哀しいキス
(2010年アンソロ投稿話)
心の日記とでも云おうか。
人生の終盤に差し掛かっている今でも、誰にも話したことはないし、気配を匂わせたこともないつもりだ。最期まで自分に尽くしてくれた優しいしっかりものの妻エヴァンゼリンとの記憶もとても穏やかなものだ。とても愛していたし、私なりに大事にしていた。彼女と結婚できたことで、私の人生は豊かで幸せなものとなったのだ。
ただ、それとはまた違う甘さ、そして苦しく切ない思い出がある。それは恋でも愛でもなかったと思う。最も近しいのは、「憧れ」ではないかと私なりに分析してみた。実際、私が彼に敵うことなど、数少なかった気がするのだ。
「父上」
私をそう呼ぶのは、この世でただ一人だ。親友の忘れ形見、フェリックスだ。彼も今や立派な成年だ。実の父の年齢を超えても、彼の面影を色濃く残している。私は息子を見るたびに、どうしても彼を思い出してしまう。その背中にハッとすることが何度もあった。
フェリックスはたまに彼の子どもたちを連れて、私を訪れる。その小さな子どもたちは、私にとっても、そして彼にとっても「孫」になる。彼も生きていたら「おじいちゃん」と呼ばれたのかもしれない。とても想像つかないけれど。
こうして、どうやら優性らしい彼の遺伝子は、孫の代まで引き継がれている。きっと将来、祖父似の美丈夫に育つのだろう。ただ、ヘテロクロミアは、彼だけのものらしい。
私がオスカー・フォン・ロイエンタールと出会ったとき、まだお互いに若く、私も独身で、やんちゃ盛りだった。ときには大酒に酔いつぶれて思いも寄らないところで寝てみたり、喧嘩をすることもあった。もちろん、私たちから吹っ掛けたことはなかった。「馬が合う」というのだろうか、とにかく話題がつきないし、飲みたくなる気分や、看過し得ないと思うポイントが似ていた。だから、例えば24時間一緒にいても、楽しくて仕方がなかった。
彼は、軍人としては本当に尊敬することが多く、私は感心することが多々あり、また彼に負けないように、恥じないように自分を高め、彼との議論は時間に関係なく、いつまでも続けられた。地上での討論だけでなく、模擬訓練において、そしてもちろん実践においても、彼は常に冷静で優秀、その手腕に誰もが舌を巻いた。
私は彼と肩を並べるためにも一層の努力をし、彼とともに帝国の双璧と呼ばれる存在にまでなれた。彼と戦うことになるに至っても、私はまだ彼のことを大切に思っていた。
心の日記だから、うまくまとまらない。けれど、彼がヴァルハラへ旅立ってから数十年。それでもまだ、推敲中なのだ。
ロイエンタール。そう気軽に呼んでいた。年上で、もちろん先輩であり、地位も一度は彼の方が上だった。しかも私は平民の出で、彼は貴族なのだ。それでも、私たちは親友だった。
私がエヴァンゼリンと結婚した後も、以前ほどではなくても二人で飲むことは多かった。互いに忙しく、それは苦ではなかったけれど、知らず知らずのうちに溜まるストレスは、親しい友と気兼ねなく過ごすことで楽しい夜となり、良い睡眠導入剤だった。
私たちの大きな違いは、女性関係だろう。私は結婚し、彼は最期まで独身だった。漁色家と噂されていたが、身近で見ていた私は少し違和感を感じていた。彼の周囲には、確かに常に誰か女性の影があった。けれど、常に相手は一人なのだ。もちろん、クールが短かったこともあり、付き合った女性の数は、たぶん本人にも正確にはわからなかっただろう。
一人一人の名前を覚えているのだろうか。
どんな会話をするのだろうか。
どんな風に女性を抱くのだろうか。
そんなことを考えていた。なぜこんなにも彼のことが気になるのか、当時の私にはわからなかった。何でも完璧にこなしてしまう彼に、弱点はあるのだろうか。下世話な話は一般的な興味しかなかったと思うし、現実的な男である私が、彼に対してだけはなぜか妄想が膨らんだ。
