空を見上げ、人は様々なことを思い浮かべる。ただ美しいと感じたり、その向こうに何があるのか想像したり、視覚的に捕らえられるものを届かない手で捕まえようとしたり。人は、自分たちがちっぽけな存在であることに、なかなか気がつかない。
 そんな人間が宇宙に出ること、それは広大な暗闇に人間が造った金属を浮かべ、その中で人間として行動しようとすることでもある。
 それは、まさしく未知の空間である。たとえ、先祖や先輩が通ってきた路であっても。

 
 帝都オーディンの暑い夏、深夜、一人の長身の青年がこっそり寮に忍び込んだ。彼は士官学校の上級生であり、その容貌や態度、能力的にも申し分ない生徒であった。もっとも、教官たちが知らないだけであって、彼自身は一通りの悪をこなし、すべてにおいて冷めた感想をもらす、やけにシニカルな若者であった。
 彼には慣れたことであり、たとえ見つかっても堂々としているに違いなく、その歩調は静かだが、急いではいなかった。もしもそばを通る人がいれば、彼から甘い香りをかぎ取ることが出来ただろう。
 長い廊下を行き当たり、自室に戻るよりも先にシャワー室へ向かうその足音が、目的地寸前で立ち止まった。
 先客がいたからである。

 真っ暗な中、ズラッと並ぶシャワー台の一番奥で、勢い良く水が流れているのがわかり、相手がわからないだけに声もかけられず、また立ち去ることもしたくなかった。かといって、隣や遠く離れた場所でシャワーを浴びるのも、彼の性格に合わなかった。貧乏ながらも貴族社会に育った彼は、社交的だったのである。
 しばらく入り口で立ち竦んでいたが、明かりをつけることも躊躇われる中、シャワーの音以外に何か聞こえてくるのに気づき、耳を澄ませた。
 低い小さな声で、独り言を呟いていたらしく、どうでもいいと思いつつも気になって、静かにシャワーに近づいた。

「俺は大丈夫だ。希望して軍人になるんだ。宇宙は広いけれど、皆が通って来た路だ。大丈夫だ」

 その内容に少し驚き両目を開く。こちらに気づいた様子もなく、その声は続いた。

「けど…もしも巡航鑑の調子が悪かったら? 操縦も取れなくなったら、どこへ行くんだ…? し…」

 途中でブツリと黙った。「し」というのは、「死ぬ」と言葉の切れ端だったのだろうか。
 ずいぶん長い独り言だと思ったが、それにしても、このことすら、先人が通って来た路でもあるのだ。

「この広大な宇宙空間に彷徨うだけだ」

 思わず本当のことを言い放った。その瞬間、シャワーの音が変わる。顔を上げたのだろう。
 黙ったまま隣のシャワーに入り、同じように水を流し始めた。

「…宇宙とは、どこまで続いているんですか?」

 水音の中から、遠慮がちに尋ねてきた。丁寧語を話すところを見ると、おそらく新入生なのだろう。

「…訪れてみたことはないから、わからん」

 正直に、まっすぐに答えたつもりだった。先輩として、不安がらせないためでもあったし、この言を理解できないような軍人はいらないと勝手に思ったからである。しかし、隣人は聡い人であったらしい。しばらく黙っていたが、次に発した言葉が少し明るくなった。

「……そうか… そうですよね…」

 士官学校に入ってすぐの実践演習なのである。緊張して当たり前だった。どんなにシュミレーションしようと、また宇宙間の旅行も珍しくはないが、遊びと仕事とは感覚が違っており、軍人になる準備として、自分の生死について、考えなければならないのである。まだ、子どもと大人の斜交い期であっても。
 宇宙空間に浮く一つの存在となり、そして死と隣り合わせであるという覚悟が、軍人には必要なのである。

「…あの、ありがとうございました…俺…」

「早く寝なさい。少しでも眠った方がいい」

 隣人の言葉を遮った。その言葉に、素直にシャワーを止め、小走りに駆けていく、その後ろ姿は小柄ながら敏捷であり、けれどそれ以上の情報が得られない真っ暗闇の状況にため息をついた。いずれにしても、明日からの演習で指導する大勢の、後輩の一人なのだ。他人に干渉しない彼だったが、今夜だけは違っていた。なぜなら、たった一年前、全く同じことを、同じ場所でしていた自分を覚えていたから。

 

 

「諸君、これが宇宙だ」

 吸い込まれそうな程奥の深い真っ暗世界。スクリーン上はまるでプラネタリウムのような、けれど現実。息を呑むほど感動的な衝撃を、淡々とした言葉で表現される。その壇上に立つ先輩の、聞き覚えのあるテノールに、小柄な頭が揺れた。互い名前も告げなかったが、その姿はグレーとヘテロクロミアで記憶し合った。まだ、その名と顔が一致していなかった頃のことである。
 

 

2001.2.14 キリコ