ドクター

 風邪と思い出・前編


 医者の不養生とは良くいったものだ。

 新しい生活環境に慣れてきた頃、職場の同僚がひどい風邪で休んでしまった。そのカバーでロイエンタールもミッターマイヤーも忙しく働いていた。ほとんど病院から帰らず、睡眠時間もろくに取れなくなった。そろそろ初冬には入り、季節の変わり目ということで世間でも風邪が流行りだし、ERも急変した患者が毎日毎晩運ばれてきていた。
 過労と睡眠不足、食事バランスが崩れたせいもあるだろう。ミッターマイヤーは見事に風邪を移され、今度はミッターマイヤーが休むことになってしまった。

 朝、出掛けにミッターマイヤーの体温を測ったロイエンタールは、まだ勤務に戻れそうにない同僚、同居人そして恋人を心配した。
「…今日も寝ていろ」
「あれ? まだ熱あるかな?」
「そんな腫れぼったい目をして…顔も赤いぞ。医者なんだからわかるだろう」
 ロイエンタールは、少々呆れながら手のひらをミッターマイヤーの額に当てた。
「自分で自分の診断が出来れば苦労はしないよ」
 そう言いながら口を尖らせている様子に、昨日よりはましだと判断したロイエンタールは、手を当てていた額にキスをして、出勤していった。

”あいかわらず、さりげなくかっこいいことが出来るよなあ…”
 と、同性として羨んでみたり、恋人として嬉しかったり、複雑な心境になった。

”熱があるなら、とりあえず何か食べて水分を取って…薬のんで寝ていよう。ビタミンCになるもの、何かあるかなぁ…”
 食欲はなかったが、医者として治療法は守らなければ、と思ったし、早く復帰しなくては、同僚達に迷惑をかける。何よりロイエンタールに心配をかけており、少しでも負担にならないようにと考えていた。
 キッチンには温めれば良いスープとオートミール、そしてオレンジが3つ置いてあった。それを見て 、さすが、 とクスリと笑った。少しでも食べようと頑張ったが、さすがにオレンジは1つだけにしておいた。内服薬をロイエンタールの指示通りにのみ、ベッドに戻った。


 疲れた時や高熱のがある時、人間は不思議な夢を見ることがある。
 昨夜のミッターマイヤーはまさに、とんでもなく奇妙な夢を見た。はっきり覚えているわけではなかったが、漠然と不安感や焦燥感を感じ、何かに追いかけられる夢だった。
 高熱ではなかったものの、まだ熱の残るミッターマイヤーはまた嫌な感じの夢を見ていた。
 夢だとわかっているのに、起きることが出来ない。
 逃げようとするのに身体が思うように動かない。
”誰か助けてくれ……”
 そう夢の中で叫んだとき、頭がヒンヤリしたのをはっきりと感じた。
”なんだ…?”
 重たい瞼を開くと、焦点がはっきりしないままでもそのヘテロクロミアを認識できた。少なくともミッターマイヤーはそう思った。
「これを服め。ウォルフ」
 背中を支えられて、口の中に何か入れられる。コップをあてがわれるがうまく飲めなかった。ロイエンタールはそんな様子に、自身の口に水を含み、口移しで飲ませた。恋人の喉が、コクンと飲み込むのを確認し、また静かに熱い身体横たえた。
 ミッターマイヤーは、再び深い眠りに落ちかけたとき、額がまたヒンヤリとした気がした。


 それからどれくらい眠り続けただろうか。
 ミッターマイヤーはふっと目を覚ました。意外と頭はすっきりしており、今度は夢も見なかったようだ。時計を見ると、午後6時である。ロイエンタールはまだ帰っていないようだった。
”忙しいだろうから、帰ってこないかもな…”
 薄暗い部屋はひんやりと、やけに広く感じて、ミッターマイヤーは心細くなった。そんな思いを振り払うように首を左右に大きく振った。
 起きあがり、鏡で改めて自分を見ると、顔色も良くなっていた。そして汗まみれなことに気がついた。汗をかいたなら、熱も下がったんだろう、などと測りもせずに判断し、軽くシャワーを浴びても良い、と自分に言い聞かせた。

 シャワーを浴びてスッキリし、ガウンを着ようとしたその時、ロイエンタールが脱衣所に入ってきた。ミッターマイヤーはビックリした。入ってきたことにも驚いたが、その表情がどう見ても怒った顔だったからである。
「お、お帰り…」
 ほとんど反射的にそれだけ言った。普段ならここで『ただいまのキス』が来ただろう。しかしロイエンタールはにこりともせず黙ったまま踵を返し、ミッターマイヤーがガウンを着ている間にブランケットを取ってきていた。ミッターマイヤーにはロイエンタールが何をしようとしているのかわからず、首をかしげて恋人のすることを見ていた。
 いきなりブランケットにくるまれたミッターマイヤーは抱えられ、脱衣所から連れ出された。これまでの展開から行き先は寝室…とミッターマイヤーは顔を赤くしながら想像した。
 ところが、横たえられたところは、キッチンから見えるソファだった。ソファといってもソファベッドと言っても良く、そういう展開から思考が離れていないミッターマイヤーは ”ここで?” とちょっとドキドキした。