何年もそう思い続けてきて、確かめたいと思うまでに至ってしまった。あの夜のことを思い出すと、老齢の私の心が燃え始める。若い頃の情熱が甦る気がした。「憧れ」がきっかけでも、「情熱的な恋」だったのかもしれない。単なる「気の迷い」か。もしくは、「独占欲」という浅ましい気持ち。自分がこんなにも嫉妬深いとは、思いもしなかったのだ。
日記の始まりは、彼の別荘に泊まりに行ったところからだ。少し強引な申し出に、彼は快く了解してくれた。
「貴重なお休みの日に、奥方に申し訳ない」
常に一歩引いて、彼女を立てていた。私を迎えに来たときも、案の定綺麗な花束を持参していた。そういう男なのだ。
二人だけで都会の喧騒から離れる。こういう機会はほとんどなかった。
「ロイエンタール、夕食は何だろうな」
「そうだな。何がいいかな」
「…決まってないのか?」
少し驚いた顔をしたロイエンタールは、私の方をじっと見た。
「今日は誰もいないぞ」
「…メイドはいないのか?」
「二人きりがいいと云ったのはミッターマイヤー、卿だぞ」
そんなところから二人きりとは思わなかったので、驚き返してやった。本当は彼と夕食を作るという予想外のことにワクワクしたのに。
一緒にキッチンに立つ。そんなこともほとんどしたことがない。まず私自身がしないからだ。ところが、彼という男は、こういうところでも生来の器用さを発揮する。
「卿は、実は普段もするのか?」
「いや…見よう見まねだ」
豪華ではなく、皿の数も少ない夕食に、私たちはとても満足した。日頃全くしないせいか、かえってとても新鮮だった。彼と食器を片づけることも、何やらこそばゆい気がした。
今日は気兼ねなく飲めるというのもあって、私たちはたくさんのお酒を用意した。もちろん、彼秘蔵のとっておきもあった。ゆっくり時間をかけて、楽しくたくさんの話題に触れ、大笑いしたり、相手をこづいたり、無邪気な若者に戻ったような時間だった。そのときの私たちは、すでに三十路近かったのだけれど。
新しい日付になって2時間ほど経った頃、私たちはさすがにぼんやりし始めた。ここでは、部下や市民などの周囲の目はないのだ。酔いつぶれて床に寝ても、涎を垂らしても、何の気兼ねもいらない。私たちは、そういう間柄だった。お互いが、唯一自分たちをさらけ出せる相手だと思っていた。
私はその夜、一生分の緊張を使い果たしたと思う。
ふらつく足下を奮い立たせ、私は静かに彼に近づいた。ソファに深く沈んで目を閉じていた彼は、その気配を感じてもそのままだった。
何も云わず、彼の名も呼ばず、私は彼の頭を自分の胸に抱きしめた。腕の中で、彼が少し固まったのがわかった。たぶんもうヘテロクロミアが開かれていただろう。実際には、暖炉の明かりだけの部屋では、彼には私の胸しか見えなかったはずだ。
しばらく、どちらも何も云わなかった。
例えば拒絶されれば、私たちの友人関係はこれで終わりだ。その覚悟をしていた。かといって、彼が男性に興味があったとは思えないし、私自身は皆無だった。そんな私でも、「彼を知りたい」という欲求がここなでのものだったとは、気付かなかった。別荘に行きたがった私だが、実際に行動することはないと考えていた。彼と二人きりの時間を過ごし、彼が私だけを見て、私の話に相づちを打つ。一緒に笑い合う。それこそが、ただただ貴重なものだったはずなのに。
自分は何をしているのだろう。
両腕にキュッと力を入れると、彼が少し身じろいだ。私の突然の行動の意味を理解しているはずだ。けれど、困惑しているに違いない。私自身、戸惑っていた。
切ないことだが、彼は慣れているのかもしれない。こういった体当たりの告白も珍しくないのかもしれない。彼は私の両腕を掴み、ゆっくりと立ち上がった。私の目線は彼の肩当たりで彷徨い、ただ彼の出方を待った。心臓が飛び出しそうだった。
ゆっくりと長い腕が私の肩に回された。その気配で、目を見開いた。優しい力で抱きしめられて、私は自然と両腕を彼の背中に回した。
