ドクター

 風邪と思い出・後編 


 ロイエンタールが仕事に戻った後、ミッターマイヤーはそのままソファの上で目をつぶり、記憶を呼び戻すことに集中した。懐かしい思い出、昔のロイエンタール。オレンジをきっかけに思い出したことがあった。

”オレンジ…。オレンジをしぼって作ったオレンジジュース。
あれは俺が初めてあいつの家を行ったときのことだったっけ……”

 
 ウォルフガング・ミッターマイヤーが医師になると決心したのは11歳の時であった。近所の友人がある日突然亡くなったことがきっかけであり、元々努力型の人であったが、そのために猛烈に勉強し、アメリカの生物学部に入学した。16歳の誕生日を迎えてすぐに入学式であったので、相当頑張ってスキップしたことになる。ドイツの医学も進んではいるが、両親の元を離れて努力してみたいと思ったのである。
 留学して、まず語学の壁にぶつかった。英語を母国語としない学生が英語の講義を聴くということは、英語圏の学生の数倍の努力が必要であった。しかし、ミッターマイヤーは留年もせず4年で卒業した。
 入学して最初のハロウィンの頃、講義が終わった後、友人達と教室を出たミッターマイヤーは廊下に出た途端、思いっきり人にぶつかってしまった。こけたのはミッターマイヤーの方であったが、相手の荷物をこれ以上ないくらいぶちまけてしまったのである。「ごめん」と言いながら拾い集める内に、珍しい物が目に入った。男性が持つには珍しい物と男性だからこそ持つべきなのかもしれない物、である。
 前者は口紅、後者は…箱入りゴム、どちらもラッピングリボン付き、であった。
 拾い上げたミッターマイヤーはどのような表情をして良いの分からず、真っ赤な顔をして俯いたまま、その二つの物を握りしめていた。そのままさりげなく渡せば良かったのだろうが、そういうことに潔癖なミッターマイヤーはあまりの驚きに行動が止まってしまったのであった。

「ほしいのか」

”…悲しいかな…。これが俺が初めてあいつの声を聞いた、そのセリフか……”

 低いテノールに驚いて顔を上げ、相手に拾った物を押しつけるように返したミッターマイヤーは、照れからか怒りからか、わからないが真っ赤な顔をしたまま睨み付けようと、初めて相手の顔を見た。顔、というよりはその瞳だけを見たのかもしれない。
 あまりの驚きにまた動きが止まってしまった。珍しい瞳、だということにも驚いたが、その美しさ、そしてどこか寂しさを持ったような瞳に、黙って見入ってしまったのである。
”なんて瞳だ……”

”あの時、俺はどんな顔してたかなぁ。とにかく驚いた顔だったろうな”

 グレーの瞳を大きく見開いたまま、失礼な奴だと思ったことも、口紅もゴムのことも忘れてしまってその左右の色が違う金銀妖瞳を見つめていた。相手もその2色の瞳で見つめる、というよりは睨むような目つきであったが、ミッターマイヤーは目を逸らさなかった。
 ロイエンタールはほんの少し唇の端を上げ、そのまま去っていた。しばらくその後ろ姿を見ていたが、彼がオスカー・フォン・ロイエンタールであり、いろんな意味で有名人なのだということを友人達から知った。友人達の興味はもっぱら彼が落とした内の2つの物に集中していたが、ミッターマイヤーは別のことばかり考えていた。
 ロイエンタールが自分と同じくドイツからの留学生であること、化学部の学生であること、今は自分達と同じ学年らしいが、昨年から留学しており、何かの理由で休学していたらしいこと、そして有名なのはその漁色家としてらしいこと、などを友人から聞かされた。何かと目立つ奴だ、と友人は言っていた。

