ドクター

 ルーミー


「Dr. ミッターマイヤー。Dr. ロイエンタールのルーミーになったんですってね」
 ERのナースに突然話しかけられた。
「ああ…」
 ミッターマイヤーは、曖昧な返事をした。実は、ミッターマイヤーは職場の同僚たちにどう思われるかが、一番こわかったのだ。成人男性が一緒に住む……そう思われても仕方がないかもしれない。

”関係は、そうかもしれない。…しかし俺にはエヴァがいる…”
 そう、事実なのである。
 そして今、ミッターマイヤーはロイエンタールと一緒に暮らしている。ロイエンタールのアパートメントにほとんど無理矢理引っ越しさせられて、10日になる。それは10日前…


「一緒に暮らそう」
 いきなりそうロイエンタールに言われた。遅刻した次の日のことである。
「……お前、俺にはエヴァがいることを分かってて言っているのか?」
 もちろん、というロイエンタールの神経をミッターマイヤーは疑った。しかし、妻がいながらこういう関係になる自分の神経も相当だ、と反省した。
 ロイエンタールの説得によると、レジデンスのなけなしの給料を、別々の家賃で使い果たすことの無駄さ、一人暮らしより二人分の食事についての経済性、サラリーマンではなくお互い勤務時間がバラバラであり、一人になる時間ももてること、そして一緒にいても気兼ねのないこと、…そして最後にはただ単に、
「一緒に暮らしたい」とのことだった。
 どうも流されているようだが、果断速攻のミッターマイヤーの特権を奪ってしまったかのように、ロイエンタールの行動は早かった。さっさと引っ越しの準備をし始め、あげくにはミッターマイヤーの実家にいるエヴァンゼリンに連絡までしていた。
「……等々の理由により、ご主人と一緒に暮らさせていただきたいと思っております。奥方に一言ご挨拶をし、許可をいただきたいと思っているのですが…」
「まぁ、それはご丁寧に、ありがとうございます。ロイエンタールさんとご一緒なら何の心配ありません。どうぞ、よろしくお願いいたします」
 と、あっさり承諾したというから、エヴァンゼリンもたいしたたまである。

 ミッターマイヤーは、自身のことなのに、自分以外のところで話が進んでいることに始めは戸惑いを感じていた。そして実際に男性と一緒に暮らすのは、学生時代以来なのである。留学生にとって、家賃の安い寮はありがたいものであり、ほとんど選択の余地はなかった。学生時代のルーミーは気持ちのいい友人であった。約4年間、大きなトラブルもなく、うまくやっていた。一方、ロイエンタールは実は、
”財閥だか、成金だか知らないが、とにかく金持ちの長男だしなぁ…”
 つまり学生時代から、アパートメント(しかも学生が住むような所ではない)で優雅に一人暮らしであり、今もいわゆる超高級マンションに暮らしている。ロイエンタールはおそらくお金に困ったことはないであろう。なので、同居の話も、経済的に助かるのはミッターマイヤーの方のみであった。
 こんなロイエンタールとひょんなこと(?)から肉体関係を持ってしまい、同居もしたことないような、しかも生活感覚も違っているような男とうまく暮らして行けるだろうか…、とミッターマイヤーは心配していた。

 それでも、同居し始めて3日目あたりから、どうも想像していたロイエンタールと現実のロイエンタールが違うらしいということに気がついた。テキパキと家事をこなし、料理もかなりうまい。凝ったものを作れないミッターマイヤーとは大違いであった。知り合って10年になるのに知らない面もあったんだ、と驚いた。
”ひょっとして助かっているのは、俺だけか…?”
 と、10日目の今日あたりから、思い始めたのである。

 今日は二人とも夕方までの勤務予定であった。しかし緊急患者などにより、絶対に帰れるわけではい。ミッターマイヤーはロイエンタールより早く帰宅した。
 負担にはなりたくない、と真剣に考え、ロイエンタールのために夕食を作り始めた。そして、煮込んだりする合間に洗濯し、乾燥機のまわる音を聞きながら、ようやく落ち着いて頭の中を整理する気持ちになった。
”何で俺…、ここで暮らしてるんだっけ……? ロイエンタールが望んだから?・・・それだけ?
経済的な面から言うと、かなり助かる。ということは、俺はロイエンタールを利用しているのか……?”

