親友の風邪

 

 親友が風邪を引いた。
 単なる風邪ではなく、インフルエンザらしい。高熱を発し、倒れそうなのに、あくまでも欠勤はしない、もの凄い精神力だと尊敬もし、呆れもした。ふらふらうしながら、でも傍目にはあまりわからないように、軍事演習もそつなくこなしていた。心配で、集中がそちらに時々向いてしまう俺の方が散々たる成績で終わり、そんな自分を情けなく思った。

 そして、ロイエンタールは、明日は休み、という日の夜、心おきなくベッドの住人になったのだ。

 薄暗い一人用官舎でいる彼が心配で、夜通し看病するつもりで準備する。教え合っているパスワードでロイエンタールの部屋に入ると、シーンとした中に、ただ苦しそうな荒い呼吸が聞こえていた。そばまで寄って行ったが、目覚める様子はなく眠っているらしい。
 本当は起こして、食事や服薬を確認したかった。何でも一人でやってしまおうとする親友、そして何でも一人で出来てしまう器用な彼、こんなときくらい頼ってくれよ、とため息が出る。とにかく、せっかくの深い眠りを妨げることもあるまい、と俺も近くのソファに横になる。彼が手助けを求めたとき、すぐに対応出来るように。

 真夜中を過ぎた頃、うめき声に目が覚めた。のぞき込んだロイエンタールの表情は苦しそうで、顔中汗が浮かんでいた。汗を拭くようにあてた手のひらから、熱がほとんど下がっていないことがわかる。それにしても、このうめき様、起こした方がいいのだろうか、俺は躊躇った。
「…うっ……」
「おい、ロイエンタール?」
 小さな声で呼んでみた。気付いた様子はなく、俺は少し迷ってから、やはり彼を起こすことにした。掛けられた毛布の上から、彼の肩を揺さぶると、ほんの少しだけヘテロクロミアが見えた。
「…ミッターマイヤー?」
 低い掠れた声だったが、確かに俺を確認して呼んだようだ。一応視線をこちらに向けている。
「大丈夫か? ロイエンタール。薬は服んだのか?」
 全く改善していないのが不思議だったのだ。もしかして飲まず食わずで寝たのではないかと思ったのだ。ロイエンタールは一言だけ答えた。
「…水…を…」
 それだけ言って、枕に頭を沈めてしまった。それが今の彼の最も欲するものならば叶えてやらねばと飛んで行く。コップよりは飲みやすいだろうとペットボトルを冷蔵庫から出す。返って飲みにくいだろうかと一瞬悩んだが、それよりも速くと思い、手に取った方を持っていく。
 起きあがる気力もなさそうなロイエンタールの背中を支え、声を掛ける。
「ロイエンタール、起きれるか?」
 まるで首の座らない赤子のように、ロイエンタールの首は俺の胸に倒れ込んだ。起こした上半身を全て俺に預けきっていた。ロイエンタールは俺の「水だよ」という一言に、またうっすらと目を開けた。乾ききった口元に、ボトルの口を当てようとしたときだった。
「うっ」
 短く呻いて、いやそれは叫んだようにも聞こえたが、ロイエンタールは突然身を翻してしまった。暴れるように腕を振り回し、俺を押しのけ、背中をこちらに向けてうずくまってしまった。先ほどまで力無く放り出されていた両腕は、彼の顔を覆うように力を込め、何者からか、顔を守っているように見える。その小さく震える背中は、恐怖からなのか、寒気からなのか。
 あまりにも急なことで、俺はペットボトルを落としてしまった。驚きで声も出ない。いったい何があったんだろう、とこの何秒間を振り返ってみる。いや、考えるのは後だ。取り敢えず失った水分を補給してやらなければ、と冷静に考えた。
「ロイエンタール?」
 出来るだけ優しい声を出し、ゆっくりと彼の体をこちらに向ける。仰向けにされても、ロイエンタールの手は顔を覆ったままだった。
「ロイエンタール、俺だ、ミッターマイヤーだ。…水を飲みたいだろう?」
 ロイエンタールは俺の言葉に小さく頷いたようにも見えた。だが、その両手は俺がはずすまで、除けられなかった。
 俺は、説明もせず、自身に含んだ水をロイエンタールに与えた。何度もペットボトルから水を取り、喉が潤されたと思われた後、かさついた唇にも水を含ませるよう舐めてみる。ロイエンタールは、最初の一口で一瞬身を強ばらせたが、抵抗はしなかった。
 満足したらしい彼のため息は、発熱のせいか熱かった。