 それから特に口を聞く機会はなかったが、おそらくお互いよく出会っていた。自然と見つけられ、よく目が合った。人混みの中を歩いていても、すぐに見つけることができた。

 初めての夏休み、ミッターマイヤーは母国ドイツに帰省することにしていた。寮は夏期休暇を利用して留学してくる学生のために開けなければならず、また2ヶ月ほど帰省するので、荷物も送っていた。
 夏休みに入ってすぐの朝早く、寮を出されたミッターマイヤーは今夜の飛行機までどうやって過ごそうかと考えていた。友人たちも帰省したり、旅行に出たりであったので、ミッターマイヤーはとりあえず、散歩がてら一人でフラフラしていた。シカゴも初夏であり、爽やかであったが、風が冷たいのかミッターマイヤーはややゾクゾクしていた。
 後ろから車のクラクションが鳴り、振り返るとごついメルセデス・ベンツが止まった。車なんてもっと機能的なものでもいいじゃないか、と関係ないことを考えながら、運転手を見ると、夜会服を着たロイエンタールだった。
「何をしている」
「何をって…。歩いているだけ……」
”それにしてもよく後ろから、俺ってわかったな…。ほとんどしゃべったこともないのに…”
「…よくそんな顔色で散歩できるな。」
”顔色で散歩するわけじゃないだろう…、いやそういう問題ではないのか…”
 なんとなく頭の回らないミッターマイヤーであった。
「とにかく乗れ」
 一瞬なぜという疑問がわいたが、断れない雰囲気の口調に、ミッターマイヤーは黙って乗った。後になってから、それほど親しくない奴の車に乗るのも危険なことだと反省したが。

 黙って運転していたロイエンタールに連れて行かれたのは、およそ大学生が住むようなところではない、いわゆる高級マンションに部類すると言ってもおかしくないアパートメントだった。アパートメントの入り口も豪華であったが、部屋の豪華さにも驚いた。いや正確には、豪華であったのは部屋の造りで、装飾などはほとんどされておらず、いたって機能的な部屋であり、おそらく持ち主の性格を表しているのだろう。
 後ろから入ってくるロイエンタールの服装を思い出し、思わず聞いた。
「…出かけるところじゃなかったのか?」
 黙ったまま、上着を脱いでいたロイエンタールは、表情だけ ”なぜ?” という顔でいた。
「あ、いやその服…」
「…ミッターマイヤー。これは夜に着るものだ」
”だから脱ぐのか…? 今は朝であって…? 朝帰り?”
「そんなことより、そこに座れ」
 ソファの中でも一番大きなソファに座らされ、肩を押されて寝かされた。寝かされるわけが分からず起きあがろうとすると、止められた。
「?……なんで? 俺、眠くないけど?」
 そんなときまで黙ったまま、どこかへ行った。あっという間に戻ってきたロイエンタールに、口の中に体温計をくわえさせられ、身体にはブランケットが賭けられた。額に触れたロイエンタールの大きな手は冷たくて気持ちよく、思わず目を閉じた。
「…俺…、ひょっとして熱があるのか?」
「…自覚がないから、散歩なんてしてたんだろう。言っておくがとんでもない顔色だ」
 それだけ言って、またどこかへ行った。

”風邪とかって、あんまり引いたことなかったからなぁ…” 
 今の自分の状況を合わせて考え、笑ってしまった。

 体温計を引き抜いたロイエンタールは、100.4度、とため息をつきながら言った。
 そんなにあったのか、体温を聞くと、突然病人のようになってしまった。
「朝食は?」
「食べてないけど…なんで?」
「解熱剤を服むのに、空腹では良くないと思わないか? 幸い俺もまだだ。ちょっと待っていろ」
”意外と親切な奴なのかもしれない”
 素直にそう思った。どうも友人達の言っていたロイエンタールと、今キッチンでおさんどんしているロイエンタールとは一致しなかった。
”そもそも親切でなかったら、部屋まで連れてこないだろう。それにしてもなんで俺の名前知ってるんだろう…?”

 病人気分になってしまったミッターマイヤーは、突然心細くなった。
「ロイエンタール…喉が乾いた…」
 ほとんど涙声と言ってもいいくらい、自分でも情けない声だったが、熱を出したことなどなかったし、自分の家でもないし、帰省できないのではないか、などと不安が押し寄せてきたのである。

”あの時ほとんど話したこともないロイエンタールに、随分甘えたよなぁ。熱のせいかな。…でも初対面と言っても良かったくらいなのに…。ロイエンタールは親切だった”

