ドクター
シカゴには秋が訪れようとしていた。
木々が色付き始め、いつも強い風が冷たくなってきていた。
セイントジョゼフ病院のER(救急救命室)の目の前にある大きな公園の入り口付近に蜂蜜色の髪をした若い医者らしき青年がベンチに座り、コーヒーを飲んでいた。飲んでいるといってもコーヒーカップを持ったまま、それを口元には持っていきもせず、焦点の合わない目で芝生を見つめていた。
どのくらいそうしていただろうか。ERの入り口を通りかかったダークブラウンの髪の色の青年がその青年に気がつき、近づいていった。「夜勤、お疲れさま」
その後ろ姿に話しかけると、蜂蜜色の髪をやや乱し、驚いたグレーの瞳がこちらを向いた。その瞳とダークブラウンの髪の青年の金銀妖瞳が出会ったとき、グレーの瞳の青年は少し頬をゆるめ、小さくため息をついた。
”疲れた顔をしている”そう思った。グレーの瞳にいつもの快活さがなくなっている。
医者同士でもあり、親友同士でもあるこの二人は、お互いに決めたわけでもないのに「忙しかったのか」とか「きつかったか」などと聞いたりはしない。肉体的にも精神的にも疲れない日はないのはお互いわかっていたし、顔色や目を見れば、わかるからである。「そろそろ申し送りを聞こうか。」
朝、6時に出勤してきたダークブラウンの髪の青年、オスカー・フォン・ロイエンタールは、この病院の外科医であり、所属は外科であるが、ERに配属されていた。
夜勤をしていた蜂蜜色の髪の青年、ウォルフガング・ミッターマイヤーは、同じく小児科医である。
二人ともドイツ出身であり、現在この病院のレジデンスである。夜間の入退院患者について、それぞれ申し送りを受けて回っていたのだが、最後に亡くなった患者について話し出した。
「AM 3:11、生後6ヶ月の乳児、呼吸停止の通報により当病院に運ばれましたが、すでにDOA状態、呼吸停止より30分以上経過しており、蘇生できませんでした」
ここまで一気に話す間、ミッターマイヤーは顔を上げなかった。
「SIDSか…」
チーフドクターは言った。
「……はい。おそらくは。解剖に回しました」
「うむ。ミッターマイヤー、顔色が悪すぎる。今日はもう上がれ」
「いいえ、今日は夕方まで勤務予定です。大丈夫です」
「そんな顔色の医者は信用されないぞ。つらいんだろうが、立ち直る、または頭の片隅に置く技術をつけろ。いつまでも引きずるようでは、この仕事は続けられないぞ」
チーフの言葉はきついようでいて、当然のことであり、いたわりも含まれていた。ミッターマイヤーは頷くしかなかった。帰り際、ロイエンタールがミッターマイヤーを呼び止めた。
「今日、俺は夕方上がる予定なんだ。ブルズのチケットがある。行かないか?」
目の下に隈を作っているグレーの瞳に力はなく、友人の問いかけに少し考えるふうであったが、ロイエンタールは返事を待たずに、「20時にシカゴセンターの前でな」と言い、仕事に戻った。ミッターマイヤーは呼び止める暇もなく、また断る暇もないまま、廊下に取り残された。とぼとぼと牛歩のような歩調でゆっくり帰路についていたミッターミイヤーは、今朝の乳児について考えていた。
”医療には限界がある。それは誰もがわかっている。俺はその限界まで力を振り絞っただろうか……”
ミッターマイヤーが受け持った患者が亡くなるのは、初めてのことではない。同じような乳児の突然死や溺死、中学生くらいの少年の銃殺、殺し合い(縄張り争いが激しい地域があるため)、いろんな患者がおり、その病態や怪我の種類も様々であり、すべての人を助けることには本当に限界があるのだ。患者が亡くなる度に落ち込んでしまう自分をミッターマイヤーは医者に向かないのではないか、と考えることがある。特に落ち込みが激しくなるのが、今日のような乳幼児の死を目の当たりにしたときであった。彼が担当する小児科では、患者はすべて人生は始まったばかりである幼い子どもたちである。
”死ぬなんて、順番が逆ではないか……”
はるかに年上の自分が生きていて、しかも助けられなかった、そんな思いを持ってしまっていた。
またミッターマイヤー自身は本国に妻エヴァンゼリンを残してきているが、彼ら夫婦には子どもがいない。
”『子どもがいる』ということがわからない俺が、両親に説教できる立場ではないし、『子どもを亡くした』気持ちも今の俺にはわかっていないのかもしれない”
こうやって今落ち込んでいることさえ、子どもを亡くした両親には有り難迷惑なことに違いない…と、いつもそう自分を責めてしまうミッターマイヤーであった。どんなにつらいと思っていても、身体は休息を求めていた。部屋に戻ったミッターマイヤーは食事もせずにベッドに倒れ込み、深い眠りに落ちた。
夢を見ているらしい。
誰か・・・女性が叫んでいる。
何を叫んでいるんだ? 何て言っている?