彼の頬が私の頭頂部に添えられて、彼の綺麗な指が私の肩に少し食い込んだ。
「…ウォルフ」
一瞬で、頬が熱くなった。囁くような低い声に、下半身に急激に血液が集まった。この年齢になって、こんなところで興奮する自分にかなり驚いた。それほど、彼の一撃は、強烈だった。
その直後、彼はいつもこんな風に女性の名を呼ぶのかと思うと、心臓がギュッと痛みを発した。
彼の流れるような動きで、体をベッドに運ばれる。暖炉の火が遠くなり、彼のヘテロクロミアも確認出来ないほどだった。
ゆっくりと口づけられる。ふわりと触れられるだけだった。反射的に目を閉じると、なぜだか小さく笑った気配がした。初めてのキスなのに。文句を返そうと目を開ける前に、彼の右手が私の頬を包み、今度はしっかりとしたキスを繰り返された。正直なところ、キスにこんなにも種類があるのかと、驚いたくらいだった。すでに翻弄されていた。
彼の体が少し離れる空気に、私は持ち前の素早さで彼の背中を掴んだ。重たげに瞼を上げると、逆光で見えにくいけれど彼の両瞳がこちらをじっと見ているのがわかった。
何も言えなかった。
彼は、ただ雰囲気に流されているのかもしれない。
私の突飛もない行動に、断っては申し訳ないという気持ちで付き合ってくれているのかもしれない。
けれど、この夢のような時間を、私は手放したくなかった。
私はゆっくりと手を伸ばし、彼の頬を指で撫でた。少しザラつく感じに、彼もヒゲの生える立派な男なのだとぼんやりと思った。私の指を掴んだ彼は、チュッと音を立てたキスをした。その手を頭の上に引き上げられて、彼は私の首筋に唇を這わせた。
果たして、どれくらいの時間をかけて愛撫されていたのか、私にはわからない。こんなにも「翻弄」という言葉が合う時間はなかった。激しい動きではないのに、乱されてしまう。おかしな表現だが、彼はやはりこんなところでも完璧なのだ。私が反応する場所を見つけるのが得意というか、攻め方がうまいというか。何度も涙目になりながら懇願し、幾度果てたことだろうか。
彼の体が芸術品なのは知っていた。彼の男性器もそれは素晴らしいものだと見知っていた。この体に抱かれたいと思ったわけではない。抱きたいわけでもない。ただただ触れたかったのだ。彼は、私の自由にさせてくれた。抵抗もなかったし、たぶん素直な吐息を聞かせてくれた。
ただ、彼のものを口に含むことが、私にはうまく出来なかった。要領が悪い方だとは思わないが、この場合は全く掴めなかった。おそらく何度か歯が当たり、彼が本来の大きさに戻っていく様子に落ち込んだ。先ほどまで私に、彼は信じられないくらいの技術を見せてくれていたのに。もはや、私は負けん気で必死になっていた気がする。だから、私たちのこの夜は、愛し合うものではなく、競い合うスポーツめいたものだ、とそのときは思った。
彼を翻弄させ返したかった私だが、すでに諦めかけていた。戦闘ならば、決して途中で放り投げたりしないのに。
また体の上下を入れ替えられて、彼が私を見下ろした。じっと見つめてくるヘテロクロミアが何を云いたいのか、すぐにはわからなかった。けれど、一度体を離し、どこからかチューブのようなものを取り出したときに、理解した。
その方法も考えないではなかった。けれど、と躊躇っているうちに彼の方が積極的に動いた。決して強引ではないけれど、抗えないのだ。時間をかけて彼を受け入れるであろう場所をほぐされる。不思議な感覚に集中したくなくて、よく見えない天井をじっと見つめた。一瞬だけ冷静になり、私たちは何をしているのだろうと客観的に見て驚いた。
彼は百戦錬磨といっていいのだろう。こちらが呆れてしまうほど慣れている。ありとあらゆる経験がその自信に繋がっているのだろうか。彼はいったい何人の女性とこういうことをしたのだろうか。彼を受け入れるこの苦しさを、今の私のように味わったのだろうか。
