永遠の恋人
今日は12月16日。彼の命日だった。
反逆の臣である彼の一周忌など、公にあるはずもなく、彼の人となりを知る古い友人、同僚たちが心の中で彼に問いかけているとミッターマイヤーは信じている。ミッターマイヤーにとって、この一年はあまりにも多忙すぎて、彼について思い出す暇もなく、かえってそれが救いでもあった。しかし、ふとしたことで、生前の彼を思いだし一人グラスを傾ける日もあった。
遷都と同時にノイエ・ラントへ赴任していった彼との最後の逢瀬は、戦艦ブリュンヒルトの中であった。あの時はカイザーもご存命中であったな、とミッターマイヤーは自分達の行為の恐れ多さに驚くとともに、懐かしく、そして寂寥を感じずにはいられなかった。彼の生きた姿を見たのは、あれが最後であった。あの時は ”またいつか” とだけ思っていたのに、想像もつかなかった現実が訪れたのである。”俺には、ロイエンタールを止めることが出来なかった”
誇り高く、誰よりも強く、最後までロイエンタールであり続けたかつての恋人を、胸を痛くしながら思い出していた。ちょうど一年前、ノイエ・ラントに降り立ったミッターマイヤーは、物言わぬ躯になった恋人と対面した。
”俺は・・・奴を止められなかったばかりか・・・、間に合わなかった・・・”
デスクの上に、ブランデーの入ったグラスが2つ並べられていた意味が、部下達に想像がつくだろうか。オスカー・フォン・ロイエンタールが最期の瞬間会いたいと思っていたのは、他の誰でもないミッターマイヤーであり、それをわかっていたミッターマイヤーも必死でノイエ・ラントに向かったのだ。ロイエンタールが死ぬであろうことは、ミッターマイヤーにもわかっていたことであった。ただ、看取るなり、最後の一言を聞いてやりたかった。そ
のことへの後悔が、ミッターマイヤーの頭から離れることはなかった。”俺は、なぜ生きていられるのだろう? 奴なしでは生きていけない、そう思っていたのに・・・”
この命日の日、まだたった一年しか経っていないこの日、恋人を思い出しながらミッターマイヤーは眠ることが出来ず、一人窓の外を見ながらブランデーを傾けていた。冬の夜の空は空気が澄んでいて、星がよく見える晩だった。
”人は・・・死ぬとお星様になる、と昔の人は言っていた。
オスカー・・・、お前はどの星になったんだ・・・?”それは、人類がまだ太陽系から出ることが出来ず、星々をただ遠くに存在するもの、として認識されていたころの話であった。1つの銀河の中を自由に行き来出来る今では、星は近しい存在であり、憧れも想像も膨らまないものになってしまっていた。
しかし、ミッターマイヤーはその昔話を思い出し、どれかの星が、きっと恋人の転生の姿であることを祈りながら、星の輝きをじっと見つめていた。
突然、隣室のフェリックスの泣き声が夜の静寂を破った。ミッターマイヤーは我に返った、という感じで、慌ててフェリックスの元へ行った。先日からエヴァンゼリンがひどい風邪で寝込み、フェリックスの面倒はみられる限りミッターマイヤーがみていたのである。
フェリックス・ミッターマイヤーは、一歳半を過ぎ、運動神経の発達した父親に似たのか、歩くのも速く、言葉も同時期の幼児より発するのが速かった。そして、滅多に夜泣きもしない、いわゆる手の掛からない子であった。
そんなフェリックスが、まるで火がついたように、泣き叫んでおり、癇癪を起こしたのかと思うほど、珍しく泣いていた。
「どうした、フェリックス?」
低い優しい声で話しかけながらミッターマイヤーが抱き上げると、しゃくりながらもやや落ち着いたようだった。
しかしフェリックスはミッターマイヤーの方を見なかった。フェリックスの視線は、子ども部屋の小窓の方に向いており、おびえた真っ赤な瞳は、窓の外を見ているようだった。
「誰かいたのか・・・?」
フェリックスを庇うように抱きながら窓に近づいたが、外は静かで雪もそのままであり、特に変わった様子もなかった。
「どうしたんだ? フェリックス?」
改めて優しく聞くと、フェリックスは初めて養父の顔を見た。その表情には、見慣れた顔を見たことで安心したらしいことが出ており、まだ止まらないしゃくりあげを続けながら、養父の首に抱きついた。
「よしよし」
そう言いながら、気分を変えるためにも、先ほどまで自分が座っていたリビングの窓辺にフェリックスを連れていった。膝の上に座らせて、揺らしてやると、落ち着いてきたのか多少なりとも笑顔が見られるようになった。フェリックスはその小さな身体をミッターマイヤーに預けながら、窓の外を見ており、安心仕切った様子が感じられ、ミッターマイヤーもほっとながら、またグラスを口へ運んでいった。
しばらくそのまま静かに過ごしていたが、フェリックスが窓の外、空高く手を伸ばした。
「ファーター・・・?」
語尾を少し上げた疑問形の口調で、フェリックスは小さくても聞き間違いようもなくはっきりと言った。ミッターマイヤーは窓の外、フェリックスが指さした方向に大きく見開いたグレーの瞳をやった。
日頃フェリックスが『ファーター』と呼ぶのは自分のことであり、そして今フェリックスが発した『ファーター』は、同意を求めるものでもなく、『ファーター』に向かって『ファーター?』と聞いているのでもなく、どう考えも空に向かって『ファーター』と言ったのだった。
「フェリックス。なんだ? ファーターって・・・?」
フェリックスはとうに『ファーター』の意味を知っており、他の単語と間違えて使っているのか、ミッターマイヤーにはわからなかった。
養父の顔に顔を向けながら、フェリックスはまたはっきりと言った。
「ファーター。・・・ファーター?」
指は空の上を指したままであった。
先の『ファーター』が自分に向けられたものであろうことはミッターマイヤーにもわかったが、なぜ『ファーター?』と聞いてくるのかわからなかった。
フェリックスにとって、『ファーター』と呼べる存在はミッターマイヤー一人しかいない。
もう一人、発生学的な『ファーター』は、今やヴァルハラの住人である。その父には一度も抱かれることなくフェリックスは別れてしまったのだ。フェリックスが知っているはずはない。ましてエヴァンゼリンが教えるわけはない。
”では、誰がもう一人の『ファーター』のことを・・・?”