 何の納得もないまま、引っ越してきてしまったせいか、ミッターマイヤーは今頃になって、あれこれ考えてしまった。生来が真面目なだけに、エヴァンゼリンへの罪悪感、同性と関係を持ってしまった後ろめたさ、しかも相手は漁色家である。流されたまま過ごしてきたが、このままでよいのだろうか。
”ロイエンタールは一緒に住もうと言ってくれた。ならば、良いではないか…”
 しかし、ミッターマイヤー自身の気持ちは、自分でも今ひとつハッキリとしなかったのである。
”とりあえず、せめて家政婦がわりのことでもしないと…”
 等々、ソファーでゆっくり考えていると、日頃の疲れがドッと出てきたように感じた。
 ちょっとだけ、とうつらうつらする頭の中で、何か音が聞こえてきた。しかしその音が何の音だか、ミッターマイヤーには判断できなかった。しかし、その音は止まない。シュー、プシューといった音…が鳴り続ける。
”なんだっけ……”
 やっと思い当たり、慌てて起きあがりキッチンへ走り込む。鍋をかけっぱなしだったのである。蓋を取ろうとして、鍋つかみも持たずに触り、右手に焼け付くような痛みが走った。
「アチッ!!!」
 耳たぶを触る。指を口の中に入れる。その動作ははっきり言って、あまり医者らしくなかった。

「氷で冷やせ」
 と腕をいきなり引っ張られ、水道からの冷たい水に熱い指が浸された。そのままでいると、ロイエンタールは手際よく氷を砕き、ビニール袋に入れ、冷やすように渡された。
「……ありがとう」
 熱い指を見ながらミッターマイヤーは小さく言った。
「あれ…、ロイエンタール、いつの間に戻ったんだ?」
 ロイエンタールは口の端でニヤリと笑いながら、
「甲斐甲斐しい妻のピンチに登場するなんて、なかなかよくできた亭主と思わないか?」

 しばらくその意味を理解できなかった。
”誰が妻……? 亭主?”
 ミッターマイヤーはその意味を理解するのと平行して、顔色がだんだん赤くなっていった。
「な、何をいっ…う…っ!」
 ミッターマイヤーが文句を言い始めると、必ずといっていいほど、口を口で塞がれた。


 ミッターマイヤーはその指を冷やしながら、二人は食前のビールを飲んでいた。今日は呼び出されることはないはずであった。二人の関係は10日を過ぎたところであり、また一緒に暮らし始めてから、こうしてゆっくり一緒に呑むのは初めてであった。
 真剣に見ているとは思えないがブラウン管を眺めるロイエンタールの横顔を、ミッターマイヤーは横から見つめていた。これまでも二人で呑むことは多かったし、泊まることもあった。
”俺はなぜロイエンタールとこういう関係になったんだっけ……?”
 その横顔は相変わらず美しく、男の目から見ても惚れ惚れする。
”望まれたからか…?”
 たったそれだけで、男性と関係を持つことができるのか、エヴァンゼリンを裏切るようなことをしているのか、そういう考えが、最近のミッターマイヤーの頭の中から離れないでいた。

 ミッターマイヤーとロイエンタールは学生時代からの友人であり、かれこれ10年近くのつきあいになる。これまで、お互いにそういう気持ちでいたのだろうか、ロイエンタールはいつから自分のことを、そういう風に見ていたのだろうか、昔から変わらない美しい横顔を見ながら、ミッターマイヤーは遠い記憶を呼び起こしていた。


「後悔しているのか」
 ブラウン管を見たままのロイエンタールが突然話かけてきて、驚いた。そのヘテロクロミアはどう見てもブラウン管の内容は見ていない。その口調から、なんだか自信家のロイエンタールらしくない印象を受けた。
「…後悔って…?」
 こちらを向いたロイエンタールの金銀妖瞳は、寂しげで美しく、ミッターマイヤーに初めて会ったときのことを思い出させた。
「……もう10年近くになるな…」
 ミッターマイヤーは呟いたと同時に思い出した。つぶやいた。
”ああ、そうだ。俺はあの頃からこの瞳が好きだった……”

