動かす力はまだなかったけれど、視界に入るものを確かめることはできた。自分をじっと見下ろす人間が、私には珍しかった。この人たちは、私を傷つけるわけではないらしい。
少しぼんやりした頭でも、その中の1人の双眸が見開かれていたのを覚えている。なぜ彼が私に驚いたのか。それとも、生き返ったことを意外に思ったのか。
それから、私はこの家の猫になっている。その彼の家に引き取られたとき、始めは穏やかな空気がなじめなかった。部屋の隅でビクビクする私に、家人は根気よく相手をしてくれた。彼も、その奥さんという人も、もう1人の彼も、そして小さな彼も、誰も私を叩いたりしない。
そして、どうやら私の名前も決まったらしい。その名が私の名前なのだと、彼らが私のことを呼んでいるのだと、しばらく気づかなかった。
あれから3年。小さな人間が少し大きくなった。いつも遊んでくれるのは変わらない。奥さんという人もいつでも優しい。
けれど、彼だけが。
「ムッター…ファーターは動物は好き?」
「…どうしたの、フェリックス」
キッチンという、私があまり立ち入ってはいけない場所で、彼らの会話が聞こえた。
「だって……ツェーザルを抱っこしてるの、見たことない…」
「まあ…」とやわらかい声が、小さい彼に何か呟いていた。それは奥さんが顔を近づけたからで、私には内容はわからなかった。けれどしばらくして、小さい彼は笑顔になった。
「そっか、そうだよね! あ、ツェーザル、お散歩に行こう」
パタパタとこちらに走ってくる。私を見つけると、何かと構ってくれる。
外に出ると、季節を感じる。寒さに備え、冬毛に変わっていくがわかる。
空が高いと見上げると、小さな彼も同じようにする。
「もう冬だね、ツェーザル」
そうしてなぜだか彼は息を吐く。その息はまだ白くならない。
「年が明けたら、ボクは学校に行くんだ…これまでみたいに遊んであげられないんだ…ごめんね…」
かがんで私を撫でてくれる。目を閉じて、されるがままになった。
「ボクのね…ファーターがね…死んじゃった月なんだって…」
私を抱きあげて、小さな彼は告白する。その目を見上げると、彼もじっと見返してくる。
「ツェーザルみたいな…オッドアイだったんだって…」
よくわからなくて首を傾げると、彼は笑って説明してくれた。
「…左目が成層圏の色で、右目が黒曜石……って、青と黒かな…ボクは青い目なんだけど…ファーターはグレーの瞳だよね…」
じっと見つめたままでいると、彼は照れたように目をそらした。
「ごめんね…よくわかんない話して…」
こういうことは初めてではない。
私には人間の言葉を話すことはできないからか、私に内緒話をする人間は小さな彼だけではないのだ。
おそらく家内の誰も気づいていない、彼の告白。
もうすぐ12月という月で、この月の彼は私によく話しかけるのだ。
もう一つの、彼だけが呼ぶ名前で。
「ロイエンタール…」
夜行性の私は、リビングで月の光を楽しむことが多い。
毎年、この時期だけ、彼は真夜中に起きてきて、私の隣に座る。
そして、私を膝に抱き上げて、何度もその名を呼ぶ。「ロイエンタール…」
小さな彼がいっていたグレーの瞳でじっと見つめられる。
私のことを呼んでいるようで、そうではないのかもしれない。
人間の考えなど、私にはわからない。
けれど、毎年この月に、彼は私を見つめてくる。
どうやら、小さな彼のいう、青と黒の瞳を持っているらしい私を。私は猫である。
どうやって産まれたのかも知らない。
いつまで生きているのかもわからないけれど、これからもずっと彼のそばにいるのだろうなと思っている。
彼の手が、誰よりも優しく背中を撫でるから。「お前は…俺より先に逝くなよ」
彼が、そう願うから。
大好きなあなたへ
2006.12.16 キリコ