Another life
自分が望んだ幸せな人生だと思う。理想とする家族を築き、想像通りの生活を送る。もっとも、自分がおとなしく会社員になるはずはないと思っていた。とにかく、花道は教師になった。そして、バスケット部の顧問をしていた。
妻となった女性の見送りを毎日の習慣とし、夜遅くまで働いた。慣れない事務仕事もこなせるようになった。結婚後すぐに生まれた子どもにも、精一杯愛情を注ぐ。休みの日には、家族で散歩をする。理想的な家族だと、花道はときどき感動を覚える。「ねぇ、あなた」
「ん?」
読んでいた新聞から顔を上げ、花道は優しい笑顔を見返した。常に笑顔で、でも花道を叱ったりもする、元気な妻。ちょっとした仕草は、高校時代の憧れの女性に似ていると花道は心の中でだけ思っていた。
「今日、病院に行って来たの」
「…どっか悪いのか?」
以前に一度交わした会話なのに、全く同じ返事をする夫を妻は笑った。とても幸せそうな、誇らしい笑顔だ。
「二人目」
両目を見開く意外、花道は反応出来なかった。嬉しくて、真夜中なのに大声で叫ぶ。順調で順風満帆な生活は、ますます理想に近づいていく。どこまでも素晴らしいのに、どこか寂しい気もしていた。花道はもう一つの感情をもてあましていた。幸せだなと呟きながら眠りにつくと、必ず見る夢があった。
花道の、もう一つの人生だったかもしれないその内容の中には、愛すべき妻子の姿はなく、憎たらしい高校時代の天敵だけが出てくる。高校を卒業して10年以上経っても、どうしても忘れられない顔、忘れたくない瞬間、忘れ切れないバスケット。
夢から目覚めると、花道は必ず涙を一筋流していた。
卒業式の日、これからアメリカへ旅立つ天敵に、花道は最後のケンカを吹っ掛けた。最後だと思った。自分は大学へ、そして流川楓はきっと日本に戻ってこない、そう思ったから。3年間一緒にバスケットをしていたのに、その最後の最後までケンカしか出来なかった。
「せいせいすんじゃねーの」
胸ぐらを捕まれた流川は、冷たい瞳を花道に向けた。花道自身もそう思っているのに、なぜだか言われて傷ついた。
「んだと、コラァ!」
もう少し引き寄せると、本当に目の前に黒い双眼があって、花道の怒りはそれ以外の感情に塗り替えられる。そのときのことを何度思い出しても、不思議で仕方がなかった。
10cmも離れていないもの同士が触れ合うのに、たいした労力はいらなかった。触れてしまったことに驚いたのに、自分には引くことが出来なかった。まっすぐに見つめ返す流川の眼も、驚いていた。それなのに、その瞼はゆっくりと閉じていく。花道は、スローモーションでも見ているかのようにはっきり思い出せる。そのまつげの音を聞いたような気がした。
花道も、同じように目を閉じた。触れ合ったそこだけに意識を集中させることになってしまい、相手の胸をドンを押す。花道は、流川の顔を見ずに走って逃げた。ほんの少しだけだったのに、動悸はいつまでも収まらなかった。唇も、その感触を忘れなかった。大学に入った花道は、これまでしたこともないくらい真面目に勉強した。教職を取り、部活はバスケットに明け暮れた。けれど、花道にはバスケットだけに人生をかけることが出来なかった。アメリカで頑張っている流川の噂を聞く度に、花道の胸は騒いだ。けれど、同じ路を歩まなかった。あれ以来、一度も会わなかった。
感傷に浸った真夜中が過ぎると、花道は明るい夫に、父に、教師に戻る。自分の人生の中にあの天敵はいない。いなくていいのだ、そう言い聞かせる。何度同じ夢を見ても、懐かしんでいるだけだと、その度に首を振った。
妻が子どもを連れて実家に出産に向かった後、花道は学校に居残るようになった。新しい誕生を待つ気持ちもあるけれど、たった一人になる開放感と寂寥感で、花道は落ち着かなかった。