そう思い、声のする方に走っていた。しばらく行くと、見慣れたドアが目に飛び込み、ストレッチャーがそのドアの中に進められていた。
ああ、救急隊員だ……あれはERか?
しばらくすると叫んでいる女性の姿がはっきりしてきた。今朝の乳児の母親である。
『あああ、私の赤ちゃんが!!!助けて下さい!』
突然、両腕に痛みが走る。母親が自分の両腕をがっしりとらえ、激しく揺すぶる。
『先生!先生!先生!』
先生とは……俺のことか…。ああ、俺は医者だったっけ……
救命処置を施そうと思うのだが、体が動かない。指示を与えようと思うのに、声が出ない。
『先生!早く何とかして下さい!お願いです!!!』
叫び声は聞こえている。俺も処置をしたい。しかし、体が動かないのだ。母親は叫び続ける。
俺は、俺は医者じゃない! 俺はこの場から逃げてしまいたい!!!
どこかで赤ちゃんが泣き声が聞こえる……ああ…、赤ちゃんの元気な声が……
電話の音に、全身がビクつき、目が覚めた。
「…あっ?」
やっと自分は夢を見ていたこと、泣き声だと思ったのは電話のベルの音だったことを理解した。
電話は何回コールしたのだろうか。呆然としながら聞いていても、まるでミッターマイヤーがそこにいるのを知っているかのように、いつまでも鳴り続けていた。
ようやく重い身体を起こし、電話にでる。
「……はい」
今、声は出るらしいとミッターマイヤーは思った。それは友人の金銀妖瞳からの電話であり、時計を見て、驚いた。21時を過ぎている。確か待ち合わせは20時ではなかったか・・・
思考を戻そうと寝ぼけた頭で必死に考えたが、それよりも早く、
「起こしたか? 悪かったな。どうせそんなことだろうと思って、近くまで来たんだ。寄っていいか?」
ロイエンタールの優しいテノールが受話器の向こうから聞こえてきた。
ミッターマイヤーは目を閉じながらその声を聞いていた。
”なぜ、あいつの声はこんなに安心できるのだろう……”
30分以内に来るらしいとのことで、ミッターマイヤーは慌ててシャワーを浴びに飛び起きた。
ゆっくりとバスタブにつかり、目を閉じた。
少しでもぐっすり眠れたおかげだろうか、肉体的な疲れは取れたようで、もうすぐロイエンタールが来る、そう思うだけで安心感がわいてきて、体中がリラックスしてきた。
そして、かろうじて水面から鼻と口を出したまま、また眠りに吸い込まれていった。ロイエンタールはベルを押しても出てこない友人を不思議に思ったが、交換していたキーを使い、中に入って声をかけた。しかし返事はなかった。
ベッドで倒れているのでは、と心配になり、ベッドルームに駆け込んだが、その友人はいなかった。
キッチン、ダイニング、客室・・・クローゼットの中まで探したが、見あたらない。
”買い物か?”