 その後、ロイエンタールが目覚めるたびに、同じように水を与えた。明け方には服薬も同じ方法で行った。次の日の昼頃、お互いしっかりと目覚めたときには、ロイエンタールの体はだいぶ回復していた。

 楽そうになった呼吸を聞きながら、俺は考えていた。いや、思い出していた。
 母親に目をえぐり取られそうになったことを、ロイエンタールは話してくれた。それ以降この話は出たことはなかった。なぜ彼がそれを記憶しているのかも不思議だったのだが、尋ねることはしなかった。
 だが、昨夜の彼を見ていて、はっきりとわかった。彼は、覚えているのだ。
 小さな体を柔らかい母の胸にすっかり預けきっていたときなのだ。乳児であっても恐怖というものを感じるのだろうか。きっと幼い彼は、母親が何をするつもりなのかその時はわからなくても、殺気めいた気配はわかったのだろう。そして、記憶ではなく、意識の下に眠り続けているに違いない。先ほどは、きっと俺の抱き方が、あまりにも似てしまっていたのだろう。
 人が見る夢は、そういう意識下の記憶を無意識に引き出しているものだと言われている。ロイエンタールは、熱に魘されながら、苦しい夢を見ていたのかもしれない。もしもそうならば、もっと速く気付いて悪夢から現実に呼び戻してやるべきだった。
 ロイエンタールの額を撫でながら、俺は臆病だった自分を責めていた。

 

 それにしても、回復した親友ロイエンタールは、あまりにも以前の彼であり、病床に臥せっていたときのことなど、幻ではないかと思うくらいクールだった。熱があったからホットだったというわけではないが、あの時のロイエンタールには人間味を感じた。日頃の彼が人非人というのではなく、つらいと感じることや悩むこともあるのだということを、想像だけでなくこの目で見たからだ。それくらい、オスカー・フォン・ロイエンタールはクールなのだ。