 あの時、「ポカリの方がいいんだが、これでも飲んでいろ」、と言って差し出されたのが絞りたてのオレンジジュースだったのである。
 それだけのことだったのだが、ソファから見上げたロイエンタールのおさんどん姿、差し出されたオレンジジュースのおかげでここまで細かく思い出すことが出来た。ほとんど忘れていたのである。

”あいつ…、オレンジが好きなのかなぁ…” 
 そう思うと笑いがこみ上げてきた。

”ロイエンタールは一見冷たく見えるかもしれない。割と無表情だし、…俺はそうは思わないけど…。
 そうだ。他人の面倒を見ることができないなら、医者などやっていられないはずだし…”

 あの後、帰省を延期しなければならず、その手配や看病(しかも泊めてもらっていた)など、すべてロイエンタールが行ってくれた。そういうところを見たから、というわけではないのだが、信頼できる、と、ほとんど感覚的に感じていた。理屈ではなかったのである。お互いについて良く知る前から、フィーリングが合うことが二人ともわかっていた、とミッターマイヤーは思う。

”あの時の姿には、優しさとかいたわりを感じた”
 それは医者になった今でも変わらない。そのおさんどん姿もオレンジジュースも。そしてミッターマイヤーのそばにいるということも。
”他人に優しくする、ということを知っている男だ” 
 ほとんどミッターマイヤーに限られているかもしれないが…。

 女性は家に入れないと言っていたが、ミッターマイヤーの知るかぎり、男性も訪ねてきていた雰囲気はなかった。友人となってからミッターマイヤーは、よく飲みに行ったり泊まりに行ったりし、一晩中語り合う日もあれば、ほとんど会話もせずに黙って飲んでいたこともあった。ミッターマイヤーには大勢友人がいたが、そういう友人はミッターマイヤーにとってもロイエンタールが初めてであった。
 しかし、具体的には合わないところもたくさんあり、それからもいろいろ意見や考え方の違いを正直に言い合うことでここまで来た。
 最初に言い争ったテーマは『口紅とゴム』である。

 

 今度はその口論のことに思考をトリップさせ、一人で記憶の旅に出ていた。
 楽しくもあり、イライラすることもあったが、思い出すのはおもしろかった。
 ミッターマイヤーは、あまりにも熱中しすぎて、ロイエンタールが帰ってきたことにも気がつかなかった。

 ロイエンタールからすれば、さっきから目をつぶったまま、一人で突然笑いだしたり、口元がブツブツ何か言いながら動いている様子は、多少不気味でもあったが、見ていて飽きなかった。


 オスカー・フォン・ロイエンタールはミッターマイヤーよりも一歳年上であるが、大学やメディカルスクールでは同級であった。彼は留学前から医学を志していたわけではなかった。ただドイツの家族の元から離れたくて猛勉強の末、留学してきてたのであった。同じく16歳のときであった。ある事情で1年休学し、ミッターマイヤーと同級になったのである。
 アメリカに来てからの女性遍歴だけでも大変なもので、付き合いが長続きした例しはなかった。泣き寝入りする女性、訴えようとする女性、笑って去っていく女性、様々であるが、変わっていたケースは、ロイエンタールの誕生日に、「これからも気を付けて」 とゴムを送ってきた女性であろう。口紅もロイエンタールへのプレゼントであった。理由は未だに謎であるが。

 初めてミッターマイヤーとまともに会話した、というよりは熱が下がったとたんに突っかかってきた話の内容がこの変わったプレゼントのことだった、とロイエンタールは記憶している。

 ロイエンタールにとってミッターマイヤーは始めから珍しい存在であった。これまでの人生で、初対面でまっすぐに自分の瞳を見つめてくる人はいなかった。共通していたのは、驚き、そしてさりげなく、あるいはあからさまに視線をそらす、ということだった。ロイエンタールはそれが当たり前のことだと思っていたし、気にしても瞳の色が変わるわけではないと考えていた。
 ところが、このウォルフガング・ミッターマイヤーだけは、驚いてはいたが、決して目を逸らさなかった。これにはロイエンタールの方が驚いていたのである。
 これ以上はないというくらい見開いたグレーの瞳は澄んでいた。自分の2色の瞳とは違う、そう憧れ羨ましく思い、それから目で彼を探すようになった。いつの間にやら後ろ姿でも見つけることができるようになっていたのである。