この春から懐かしい母校に勤める花道は、かつて自分がバスケットを始めたコートに立っていた。そろそろ予定日だなと考えながらも、いろんな思い出が次々と瞼に浮かぶ。そうすると、自分がよく関わった人間がよくわかる。怒鳴られ、常に怒られ、けれど大事に指導してもらった先輩よりも、誰よりも花道は流川楓を思い出していた。
「ふん。なんで俺があのキツネなんか…」
「……俺はキツネじゃねー」
薄暗い体育館で、花道は心臓が飛び出るくらい驚いた。持っていたボールの跳ねる音が現実に引き戻す。おそるおそる振り返ると、そこにはあまり変わってない天敵の姿があった。
「……ルカワ?」
ふんと鼻を鳴らしただけで、流川は花道に近寄った。シャツにジーンズのラフな姿があまりにも見慣れないもので、花道は目が離せなかった。まるで、10年前に戻ったかのような錯覚を覚えた。
「…おい、ホントにルカワなのか?」
花道の驚いた声に、流川は足を止めた。ちょっとだけ首を傾げて、一度髪をかき上げる。そんな仕草は花道には見覚えはない。顔は間違いなく流川なのに、違和感を感じた。
黙ったまましばらく向き合っていると、時間も時代も時期も忘れてしまいそうになる。ときどきこうやって二人で居残った。申し合わせたわけではなかったけれど、一緒に練習していた。
ゆっくりと歩みを進めた流川は、卒業式と同じ動きをした。違うのは、以前は花道からで、今度は流川からだということ。それでも、その温かさも柔らかさも同じで、すぐに目を閉じた花道は本当にトリップした気分だった。
掴んでいた胸ぐらを外し、流川はスタスタと入り口へ向かう。花道は両目を見開いて、慌てて声をかけた。
「アメリカ…」
流川は立ち止まったけれど、振り返らなかった。
「俺がもしアメリカに行ってたら…」
違う人生、たとえば天敵同士一緒に歩んでいくような、そんなことも可能だったろうか、と花道はあの卒業式からずっと思っていた。無意識に、もう一つの人生を夢見ていた。
「…どあほう…今更「もし」なんかねー」
ポケットに手を突っ込んだまま、流川は少しだけ花道に顔を見せた。
「テメーはバスケを止めた。家族を持った。…俺はテメーと…」
消え入るような声とともに、流川自身がいなくなっていた。花道は、顔を上げて驚いていた。
「ルカワ? オイ?」
大きな声で呼んでも、入り口までかけていっても人影もなく、何の気配も感じなかった。
もしかして、自分はまた夢を見ているのだろうかと何度も目を閉じてみる。瞬きを繰り返したけれど、そこには見慣れた体育館と水飲み場が見えるだけだった。
そのとき、後ろでバスケットボールが転がってきた。花道は、恐怖よりも切なさが勝り、涙が出てきた。
自分にとって二人目の子が宿った頃、流川楓がアメリカで事故死していたことを後で知った。花道が、意識の下で夢見ていた人生は、もう二度と実現しなくなった。
「なあ…「楓」ってつけてもいいか?」
出産後、疲れて眠りかけた妻に問う。
「…綺麗な名前だけど、女の子の名前じゃないの?」
「いや…男の子の名前。きっと、強くてすげー奴になる。格好良くて女の子にもてて、口はちょっと悪ぃけど、バスケ一筋で…」
「…あなた? 泣いてるの?」
花道は鼻をスンとならした。
「いや…嬉し涙だぜ。もう寝ろ、疲れたろ」
「…桜木楓…なのね」
綺麗な笑顔を妻は浮かべ、静かに眠りに落ちていった。
その名を聞いて、花道はまた少し泣いた。
うーん 書きたいことが中途半端のような…
まさか自分が、結婚してるネタを書くとは思いもよりませんでした…
花道と流川なら、きっと流川が先に逝く、気がします…
2002. 3. 9 キリコ