憧れの登下校?
桜木花道と流川楓は、湘北高校バスケットボール部内だけでなく、おそらく県内でも有名な犬猿の仲である。そしてそれは、彼らが卒業する頃になっても、全く変わっていなかった。そんな彼らだが、どこまで縁があるのか、同じ大学に入学してしまった。
東京の大学に通う毎日は、流川にとって想像以上に疲れるものだった。慣れない講義は、高校のようにじっとしていればいいというものでもない。講義ごとに移動し、また一つの講義時間が長い。時間割や教室を覚えるだけでも、流川には一苦労だった。
また、部活はそれまでと違うハードさがあった。最高学年から低学年に戻り、準備後片づけから始まる。それは苦ではないけれど、練習内容は厳しいものだった。バスケットでそれなりの成績を残す大学の部活だから、多数の新入部員や先輩もいる。かつての先輩である赤木以外を覚えるのは、大変な労力がいった。
もちろんそれ以前に、通学路を覚えるという苦労もあった。そして、通学自体も決して楽しいものではなかった。何しろ、出来る限り顔を見たくない相手が、たいてい一緒だったから。
花道は、自分が体力のある方だと自覚はしていたが、やはり新しい生活に慣れるまでに時間がかかった。けれど、持ち前の明るさと楽天的なノリで、チームに溶け込むのも流川より早かった。高校のときのようにふざけた調子でいても、その実力はすでに流川とともに知られていたため、笑われるだけで済んでいたのだ。そして、懐かしい赤木の怒号が、広い体育館に響き渡る毎日だった。
毎朝毎晩同じ電車に乗る天敵にちょっかいかけたがるのも、相変わらずだった。立ってつり革に掴まったまま舟を漕ぐ流川から、花道は20mほど離れていた。たいてい同じ車両に乗っている。おそらく、そこがお互いに最も出口に近いからだろう。
「べ、別に探してるわけじゃねーけどよ」
花道は真っ暗い外を見ながら、呟いた。そこには、困った顔の自分が映っていて、そんな表情をする自分に戸惑った。
仲良しではなくても、いつも見ている相手がいないことに、どこか戸惑う自分がいる。学生生活に慣れるまではわからなかったが、休講だったりすると当然時間がずれるのだ。いつもの電車に乗っていない相手は体調が悪いのだろうか、と想像した。
「ケッ 柔なヤツ」
と鼻で嗤いながら、飛び出た頭を探してしまう。
そんな自分に気が付いて、花道は大きく首を振った。大学から駅まで一緒に歩くわけではないのに、たいてい同じになる。本数が少なっていく電車を一つ乗り過ごすと、かなりの時間ロスになる。少しでも早く帰宅したいという思いは、花道も流川も同じだった。
飛び出た頭が揺れていたり、やけに混雑した夜に押し流される姿が、花道には常に目に付くものだった。違う車両に乗るのも面倒で、だけど全くも無視出来ない。周囲のサラリーマンのように、本を読んだり、音楽を聴いたりすることのない花道には、電車の旅は退屈だった。だから、人を観察するしかない、と自分に言い聞かせた。大学に通い始めて数ヶ月経つと、いろんなことがあった。花道が一方的に気づくことが多いのだが、その夜の流川は、珍しく花道のそばにいた。
「な、なんでテメーがこんなとこにいる」
ビアガーデンシーズンの混雑した中で、花道はそれでも小声で文句を言った。
「…知らねー」
自分の意志でもなく、ただ押されて落ち着いた先が花道の隣だっただけだから、流川にも答えようがなかった。
終電に近かったため、とにかく押し詰めのような電車の中は、夏の暑さと人の熱気でむせ返るようだった。クーラーの風も、背の高い二人の頭にかろうじて当たるくらいだ。
「あちー」
無意識に呟いて、汗が首筋を辿る。そんな嫌な感覚に、早く目的地に着くことをただ願っていた。
ふと花道が隣の流川を見たとき、天敵の額から汗が伝っていた。やはり暑いのだと再確認した瞬間、流川が花道に目線を投げた。物言いたそうにしているのに、ますます汗が流れる以外、口も動かさない流川を、最初は花道も笑った。しかし、どんどん青くなっていく顔に、さすがに何事かと尋ねた。