私の目尻から涙が伝うのがわかった。
初めての苦しみに耐えかねてか。それとも、嫉妬らしき感情からか。この涙はなんだろう。
そして、この男は相手のこういう反応にすぐに気が付く。瞼に軽く唇で触れて、労るようなキスを繰り返す。あまりにも優しくて、切なくなった。女性に冷たそうに見えた彼は、実はこんな風に穏やかな空間を作っている。チューブがあるのも、この場所はそういう場所なのだと知らされているようなものだ。私はこんなにもグルグル考える男だっただろうか。いい年齢の男の嫉妬は、醜いだけだ。
「…ウォルフ」
小さな声で、ごく至近距離から呼ばれる。ゆっくりと目を開けると、彼が優しい笑顔を向けていた。こんな笑顔もできる男だったのだと、実はうっとりした。
「下世話な話…」
唐突に、ごく普通の声で話しかけられて、私は驚いた。
「こういうときに、名を呼ぶのは初めてだが……良いものだな…」
そういいながら浮かんだ照れたような笑いに、私もつられて笑顔になった。たとえそれが嘘だとしても、今の私には心地良い。この男は、恋愛のルールのようなものも弁えている。
なんだ…ちゃんと女性を大事にできる男ではないか。
私は、なぜだかおかしくて、クスリと笑った。状況と似つかわしくない笑い方に、彼は少し不思議そうな顔をしていた。
「…オスカー」
彼の名を呼ぶのは初めてだ。じっと目と目を合わせて、静かに彼を呼んだ。
私たちは今、互いの体を一つに結びつけている。その事実よりも、お互いの名前を呼び合って笑い合ったことが、ただ嬉しかった。彼が私の中で果てて、その後裸のまま抱き合って眠ったことは、本当に幸せな思い出なのだ。
翌朝、一夜の夢から覚めた、という気分だった。夢は夢であって、続かないものなのだ。現実に戻る瞬間が来た。
先に起きて朝食の準備をしていた彼に、私は声をかけた。
「ロイエンタール…昨夜は…」
美しいスクランブルエッグの乗った皿をテーブルに置きながら、彼は目を合わせずに答えた。
「…何のことだ、ミッターマイヤー。少し酒量が過ぎたかもしれんな…まるで覚えていない」
どこかで似たようなセリフを云った気がする。あのときの下手なごまかしを、彼はごまかしと理解していた。だから、私もそうするべきなのだろうと思った。
プッと吹き出すように笑うと、彼も顔を上げて同じような笑顔を向けた。
私たちは、これでよいのだと思った。理由はわからない。親友のようでいて、どこか上っ面のような、探り合う関係でもあるように感じていた。けれど、私ほど彼を知っていた人間はいないと自負している。
お互いに、一歩も動けなかった。この小さな笑いが終わった瞬間、すべてを封印しなければならないと思った。私はいつまでも口角を上げたままでいた。
彼は、少しだけ近づいて、私の顔をじっと見つめた。朝日の中ではっきりと見えるヘテロクロミアは美しいと思う。いつでも彼は綺麗なのだ。
彼に憧れて、彼に認められたくて、ここまで来た。
彼は少しだけ腰をかがめ、触れるだけの口づけをした。
世の中にはいろいろなキスがある。恋人同士や夫婦、親子の挨拶など、その場その場で雰囲気が違う。私自身、これまで数え切れないほど口づけて、キスされてきた。愛あるもの、謝罪のもの、毎日の習慣、特に意味のないものもあったように思う。そのほとんどは、嬉しい記憶だ。
彼に似ている息子や孫のキスを受けるたび、どうしても彼を思い出してしまう。
彼と交わした口づけは、すべて覚えている気がする。目を閉じると、その感触まで甦るのだ。
明るい日差しの中でした彼との最後のキスが、私の人生の中で、なによりも切なくて、もっとも哀しいキスだった。
2010年5月プチオンリー「双璧愛撃つ!」
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正直なところ……よくわからない話です…(えー)2012.4.24.up キリコ 銀英トップへ戻る