「今度、卿が風邪引いたときは、俺が看病してやる」
 すっかり治って、彼の部屋で呑んでいたときに、突然思い出したように言った。
「卿に看病してもらうのか? 食事もせずに寝るような奴にか? 治るものも治らないじゃないか」
 俺は、ここぞとばかりに改めさせようとした。風邪を引いて、食事もなし薬も医者も嫌だなんて、子どもじゃあるまいし、と思う。
 ロイエンタールは、俺の忠告など全く無視して笑う。
「俺がキスしてやるからさ」
「キス?」
「してくれたじゃないか。ミッターマイヤー?」
「何言ってるんだ。あれは水を飲ませてやっただけだ」
「ほう? てっきり卿は俺を慰めてくれたのかと思ったのになぁ」
 そう言って肩をすくめている。もう酔っているのだろうか、やけに饒舌だ。まぁおれも、結構ハイになっていたと思う。そうでなければ、こんなこと、するはずがない。
「キスってのは、こうするもんだ」
 向かいに座っていたロイエンタールの頭を引き寄せ、重ねるだけのキスをしてみる。一度は触れあったことのあるその薄めの唇は、以前とは違い、張りのある柔らかいものだった。意外と大胆なことをするな、と自分で自分を感心した。驚いて固まったロイエンタールに、ニヤリと笑うと、放れたばかりの唇にそっと手を載せていった。
「…これがキスってか?」
「何だよ! 違うっていうのか?」
 何となく鼻で笑われた気がした。どこか、莫迦にされたような気がした。しかし、その後のロイエンタールの表情が、あまりにも怖い、そう怖かったのだ、初めて見る顔で、俺は頭から喰われてしまうんじゃないかと本気で心配した。だから、ゆっくりと上体を起こしてこちらに近づかれたら、俺は後ずさるしかなかったのだ。しかし、あっという間にソファの背もたれにぶつかってしまい、逃げ場はなくなった。
「なぜ逃げる」
 なぜってなぜって…、その顔はヤメロ!と叫びたい。
 目の前まで来た美丈夫は、やっぱりアップで見ても綺麗で、うっすら開いた唇にやけに目線が行ってしまう。
 悲鳴を挙げる前に、俺は自分でもしたこともされたこともないようなキスをされる。これが、彼の言うキスなのだろう、別に俺は教えてくれとは言ってないぞ、ロイエンタール! 抗議の声はやけにおかしな「ふっ」とかいうのに変換され、押しのけようとした腕はロイエンタール肩で力無く乗っているだけになってしまい、つまり俺はすっかり脱力して、キスに酔っていた。
 唇も、口の中も、全て触れられてしまったと思われる頃、その唇は濡れながらゆっくりと放れていった。その唇からも、目が離せなかった。
「あ…」
 自分のされたことを遅ればせながら理解したとき、俺は驚きよりも照れの方が強く、真っ赤になっていた、と思う。カーッと血が上った気がした。
「これがキスだと思わないか?」
 悪びれず、しれっというロイエンタールを睨んでみる。こんなときでも憎たらしいほどクールでいい男だ。
「知るかっ! お前なんか、もう絶対に看病してやらないからな!」
 とにかく、照れ隠しにもならないが、ひたすら悪態をついた。情けないことに、俺はそのキスに参ったのだ。もう一度、と不貞なことを考えてしまうくらいに。しばらく思いつく限りの悪口を並べていた俺は、疲れて息を切らした。その間ロイエンタールは黙ってグラスを傾けていた。
 しばらくの沈黙の後、いきなり真剣な口調で話し出した。
「ミッターマイヤー、俺が苦手なものがわかったのだろう?」
「えっ…あ、うん…たぶん」
「だから、俺が風邪を引いたら、卿に水を飲ませてもらうしかないじゃないか」
 あまりにも真面目な顔をして、分析口調で話すので、思わず「うん」と頷くところだった。よくよく考えてみると、ロイエンタールに水を飲ませるのは、俺じゃなくてもいいじゃないか。
「それは、…彼女とか奥さんとか…」
 漁色家の彼に、そんな相手がいないこと、これからもきっといないであろうことを知っていながら、そんな逃げを打ってみる。ロイエンタールは大きなため息をつきながら、また肩をすくめた。
「俺には、卿しかいないのに…」
 再びわざとらしくため息をつく。
「何言ってんだ! 俺にはエヴァがいるんだぞ!」
「キスくらい、いいじゃないか」
「あれはキスじゃない!」
「キスじゃないなら、何回したっていいじゃないか」
 揚げ足取り! 自己中男! さっきまでいい男だと思っていたけど、何て奴だ!
 こんな、堂々巡りの会話で、その夜の呑み会は終わってしまった。

 それでも、俺は何がどうあってもロイエンタールを嫌いにはなれないのだ。
 今日もため息をつきながら、呑む約束をし、呑む度にキスを求める親友について、真剣に考えなければいけないのではないだろうか、と思う。しかし、結論が出ることはなく、明日には「まぁいいか」で、済ませてしまうのだ。
 これからは、ロイエンタールが臥せったときは、俺が面倒を見てやることにする。プライドの高い彼が、俺以外の人に弱い自分を見せるとも思えないし、俺が見せたくないとも思っているからだ。しかし、俺が風邪、たとえエヴァがいないところで引いても、俺はロイエンタールの看病の申し出を、丁重にお断りするよう、心に決めている。

 

 

 

2000.7.25 キリコ