「…ルカワ?」
ちょうどそのとき、電車がスピードを落とし始め、すぐにドアが開けられた。何かの呪縛から逃れたかのように大慌てで飛び降りる流川の様子に、花道はついつられてしまった。
「おい…降りる駅じゃねぇぞ?」
自分より後に降りるはずなのに、と冷静に考えた。けれど、行動は考えを伴ってはいなかった。
ホームに降り立ったたくさんの人々は、乗り換えやら帰宅やら、とにかく信じられないくらい誰もいなくなってしまった。電車が出発し、人がいなくなると、ホームは驚くほど静かになる。降りたことのない駅が、少し新鮮だった。
それにしても、と花道は疑問に思う。荷物を放り出し、ベンチで俯く天敵の姿は、妙にしおらしい。考え込んでいるように見えるが、泣いているようにも見える。肩を落とした背中が、いつもより小さく見えた。
「…あんだよ、今更電車に酔ったンか?」
流川といるときの静寂が落ち着かなくて、何か話しかけようとする。意外にも優しい問いかけとなった。
その問いに、流川は首を振る。これもまた、珍しく素直な反応だった。
「吐いちまった方が楽だぜ」
「…チガウ」
苦々しげな口調に驚いて、花道はしばらく黙っていた。次の電車まできっと間があるだろうから、仕方なく花道も隣に腰掛けた。どうして自分は一緒に降りてしまったのだろうか、勢いで行動する自分に呆れてしまった。
「…な、なんか飲むか?」
花道の躊躇いがちな質問に、流川はすぐに頷いた。
自分でそう言ったものの小銭がないことに気づき、バッグの中から自分のストロー付き水筒を取り出した。意外にも堅実家な花道は、自分の麦茶を持ち歩くようになっていた。
「だいぶ温いかもしんねー…」
そう断りを入れながら、花道は流川に差し出した。ストローを取り出して、花道は自分が飲んだ後だということに気が付いた。けれど、引っ込める前に流川はそのままストローに口を付けた。ゴクリという音を立てながら、何の躊躇もしなかった流川が、花道には驚きだった。
それからどのくらい待っても、電車が来る気配はない。誰もホームに降りてこないことにやっと気づいた花道は、時刻表を確かめに立った。
「ゲッ」
そんな叫びに、流川もすぐにわかった。先ほどの電車が、自分たちの家へ向かう最後だったことが。
「このバカギツネ! オメーのせいで帰れねーじゃねぇか!」
「…頼んでねー」
冷たい表情でそう言い返され、花道はウッと言葉に詰まった。
「ちっ…どうすっかな…」
花道は後頭部をかきながら、線路を見つめて途方に暮れた。お金のある社会人ならば、カプセルホテルやタクシーを利用しただろう。けれど、歩いて家に帰る気力は、さすがの花道にもなかった。
「あれ…」
小さな声で流川が指差した方向には、24時間営業のファミレスがあった。花道はその指を見ながら、確かにそれしかないとため息をついた。
「しょーがねー…」
「…俺がオゴってやる」
「…はっ?」
言うだけ言って、流川はさっさと階段を昇り始めた。その後を、花道は首を傾げながらついていく。実は流川なりに花道がついてきたことに罪悪感を感じていたのだ。そして、そのときは一人じゃなかったことを、ひそかに有り難く思っていたから。店の中では窓際の大きなソファを二人で占領した。向かい合って座ることが気恥ずかしくて、お互いに窓に向くように落ち着いた。先ほどの言葉通り、流川は花道の分も支払った。
「嵐の前触れか…?」
「…どあほう」
深夜を過ぎて、流川はそろそろ眠たくなってきていた。けれど、いろいろくだらないことを話しかけてくる花道の声に、耳だけ傾けていた。
「だからよー、アイツの先輩面がムカつくんだよなー。俺の方が断然天才なのに…」
チームメイトの話になったり、高校時代の話になったりする。
「こないだリョーちんからデンワあってよ、アヤコさんも元気らしいぜ」
あごを腕に乗せて、花道はまるで窓に向かって話しかけていた。それは、居心地が良くなくて、どうしていいかわからないときの花道の仕草でもあった。