ミッターマイヤー夫妻に内緒で教えることが出来そうな人物は、そのヴァルハラの住人の『ファーター』しか考えられなかった。
「・・・オスカー・・・?」
空を見上げながら言ったミッターマイヤーの言葉に、フェリックスは大きな声をあげて喜んだ。
「キャッ、ア〜ッ!!」
身体を揺すりながら喜ぶ息子に、ミッターマイヤーは信じられない、という顔をした。これまでフェリックスの前で『オスカー』という言葉を出したことはなかったはずなのだ。
”なぜ喜ぶ? なぜ知っている?
・・・オスカー、お前が教えたのか・・・?”空の星を見比べたり、外の雪景色を見つめたり、そのグレーの瞳は、恋人を捜し求めていた。
”オスカー、来ていたのか・・・? フェリックスのところに・・・”ひょっとしたら自分のもとへも来てくれていたかもしれない。いや厚い信頼で結ばれた友人であり、同僚であり、最高の恋人だったのだ。来てくれたに違いない、とミッターマイヤーは信じた。そして、自分には何も感じられなかったことが歯がゆくてならなかった。赤ん坊の方が、つい先日までヴァルハラに近いところにいたため、感じやすい、というのは本当なのかもしれない、と現実主義なミッターマイヤーが思った。
「お前が羨ましいよ・・・。フェリックス。
・・・『ファーター』に会ったんだな・・・? それで驚いたんだな・・・。」
フェリックスに質問している、というよりは、自分に納得させているかのように、語尾の方は小さくなっていった。首を傾げて養父を見上げるフェリックスは、もう先ほどのことなど忘れてしまったかのようだった。
”ダメだ、フェリックス。お前の『ファーター』を忘れてはいけない。
もう少し、お前が大きくなったら、俺が話してやる、フェリックス・・・、オスカー・・・”ミッターマイヤーが再び空へ目を向けると、同じ仕草でフェリックスも空を見上げた。
冬の静かな空には、雲もなく、明るい月夜で、どこまであるのかわからない空の天井には星がすきまなく輝いていた。「フェリックス・・・。お前の『ファーター』は、あの星のどれかなんだ、きっと・・・。
いつもお前を空から見ているに違いない・・・。」
”俺のことも見守ってくれている・・・よな?”ミッターマイヤーはフェリックスを抱き直しながら言った。
「いつか、一緒に星になった『ファーター』を探しに行こう。フェリックス」
”結局俺は、オスカーのために生きていることになるよな? そうだよな、オスカー?”
フェリックスに実の『ファーター』が素晴らしい人物であったことや彼の生き様について語るため、そして息子と将来、星探しの旅に出るために生きていく、そう心に誓った。腕の中の息子はそばに感じられる『ファーター』のぬくもりに抱かれながら眠りに落ちたようだった。その寝顔はかつて見ていた恋人の面影をかすかに宿し、抱かれて眠る時の顔は同じくやすらかなものだった。ミッターマイヤーはエヴァンゼリンのいないときにフェリックスに唄ってやる子守唄を唄い始めた。
「お前の『ファーター』も、これで眠ったことがあるんだぞ。フェリックス・・・。
なあ、オスカー・・・」
そばに来ているかもしれない永遠の恋人と懐かしい思い出話をするために、用意したグラスを傾け、小さく乾杯し、膝の上に温かい愛しい存在を置いたまま、ミッターマイヤーはまた空を見上げた。
星の輝きは、恋人の返事のように見えた。
1999. 9. 2
再アップ2000.7.7