パス


 シンとした広い体育館。壁の上の方にある編み目のリングのそばに立ってみる。両手で挟み込んだボールに鼻を押し当てると、ゴムのツンとした匂い。まだ新しい茶色の玉。その玉を手にした者達が生み出す様々なドラマを思い出す。今日からマネージャーとして、そのドラマに関わることになった。

 ほんの数週間前のこと。けれど、遠い昔のような気もする。
 目を閉じると、はっきりと瞼に浮かび上がる。バッシュが立てる音、ボールが跳ねる音、かけ声、必死の応援、そのすべてが聞こえなくなるシーン。今でも震え上がるほど、ゾクゾクする。
 心臓が止まりそうたった。でも信じるしかなくて…。
 立っている場所から、目を閉じたままパスを出す。出したつもりで、受け取る。右斜め45度のところまで走った。静かに左手を添えるだけの形でボールを持つ。けれど、やわな自分の手では持っているだけで精一杯だ。それでもあの時の姿に憑依するつもりでリングを目指す。目を閉じたまま。
 かすりもしなかったボールが唯一の音となって体育館に響く。ダンダンという音が少しずつ小さくなり、やがてまた静けさが戻ってくる。

 本当は、審判が腕を振り下ろすのだ。そして、あのハイタッチ。

 あの瞬間に、固まっていた体が動いた。瞬きも忘れ、呼吸すらしていなかった気がする。あの二人の姿に涙が止まらなかった。兄を含むメンバーも、部員も、そして観衆も、感動と感激の声の嵐で、拍手が大きく鳴り響いた。私も手のひらが痛くなるまで叩き合わせていた。

 それなのに、何故今は静かなのだろう。

 バスケットが大好きだと言ったのに、今ここにはいない主役。
 閉じたままの瞼が熱く感じる。ダメだ。泣いちゃいけないと思う。本当に泣きたいのは私じゃない。そう考えて、唇を食いしばる。顎が震えるのをなかなか止められなかった。

 
 誰もいないはずの体育館に、軽いドリブルの音が近づいてくる。これは、幻聴なのか、あの試合を思い出しているだけなのか。夢から覚めたくなくて、目を閉じたまま呟く。

「…パス」

 しばらく間があったけど、広げた両手にすっぽりはまったボールに感動する。的確なパスが気持ちいい。
 そしてまた私の頭はリバースする。

 ジャンプして、囲まれた自分。けれど、右の方に味方が見えるはず。両手をボールの大きさに広げ、最も得意のシュート位置に立つ頼もしいメンバーが。

 その方向にいるその存在が、落とすことなく受け取って、まるで私の考えを読んだかのような静かなジャンプシュート。バッシュのキュッという音に、目をしっかりと開けた。あの2万本のシュートが目指したのでは、とも思えるそのフォームは、全く迷いもなく、安心して見ていられる。あまりにもそのそっくりな背中に、私は堪えられなくなった。

 目を見開いたまま、涙が流れる。ゆっくりと瞬きすると、床に飛び散る滴も確認出来た。その視界に入る広い背中がこちらを向き、少し目線を下げると、トレードマークともいえるバンダナが見えた。けれどすぐに目の前が真っ暗になり、自分に何が起こったのか考えることも出来なかった。

 茶色いはずのボールが真っ黒に見えるくらいアップにある。重力に逆らうボールに首を傾げると、大きな長い指が支えていた。

 顔を隠したら、泣いてもいいってことかな。

 また涙が溢れてきて、ボールを受け取り、ゴム臭い中に顔を埋める。きっと涙という存在を見たくないのだと思う。大事な体育館から出て行くべきだと思うのに、足が動かなかった。

 私は声も出さずに、しばらく泣いた。

 

 寂しそうにボールと戯れる大きな背中を見つめ、最も悲しいのも、最も待ち遠しいと感じているのも、自分ではないと強く思った。

 


2001.3.6 キリコ