何の反応もないことにさすがに疲れてきた花道は、しばらく黙ってみたりもする。半分目を閉じた流川は、ただぼんやりとしているように見えた。
「おいキツネ…さっきのは…ありゃ何だ?」
返事を期待しなかった問いに、流川は小さく答え始めた。
「…酔っぱらいのアレが当たった…キモチワルイ…」
「……アレ?」
いつもストレートな流川が、遠回しな言い方をした。言いにくそうな口元と、きつい目線で、花道はやっと理解した。
「さ、触られたのか?」
流川は花道の赤い髪を叩いた。
「イテッ この、聞いただけじゃねぇか。だいたい何でわかるんだよ、ンなこと」
「…太股に…当たる」
「…それ…チカンじゃねぇの?」
「俺、男」
男性がチカンに遭うはずはないだろうと思っている流川は、もしかしたらこれまでにも気づかないうちに狙われていたのかもしれない。花道は、少し呆れた。
「それって今日だけ?」
「…いや」
今日は耐えられなかったと、整った眉をひそめる。子どもっぽい表情に、花道は笑った。
「電車っていろいろあるよな…」
「…そー」
寝ぼけているのか、いつもより素直な流川が、これまでの例をゆっくりと話し出す。低く落ち着いた声が、これだけ長いフレーズを話すのを花道が聞くのは、これが初めてだった。
「座ってたら、隣の人にもたれて…肩で押された。でも起きてらんねー」
「女の人にもたれたら、それだけじゃ済まねーんじゃねぇ?」
「…それは女だった」
相手が女性でも、流川のような顔ならばいいのだろうか。そんな理不尽さを考えながら、花道は黙ったまま先を促した。
「混んでる電車、お酒もきついけど、香水は好きじゃねー。俺の服にもつく」
「…おお、確かに」
「カバンは踏まれるし…乗り過ごしたりする。俺の駅で終点ならいーのに」
ほとんど目が開かない状態で、流川は独り言のようにしゃべり続ける。そんな初めて見る天敵の姿から、花道は目が離せなかった。いつ眠ったのかわからないくらい、流川は自然と寝息を立て始めた。突っ伏した真っ黒い髪に、花道はちょっと指を絡ませる。
「別にヤじゃねーな…」
それどころか、サラリとした髪の触り心地は、想像以上に手に滑るようだった。
初めてオゴってもらったコーヒーを飲み干して、花道は自分の麦茶を取り出した。先ほど天敵が口を付けたところに、そのまま自分も同じようにしてみる。けれど、特に何も感じない。
「…っかしーなー…キツネなのに」
キツネの味があるわけないと自分で笑いながら、もう一度流れる髪を梳いた。朝方ウトウトした花道が目覚めたとき、流川は全く同じ姿勢で眠っていた。寝ギツネだと知っていたけれど、こんなに自分のそばでリラックスするとは思わなかった。花道の顔は、本人の意識とは関係なく、穏やかな笑顔になっていた。
家に帰るのも面倒で、そのまま大学に向かう。生協でTシャツと靴下を買うという具体的な話に落ち着き、その後は会話はなかった。
空いている朝早い電車に揺られながら、花道は目を閉じたまま話しかけた。
「俺にもたれても、俺は別に殴らねーぞ」
キョトンと目を見開いた顔は、それでもまだ寝ぼけている感じだった。これが寝起きの流川なのか、と花道はまた新しい天敵を発見した。
「俺は優しく男らしいからな。守ってやらなくもない。オメーは顔だけ見てりゃ、どっちだかわかんねー」
「…何の話だ、どあほう」
「昨日は青い顔してたくせに」
「……コロス」
握り拳を作った流川に、花道はただ大声で笑った。
大嫌いな相手のはずだけど、ちょっと近づいた気がする。
それからは、同じ電車のときは近くにいるようになった。特に会話が弾むわけでもないけれど、花道はこれも一応「登下校」なのだろうかと真剣に考えた。
あまり校正してないんですが… 花流アンソロジーのボツ原稿です。
ちょっとふさわしくない内容になった気がして、別話を書いたので…
アンソロジーは2月23日のオンリーで発売されると思います。
こんなような、つたない話を載せてもらおうとしております。ごめんなさい…2002.10.17 キリコ