 ロイエンタールは、自分が心配しているよりも、ミッターマイヤー自身が自分を心配し足りない気がしてならなかった。自身が医者であるミッターマイヤーが判断を誤ることはないとは思ったが、”今朝まで熱があった人間がシャワーだと? 熱がぶり返したらどうするんだ!” と考え、いらついていたのである。しかし、先ほど抱き上げたあとのミッターマイヤーの表情から察するに、そういうことを期待できているらしい真っ赤な顔は、愛しい恋人の回復を物語っていた。心の中で安心と期待への返答を考えてはいたが、やや自覚が足りない恋人へのちょっとしたいたずら心から、あくまで無表情で黙ったまま次々と行動を起こしていった。

 病室になっていた部屋の空気の入れ替えかたシーツの取り替え、洗濯機を回し始めたと思ったらキッチンで音がし始めた。ミッターマイヤーはソファに長まりながら、その姿を目で追っていた。そして、その手際の良さや余計な動きがないことに感心した。
”何をやらせても器用にできる人間っているんだなぁ…。外科手術だって、長時間になるのが普通だけど、それをいかに短時間で手際良く、その後も良く、なんてことが外科医には求められるわけだ…。なるほどあいつは外科医に向いている…”
 ミッターマイヤーは医者として同僚として尊敬し、恋人として惚れ惚れしていた。
 同棲、恋人、という環境に慣れたミッターマイヤーは素直にロイエンタールに惚れている、という表情を隠さなくなってきていた。というよりは隠せなくなってきていたのである。

 キッチンでの彼の動きを見ながら、頭の中で何かデジャブゥのような感覚がわいてきた。
”あれ…、俺以前にこの角度からロイエンタールを見たことがある…。いつ、どこで…?”
 最近ではないような、などと必死で思い出そうとしたミッターマイヤーは、顔に影ができるまでロイエンタールがそばに来ていたことに気がつかなかった。
「これでも飲んでいろ」
 抑揚のない声で差し出されたのは絞り立てのオレンジジュース。

”……オレンジジュース。……そうか”
 ミッターマイヤーはそのキーワードをいきなり差し出され、驚き、思い出し、そして楽しんだ。突然笑い出した恋人をちょっと不思議に思ったロイエンタールだったが、まだ折れるつもりはなかった。ミッターマイヤーは笑った顔のまま、ヘテロクロミアをじっと見つめ、穏やかな笑顔になっていった。
「キスしてくれよ。オスカー」
 ロイエンタールとしては、ここでなぜか楽しそうに笑っている恋人に負けじと意地を張っていたが、その幸せそうな笑顔にはかなわなかった。
 ゆっくりと両手をテーブルとソファの肘掛けに置き、身体を倒していく動作もゆっくりとしたロイエンタールに、ミッターマイヤーは両手を彼の首の後ろにかけ、引っ張った。予定にない行動を仕掛けられると人間はバランスを崩すものである。ロイエンタールはキスよりも先にミッターマイヤーの上に倒れ込んだ。
 風邪を引き込んで以来おあずけだったその唇に、久しぶりの挨拶のつもりでゆっくりと堪能し、お互いなかなか離れられずにいた。ミッターマイヤーは笑った顔のままキスしていた。グレーの瞳は楽しそうだ。
「何が楽しいんだ…ウォルフ」
「…ちょっと」
 会話するのももどかしそうに、ほとんど唇を離さなかった。

 甘い恋人達の時間は、ポケットベルの遠慮ないピーピー音に中断させられてしまった。思いっきり舌打ちしたのはロイエンタールの方であった。
「あれ…仕事終わって帰ってきたんじゃないのか」
「…食事休憩」
「わざわざ家まで?」 
 確かに遠くはないけど、とミッターマイヤーは不思議に思った。
「…放っておくと一人でシャワーを浴びるヤツがいるからな」
「俺は子どもじゃないぞ!……でも、ひょっとして昼間も帰ってきてくれた?」
 ロイエンタールはまだ名残惜しそうに優しくキスした。
「…楽になったか?」
「…うん。ありがとう。オスカー」
  ミッターマイヤーは感謝のキスを送った。

 ミッターマイヤーのための作りかけの食事、といってもほとんど出来ていた。
”ほんとに手際のいいヤツだなぁ…”
 結局夕食にありつけなかったロイエンタールの帰りを待っていたかったが、先手を打たれたかのように、
「絶対に先に食べていろ」という出掛けの甘くない一言があったため、ミッターマイヤーは一人で食べ、これで最後にしても良いであろう薬を服んだ。テーブルには食後のデザート用にオレンジが置いてあった。
”オレンジ…”
  また思い出して笑いがこみ上げてきた。

”そうだなぁ…留学してそろそろ10年。あいつの知り合ったのも同じ頃。あんまり思い出したりしないで突っ走ってきたからなぁ……”

 昔のことを一生懸命思い出しながら、ロイエンタールの帰りを待つことにした。
 朝、オレンジを見たときは何も思わなかったのに、何かのきっかけで思い出すことが出来る。
 そう思うと、忘れてしまっている愛しいロイエンタールに会いくて、必死に思い出そうとした。

 待っている人がいると、広い部屋も寂しくはない。
 待つことがこんなに楽しいことだったのか、と強く実感していた。

 


1999.6.30
2000.9.15改稿アップ
キリコ

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