”俺はそれまで人と深く関わることを避けていた。だが…”
 ロイエンタールは、まだ一人で笑ったりしている愛しい存在を見つめながら考えていた。

 いつの頃からか、ロイエンタールはウォルフガング・ミッターマイヤーという存在が、珍しい存在から大切な友人、特別な友人、そして愛しい存在へと気持ちが変わっていった。そのスイッチがどこにあったのかははっきりとは記憶していないが、どちらにしてもいろんな意味で『一目惚れ』であった。

”愛している…” 
 この気持ちを言葉で表すと、これが一番近いように思われたが、それだけでは足りないような気もしていた。


 ロイエンタールはそばに寄ろうと立ち上がった。その音でようやくミッターマイヤーもその存在に気が付いた。
「あれ? おかえり、ロ、オスカー。」
 そういって楽しそうに笑ったままミッターマイヤーはロイエンタールの腕を引っ張った。
 ソファに腰掛け、ロイエンタールは優しく触れるだけのキスをし、「ただいま」と小さく言った。
「何を一人で笑ってたんだ?」
「…えっ、俺、笑ってた?」
「目をつぶったまま笑ったりブツブツ独り言を言っていた。起きていたんだろう?」
「うん。…いろいろ思い出してたんだ。いろいろ…」
 そういってそのグレーの瞳は天井を、というよりはどこか見えない遠くを見ていた。
「口紅は何だったんだろう? お前に付けろってことではないだろうし…とかさ。
 相変わらず天上を見たままミッターマイヤーは笑った。ロイエンタールも、恋人が同じことを思い出していたことに驚いた。
「ゴムはそれなりに使えたがな」
 ロイエンタールがそう言った途端、ミッターマイヤーの顔から笑顔が消えた。
 グレーの瞳は怒りとも悲しみともつかない色をともしてロイエンタールの金銀妖瞳を見つめてきた。

 ミッターマイヤーと暮らし始めから、ロイエンタールはミッターマイヤー一筋であった。ミッターマイヤーは恋人の自分への一途さを疑いはしなかったが、過去の女性遍歴が気にならないといえば嘘になった。しかし責めることは出来なかった。自分にもエヴァンゼリンがいるからである。
”友人でいたときの方が、ロイエンタールの漁色家ぶりを非難することができた。今は…。
 非難ではなく、どう考えても、俺は妬いている……”

 そう考えるとカッと顔が熱くなった。
 ロイエンタールはミッターマイヤーが何を考えているのか口に出さなくてもわかった。そして自分の心ない一言を少し反省した。しかし、はっきりと言葉で言わなくても ”妬いている” と表情に出すようになったミッターマイヤーが愛しくて楽しくてしかたなかった。そしてその愛しい身体を優しく強く抱きしめた。

「…風邪は治ったか? Dr.ミッターマイヤー」
「…熱が上がったかも…」
 少しいじけたようなことを言いながら追い被さる背中に腕を回した。
「俺が治してやる」
 キスの嵐を顔中に振りまきながら、ロイエンタールは言った。
「バカ野郎…。そんなことしたら熱が本当に上がるじゃないか!」
 抵抗しようと、ロイエンタールの身体を少し押しのけようとした。
「明日は、Dr.ミッターマイヤーは熱がまだ下がらず、同居人Dr.ロイエンタールは看病の末、風邪を移される予定なんだ。だから、熱を出してもいい」
 あまりの言葉にグレーの瞳を見開き、絶句してしまったが、ロイエンタールの優しい金銀妖瞳に笑ってしまった。
「…悪いドクターだ。Dr.ロイエンタール」
 ミッターマイヤーはため息をつきながら、両手を首の後ろに回した。了解のお言葉をもらった.ロイエンタールは、しばらくぶりの恋人の身体を気遣いながら、優しい時を過ごした。

 

 次の朝、Dr.ロイエンタールとDr.ミッターマイヤーの欠勤届が出されたかどうかは、冬の空とERスタッフが知っている。

 


華氏 100.4℃って、38.0度くらいです〜(*^^*) 朝からこんなに熱があったら大変ですね〜!


1999.7.4
2000.9.15改稿アップ
キリコ

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