凱 旋 

 

 妙に静かな艦橋を出て部屋に向かう。俯いたまま、簡単な指示を出した後。
 凱旋というには、あまりにも複雑過ぎた。いや、複雑なんて言葉では言い表せないが。
 そのただでさえすることのない帰郷路を、私はほとんど一人で過ごしていた。

 深夜、真っ新なままのベッドに浅く腰掛ける。眠ることも出来ず、かといって、起きている感じもしなかった。窓から見える宇宙はどこまでいっても変化なく、自分がどこにいるのかもわからなくなりそうだった。薄暗い部屋で、食事も喉を通らず、酒も呑めない。あの司令官室のテーブルに乗っていたグラスを思い出してしまうから。

 静かだと思った矢先、近くで話し声が聞こえた。隣の従卒の部屋しか考えられないが、こんな夜更けに何をしているのか、首を傾げた。まだ、不思議に思ったりするくらいの人間味は私にも残っていたらしい。
 ぼんやりと重い体を起こし、ドアに向かった。
 自動ドアのシュンという音と同時に、赤ん坊の大きな泣き声が狭い通路に響いた。
「あっミッターマイヤー元帥…申し訳ありません、お休みのところ…」
 泣きじゃくる赤ん坊を懸命にあやしているハインリッヒが、自室に戻ろうとする。部屋の中で泣きやまず、廊下を歩いていたのだろう。それが、赤ん坊を疲れさせ、眠りに落ちる助けとなると思って。しかし、赤ん坊には慣れない環境で、落ち着かないのかもしれなかった。
「…環境が変わる方がいいのかもしれない。俺が預かろう」
 乾いた口の中から、意外としっかりした声が出る。こんなときでも元帥であろうとする自分を嗤った。
 躊躇うハインリッヒを横目に、私は親友の残した子を、初めて腕に抱いた。

 腕の中で暴れる赤ん坊を、泣くにまかせてぼんやりと観察する。
 結構重たい存在。そして、とても熱い生き物だった。
 柔らかく、温かみもあって、見る人を笑顔にさせるその表情は、今は見受けられない。母を恋しがっているのか、それとも父が遠いところにいったことを知っているのか。後者はあり得るはずないではないか、と即座に頭を振る。おかしな考えをする自分をまた嗤った。

 あやしもせず、ただ落ちないようにだけ支えていた腕の中で、その子は突然眠りに落ちた。育児経験もない私であるし、こんなものかと思いつつ、広いベッドに降ろした。しかし、途端に大声でなく子に逆戻りする。抱いてやると眠る。その繰り返しにため息をつき、最後には腕の中に固定した。
 スヤスヤと眠るその顔を見つめていると、こちらまで眠りを誘われる。私は静かにベッドに潜り込んだ。その子を腕に抱きながら。
 親友の死から、幾日か経っていたが、私は初めて深い眠りに落ちることが出来たのだった。


 目覚めたとき、その現実がいつのものなのかはっきりしなかった。
 ただ、いつものようにシャワーを浴び、軍服に着替えようと起き上がった。
 広いベッドでは一人だったため、この部屋に他に住人がいたことをすっかり忘れていた。
「あー?」
 ベッドの下で高い明るい声が聞こえ、私の足は空中で止まった。見下ろすと、昨晩預かった子が床に座っている。
 スッキリしない頭をフル回転し、なぜベッドの上にいないのかという疑問だけが解けないまま、取り敢えず抱き上げる。嬉しそうに抱きついてくる様子に、瞼が熱くなった。
「おはよう、坊や。よく眠れたかな?」
 久しぶりに、明るい声が出せた。キャッキャッと笑う声に、自然と頬が緩む。
「お腹が減っただろう? ハインリッヒにミルクをもらおう」
 そして寝起きのままで従卒の部屋へ向かう。ハインリッヒは目が飛び出さんばかりに驚いていた。私の格好に、だろうか、それとも私が自分から挨拶をしたから、かもしれない。

 ハインリッヒが笑顔を話しかけながら、赤ん坊にミルクをやる。その姿をソファで見ながら、少しずつ現実に戻ってくる自分に気が付いていた。
 私はしばらくの間、自分を見失っていたようだ。

 ―――こんな俺を笑うかな、なぁロイエンタール?

 

「教えてほしい、ハインリッヒ。グラスを用意したのは…」
 質問しておきながら、ずいぶん中途半端だと自分でも思う。ハインリッヒはしばらく問われた意味を考えたあと、静かに顔を上げて答えた。
「はい…ぼ、私です」
 上目遣いに見つめる不安そうな瞳に、小さな笑顔を返した。
 そうだとは思っていたけれど、そうならばオスカー・フォン・ロイエンタールが人生の幕を下ろす瞬間を見守ったのは、このハインリッヒに違いない。腕の中にはきっとこの子もいただろう。
 そう思うと、有り難いとも思う。間に合わなかった自分を歯がゆくも思う。

「ハインリッヒ、その子と一緒にうちの子にならないか?」
 あのロイエンタールがミッターマイヤーにと預けてくれたその子の一生を、私は親友に代わりに見守ろうと思う。いきなり父となる私を、励ましてほしい、親友よ。

 

2001.6.27 キリコ
 


フェリックスはともかく、ハインリッヒまで「一緒に我が家で養おうと思う」
ってどこからきたのかなぁと考えてたんです。前から。