バスケットマンは歯が命
慌ただしい合宿に、どの程度価値があるのか。俺にははっきりとはわからない。けれど、チームプレイであるバスケの場合、互いを知るにはいい機会なのだと思う。知りすぎて良くない場合もあるかもしれない。とにかく、新しい発見があったりするのだ。
「ミッチー? あんだそれ?」
いくつも蛇口の並んだ洗面所で、桜木が先輩の仕草を横からのぞき込む。同じように疑問に思っていても、俺はそこまでしない。
「あがっ? ああ、これ? フロス。使ったことねぇの?」
「…CMでやってるやつ?」
「ああ…まぁそんな感じだな」
短い会話の後、また大口を開けてその糸を出し入れする先輩の姿を、桜木はまだのぞき込んだままだった。俺は、三井先輩の後ろ姿を見ていた。
「…ミッチー」
今度は無言のまま、首だけで桜木に向き直った。
「もしかして、虫歯?」
ほんの少し間をおいた後、三井先輩は糸を手にしたまま桜木を殴った。
「イテーッ」
「バカ野郎! 俺が虫歯になんかなるかよ!」
その根拠はよくわからないけれど、その後桜木に話すタイミングを与えないまま説明した内容は、初めて聞くものだった。
先輩は差し歯をしているらしい。それは宮城キャプテンのせいらしい。それって、だいぶ前の体育館嵐の原因でもあるやつか? まあそれは別として、差し歯というのはかなり詰まりやすいそうだ。一見自分の歯のようだけど、違うらしい。
「虫歯の予防だよ、予防! 身だしなみ!」
「えーそれってどうやんの?」
どこに興味を持ったのか、桜木は目を輝かせてその糸をもらっている。どこからそんな話に展開したのか、ブラッシングがどうとか聞こえる。風呂上がりでぼんやりしていた俺は、歯磨きを止めて部屋に戻った。
次の日の朝、一泊二日の合宿も今日で終わるという日曜日。
何人かずつにゴロ寝していた部屋に、桜木がこっそり入ってきた。実際にこっそりかどうかは、俺は知らないけれど、他の奴らが起きていなかったから、そうなんだろう。
「おいルカワ、起きろ」
「…ウルセー」
「いーから早く!」
何がいいのかわからないまま、腕を引っ張られて転がるように部屋を出た。目覚めないまま連れてこられたのは、洗面所だった。
鏡の前で自分の顔を見ているらしい桜木を横目に、俺は大きな欠伸をした。
「おいルカワ、すげーんだって」
「…何が」
「歯がツルツル」
俺は眉を寄せて考えた。いったい何の話をしているのだろうか。
「ミッチーがよー、昨日歯磨きしてくれたんだ。すげー細かく動かすんだぜ、歯ブラシ。なんか歯医者さんみたいだった。ありゃあ、相当気にしてんな」
勢い良く話す内容に、半分くらいしか付いていけない。
「…で?」
「だからよー、テメーにも教えてやろうかという俺様の親切…」
「いらねー」
やっと頭が起きてきて、桜木の話を遮ることも出来る。
「あにっ! このツルツル観はすげーぞ!」
「…知ってる」
「そーだろう! キミも体験したい…あれ?」
「俺は歯磨きはうまい。ツルツルなのを、テメーが知らないだけ」
桜木がグッと身を引いて、だんだん怒っていく。自慢しようとしたのに、俺に先を越されていたからか。
「お、俺の方がキレイ! 何しろミッチー伝授だぞ!」
俺は大きなため息をついた。これまでも並んだ歯磨きしていたくせに、何も気付かなかった桜木。なぜ三井先輩の言うことは素直にきくんだろうか。
「俺はテメーみたいに虫歯はねー」
「ふぬっ! このヤロウ!」それからのことは、説明しにくい。
歯のツルツルを確かめるためには、やはり舌を使うしかない。
場所も忘れて、お互いにらみ合ったまま、お互いの口腔内をチェックする。
そこには、いつものような「キス」という響きはかけらもなかった。「…テメー、いつからだっ!」
「…ウルサイ。テメーが気づかなかっただけ」
両手を震わせて怒る桜木が、正直おかしかった。こんなところで負けず嫌いを発揮しなくてもいいのに、と思う。そんな桜木に、俺は競争ではなく真面目に歯磨きをしていることを言いたくなった。メンドウだけど。
「歯があるから食べられる」
「……ルカワ?」
「食べられるから、バスケもできる」
「……」
「歯がなくなったら、力が入らない…ってテレビで言ってた」
「…差し歯もか?」
「…それは知んねー。けど、歯は大事」
「そ…そっかな…」
桜木のように虫歯のチェックをしてなかったり、よくケンカするヤツはヤバイ。別に桜木の歯がなくなっても、俺には関係ないけれど。
「ルカワ…」
怒りの解けた声で、俺に近づいてくる。先ほどと違った触れ合いをするのかと思ったら、桜木は俺の口の両端を引っ張った。
「あがっ」
「あー…テメー、綺麗な歯……は、歯だけな!」
それからの部活は、まるでCMのようだった。
「バスケットマンは歯が命!」
体育館に入るたび、そう言いながら磨いた歯を見せびらかす。三井先輩や宮城キャプテンが止めるから、俺は何もしない。どちらにしろ、桜木が虫歯にならなくて俺にも移る心配がないのなら、いい。バスケットをし続けられるなら、いーんじゃねぇ?
ちょ、ちょっとオチてない気もします…
歯は大事ですわ。ホンマに。2002.11.8 キリコ