と思った時、バスルームでポチャンという音が聞こえた。
ロイエンタールはまさか、と思いながらバスルームを静かにのぞくと、その大切な友人は器用にバスタブの中で眠っていた。ロイエンタールがそばに立っていても目も覚めないらしい。ちょっと信じられないという表情をした(といっても他の人が見れば表情は何も変わっていないだろうが)ロイエンタールはこのまま放っておけば風邪を引いてしまうであろうその小柄な身体をバスタブから抱き上げ、そのままベッドに連れていった。揺れているはずなのに、ミッターマイヤーは目を覚まさない。ベッドに静かに横たえた身体を新しいタオルで拭いていたとき、くすぐったそうに横を向いたミッターマイヤーが目を覚ました。グレーの瞳はその金銀妖瞳を見ても、しばらく現状が理解できなかった。
”あれっ、ロイエンタール? 電話してたんじゃなかったっけ……? いや、その後来るって言ってたっけ?”
瞳をぶつけ合ったまま、どちらも何も言わなかった。
ミッターマイヤーは考え込んでいるらしいが、ロイエンタールはあきれているのである。何しろミッターマイヤーは何も着ていない。しかもそれに気がついていないのである。
いつまでも呑気にしている友人を楽しそうに見つめていた。今朝に比べ、顔色も声の調子もましになったようだ。
「ロイエンタール、いつ来たんだ?俺、気がつかなかったよ」
ロイエンタールは、無表情に見えて、実は笑いをこらえていた。実はこの大切な友人を友人以上の想いで長年見つめていたのである。その愛しい人は今、自分の前で素っ裸なのである。こんな楽しい友人を無くさないためなら、このまま本当の気持ちを告げなくても良い、とロイエンタールはずっと考えていた。
気がつくまで放っておくのも楽しかったが、このままではやはり風邪を引く。医者が風邪を引いてはしゃれにならない。そこで目線で訴えた。ミッターマイヤーのミッターマイヤー自身を見つめるために目線を落としたのである。
「ロイエンタール?」
どこまでも抜けているミッターマイヤーであったが、やっとその視線の意味に気がつき、自分が自分のすべてを友人に晒している現状を理解した。「うわわわわわああああぁぁぁぁっっっっ!!!!!」
例えようのない叫び声あげたミッターマイヤーは、やっとシーツをかき集め身にまとった。ロイエンタールはついにこらえきれない、といった表情を一瞬したが、すぐに横を向いてしまった。しかし横を向いて吹き出していた。
そのリアクションが堪らず、さっきから見せつけられていた引き締まった身体を、抱きすくめ押し倒した。
「なっ!?」
驚きの声をあげるより、非難の言葉をあげつらう前に、ロイエンタールはその唇を唇で塞いだ。腕の中でモガモガ言っているのが聞こえたが、ここまで来て止めるつもりはなかった。
やがて抵抗の様子もなくなり、驚きに見開いていたグレーの瞳も震える瞼に閉じられ、次第にロイエンタールのキスに酔っていった。
その口元から声ではないため息が聞こえ始めた時、別のところから別の音が聞こえた。グウウウウウゥゥゥゥゥゥゥ・・・・・
二人ともキスをしたままお互いの目を合わせた。
ロイエンタールは経験豊富な漁色家である。そのロイエンタールですらこんなことは初体験であった。こんなにいい雰囲気で盛り上がったのに、なぜ腹が鳴る……、ロイエンタールは起きあがり、おそらくは大きなため息とともにそんな思いが表れたのであろう。
「ゴ、ゴメン。ロイエンタール! そういえば、今朝から何も食べてないんだ!」
ミッターマイヤーは慌てて弁解し出した。ロイエンタールは同時に朝から食べていないということにも呆れ、また大きなため息をついた。ミッターマイヤーは本来ならいきなり押し倒されキスされたことに抗議して良さそうなものであるが、次々とやってくる驚いた展開に頭がパニックになっていた。