「ロイエンタール。…お前はいつから、その…俺のことを……?」
 ミッターマイヤーは上目遣いに聞いた。深い関係になったというのに、こういう話題は初めてだった。
「ミッターマイヤー、お前は…?」
「俺? 俺は…、お前のことそういう風に考えたことは……」
”なかった、……だろうか……?”
 二人とも見つめあったまま、黙っていた。
「俺はお前の瞳が好きだった。初めて会ったときから」
 きっぱりと言い切ったが、ロイエンタールは少し驚いたようだった。
「ほう…。この瞳、俺は嫌いだね。」

”ロイエンタールは自分の瞳のことを…、そして、自分自身を否定している。そうだ。俺はそんなロイエンタールから目が離せなかった。俺の心配なんてありがた迷惑かもしれないが、ずっと気にかけていた。そして、これは友情だと思っていた…。俺は…、ロイエンタールを友情以上の気持ちで見ていたのだろうか・…? …わからない…。俺はエヴァを愛している。ではなぜ、ロイエンタールを拒まなかった…? あの時、「拒絶」なんて気持ちは出てこなかった。今も驚いているだけだ……。と、いうことは……それでは俺は……?” 
 ミッターマイヤーは、黙って考え込んでしまっていた。

「ウォルフ」
突然、ファーストネームで呼ばれ、ミッターマイヤーは目を見開いた。
「……好きとか愛してる、とかではうまく言い表せないが、俺は今、お前とこうしていたいんだ」
 ロイエンタールはミッターマイヤーの前に跪いた。
「ダメか…。ウォルフ。」
 まるで昔の騎士の求婚のように、自分の目の前に跪き、両手を握るロイエンタールに、ミッターマイヤーは戸惑うとともに、赤面し、そして喜んでいる自分に気が付いた。ミッターマイヤーが返事をする前に、ロイエンタールはミッターマイヤーの両手にキスをした。
「…荒れた手だ…。ウォルフ」
 さっきから何回も名前を呼ばれているのに、その度にミッターマイヤーは気持ちが落ち着かなくなった。
照れた笑いを浮かべながら、今度はロイエンタールの手を自分の口元に持っていき、同じように口付ける。
「人のこと言えないな…オスカー…」
 語尾はかなり小さな声になっていった。ミッターマイヤーもロイエンタールのことをファーストネームで呼んだことはなかったのである。
 それだけで、二人が特別な関係になったのだと、お互いが理解した。

「改めて申し込む。一緒に暮らしてくれるか、ウォルフ」
 まっすぐにグレーの瞳を見つめたまま、真摯な瞳を向け、ロイエンタールは言った。
”いつか、ドイツに帰ってしまう…そのときまで…”

「ああ。…俺、何でもするよ。ロイ…オスカー。よろしく頼む」
 ずっとのぼせた顔のまま、ミッターマイヤーもヘテロクロミアを見つめながら、はっきりと答えた。
”今、俺はこうなることを望んでいる。だから今は…悩んだり、迷ったりするのは止めよう。”

 二人は見つめ合ったまま、小さく笑った。
「では、さっそく頼もうか」
 ロイエンタールはすっくと立ち上がり、ミッターマイヤーを引っ張った。
「食事なら…とりあえず、明日の分も出来てるし、洗濯も……」
 しかし、ミッターマイヤーが引っ張られていったのは、ダイニングなどではなかった。
「バ、バカッ!!! 夕食が先だ!!!」
「いや、夕食の前がいい」
 ロイエンタールはずんずん引っ張っていく。
「その方が、遅刻しないと思うが…?」
 振り返って口の端でニヤリと笑うロイエンタールには、先ほどまでの自信なさげな様子は全く見られなかった。ミッターマイヤーは絶句したが、結局ロイエンタールに引きずられて行くのであった。


 二人の新しい関係と、新しい生活は今日からスタートした。

 

 


1999.6.20
2000.9.15改稿アップ
キリコ

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