ロイエンタールは思う。良くこんなに簡単にパニックになるようなヤツが医者をやっていられるな、と。しかし実際病院ではミッターマイヤーは優秀な医師であり、診断、技術も確かであった。
珍しくロイエンタールは声を出して笑い出した。
”ああ、ミッターマイヤー、お前ってヤツは……”「とりあえず食事だな。」
冷静さを先に取り戻したロイエンタールは腹を空かせた友人のために遅い夕食の準備を始めた。友人が用意してくれた食事をきれいに平らげたミッターマイヤーは、ようやく人心地つくことができた。
少しは元気を取り戻したらしい友人にロイエンタールは話出した。「ミッターマイヤー、お前は自分が医者に向いてない・・・とか思っていないか?」
核心をつかれ、ミッターマイヤーは黙ってしまった。その通りであったが、口に出すのはこわかった。
「お前は小児科医だ。お前には子どもがいない。救えない時、よりいっそう居たたまれなくなるのだろう。しかしな、お前の手で救われた患者がいることを忘れるな。お前が優秀で努力家で誰よりも子ども達を大切に思っていることは、ずっとそばで見てきた俺が保証する。俺を信じろ、ミッターマイヤー。お前は必ず良い医者になる。」こんな短い言葉で言ってほしかったこと、また自分でもわかっていたのに忘れていたことを自分の目を見つめながら話してくれる友人に、言葉では表現できない感動と感謝の気持ちでいっぱいになり、涙を潤ませた。ロイエンタールはわかってくれている、自分を見守ってくれている、そう思い、想いが溢れでて両手を大きく広げ、広い背中を包み、ギュッと力を入れて、「ありがとう」と感謝の言葉を述べた。
ロイエンタールとしては、それだけでは物足りないのである。
「感謝の言葉だけか? ミッターマイヤー。別に感謝してくれなくても良いから……」
そういいながら、目を細め顔を近づけていった。
ミッターマイヤーは手を友人の顔にあて、丁重に(?)お断りした。
「お、お前、何考えてるんだ? 俺にはエヴァがいるんだぞ!!」
真っ赤になりながら抗議したが、そんなことは意に介さないといった調子でミッターマイヤーを抱きしめた。
「なっ、バカ!離せって!」
「今日の待ち合わせは何時だった?」
抗議の声の途中で低い声が割って入った。そうである。ミッターマイヤーは今日約束を疲れていたとはいえ、すっぽかしたのである。
「もう秋だよな、ミッターマイヤー。俺は1時間待ったんだぞ。今日は殊の外風が強かったよなぁ…」
ミッターマイヤーにはグゥの根もでなかった。確かに自分が悪い。家に来てもらい、バスタブから救ってもらい、あげくには夕食を作ってもらい、慰めてもらい、……もらいっぱなしなのである。
「ぐっ……キスでいいんだな。一回だけだからな!」子ども同士がするような軽いキスを受け、ロイエンタールは不満足。キスとはこうするものだ、といわんばかりに熱烈なキスを返す。抵抗もむなしくあっさりと「ん…ふぅん……」という声が漏れてきた。
次の日の朝、二人の医者が遅刻したかどうかは、秋の空とチーフドクターだけが知っている。
レジデンス:アメリカの医学過程は4年制大学を卒業して、医学学校で4年学び、卒業して医師の免許を取得後、レジデンスとして病院に配属され、スタッフまたは先輩レジデンスに指導を受けるそうです。日本でいうインターンみたいなものかな。でも日本のインターンとは違って、レジデンスになった時には、すでにかなりの経験を積んでるみたいですよ。
DOA:Dead on Arrive・・・到着したときにはすでに死亡している状態
SIDS:Sudden Infant Death Syndrome・・・それまでの健康状態および既往歴から、その死亡が予想できなかった乳幼児に突然死をもたらした症候群。剖検によってもその原因が不詳なもの。(乳幼児突然死症候群)
1999.6.7
2000.9.15改稿アップ
キリコ