ドクター

 新しい年


 時は大晦日、あと数分で新しい年に変わろうという時間帯であった。

”チャンスは一回だけ。これをのがしたら、次のチャンスは一年後…ひょっとしたらもうないかもしれない! 迷っている暇はないわ! 決心するのよ、クリス・ホワイト!!!”

 カウントダウンまであと5分。仕事をしながら、ロビーに集まる同僚たち。勤務中でもみなで祝える人だけで祝うのだ。 ロイエンタールは術衣のまま来ていたが、ミッターマイヤーはまだ来ていなかった。

 新年まであと1分というとき、ミッターマイヤーはロビーに姿を現した。
”さりげなくそばに行くのよ。そう、さりげなく…”
 そして、人混みをかき分けやっとミッターマイヤーのそばまで来ました、という感じの、あまりさりげないとは言い難い行動だったが、ミッターマイヤーはそんなことは気にしていなかった。
「もうすぐですわね。Dr. ミッターマイヤー」
 少々息をきらしたような声でクリスはミッターマイヤーに話しかけた。
「そうだね」
 と、クリスの方を向いて笑う顔は、まさクリスが一撃でノックアウトされた笑顔であった。
”あ〜、まじかで笑顔みちゃったわ! 日記に書かなくっちゃ!!!”
 10秒前になり、大声でカウントダウンし始め、クリスのグリーンの瞳は、ミッターマイヤーの男性にしては甘い色をした唇しか見ていなかった。
”あの唇を…今年こそ私がいただくわ!!!”
 狙いはよかった。場所もばっちり。今年こそ…と思っていた。
 カウントダウンが終わると同時に、大きな歓声が起こり、あちこちでお祝いのキスが巻き起こった。
「Happy new year ! ドクター!」
 そう言いながら、クリスは目を閉じて顔を近づけた。
 そばにいるものにキスを送るこの習慣に、クリスは絶大な感謝の気持ちと期待を寄せていた。

 キスは、いつまで経っても降りてこなかった。
”確かに目の前でお祝いの言葉を述べてくれたのに…?”
 おかしいと思い、目を開けると、目の前には信じられない光景が広がっていた。
 Dr. ロイエンタールとDr. ミッターマイヤーがキスしているのをそれこそ目の前で見たのは、クリスがおそらく最初であろう。そういう意味では、貴重な体験だったかもしれなかった。
”Dr. ロイエンタール…なんてことを…。わ、私の一年がかりの計画を…。しかも、Dr. ミッターマイヤー…なぜ目を閉じてらっしゃるんですか…あああ…”
 泣き崩れなかった自分を誉めた。あの噂は本当だったのか、と、クリスはいやというほどわかってしまった。どう見ても、ミッターマイヤーはうっとりしている。体勢的には、二人とも身体をこちらに向けて、ミッターマイヤーは首だけ後ろを向かされてつらそうなのに…表情はウットリしているようにしか見えなかったのである。
 たとえミッターマイヤーに妻がいても、同僚として憧れ、年に一度のキスのチャンスをもらったっていいじゃない、と思っていた自分が甘かったことを悟った。
”Dr. ミッターマイヤーは奥様のものではなくって、Dr. ロイエンタールのものだったのね…”
 いつまでも離れない二人から、クリスもいつまでも目を離せずにいた。
 ようやく唇が離れたかと思うと、ミッターマイヤーはいきなり怒鳴りだした。
「な、何をするんだ! オ、ロイエンタール!!!」
 キスのおかげで、ちょっと家モードに入ったミッターマイヤーはあやうく名前を呼び間違えるところであった。そんな怒鳴り声など全く意に介す様子もないロイエンタールは、去り際にクリスの額にチュッと音を立てた軽いキスを送り、「Happy new year ! クリス」と言って去っていった。ミッターマイヤーはまだブツブツ言っている。
”Dr. ミッターマイヤー、そんなに顔を赤くして怒鳴られても…先ほどの表情を見れば、本気で怒ってないことぐらい…、私でもわかりますわ…”
 泣きそうな自分を精一杯励まし、踵をかえして、仕事に戻った。心の中で 「さようなら」 と言いながら。
ロイエンタールに、たとえ額でもキスを受けたのは、かなり珍しい体験で貴重なものなのかもしれなかったが、クリスには感動も感謝の気持ちもなかった。かといって、なぜか恨めない存在であった。
 ロイエンタールは、というと、同僚たちの前でサービスするつもりはなかった。新年の瞬間、ミッターマイヤーはクリスにキスをしそうだったを見たのである。
”アメリカには何て習慣があるんだ!”
 たとえ挨拶のキスでも、ミッターマイヤーが目の前で他の人にキスするのを見たくなかったのであった。クリスの方に向いていたミッターマイヤーの首だけを左手でグィッとこちらに向けて、熱烈なキスを送った。自分でも挨拶のキスではないな、とわかってはいたが、ミッターマイヤーファンが一人でも減ると、安心なロイエンタールなのであった。そのためならバレてもかまわなかった、というより、ロイエンタールは同僚たちにバレていることを知っていた。


 同じ頃、ナースに新年のキスを受けていたドクターがいた。こちらは邪魔する人はいなかったようである。
「Happy new year ! Dr. ヤン!」
 ジュディの優しく軽いキスを受け、ヤンは固まっていた。
「…なぜ、私に…?」
 ジュディは逆に困ってしまった。新年の挨拶のキスに、「なぜ?」と問われても…。ヤンとてアメリカ育ちのはずで、そんな習慣には慣れていたはずだった。
「あの…おイヤだったんですか?」
 イヤでも断れないのが、新年のキスである。
「あっ、いや、そういう意味ではなくって…。」
 まだ何か話そうとしているヤンの次の言葉を待ちながら、ジュディは一つ驚いたことがあった。
 さっきからER自体は落ち着いている。そんなときはヤンは寝ているはずなのであった。

 ヤンというドクターは、医者として優秀であると思われるが、ジュディの目から見て、ER向きとは思えなかった。彼は内科医で、緊急性が求められるERよりも、外来や一般病棟、それも急病変の少ないようなところで、じっくり患者と話をするのが向いていると誰もが思っていた。実際にその通りのことを、この忙しいERで行っているからである。
 たとえば、軽症の患者が「お腹が痛い」と訴え、「検査はイヤだ」というと、他のスタッフなら「検査しないならお帰り下さい」で帰すか、強行軍か、説得するか、するだろう。こんなとき、ヤンというドクターは、「なぜイヤなんですか?」から始まり、ついには「飼っている犬」のことや「腐れ上司」の話にまで延々続くのであった。ヤンは適度な相づちをうち、穏やかに急がせず、患者の話を聞くドクターとして有名だった。患者にはこんなドクターは珍しくもあり、とても嬉しいものなのだ。
 しかし、当然進まない診療というものは、補佐しなければならないナースにとって、かなりツライものがあった。待合室のきりのない患者を見ると、流れ作業になりがちであるが、とにかく時間内に少しでも多く、きっちり仕事をしたいのである。ヤンにつくと、それが出来ないので、少々いやがられているかもしれなかった。ヤンの行う診療が正しいと頭でわかっていてもであった。
 また、ヤンはロイエンタールと同い年であるが、彼がスキップしているため後輩にあたる。レジデンスとして、超ハード勤務の合間に、ヤンは器用に眠る人なのだ。椅子に座っているのかと思ったら寝ている、ということもしばしばであった。これは休養という点では、大事なことであったが、神経を張りつめるような職場ではなかなか出来ないことであった。ミッターマイヤーやロイエンタールはどちらかというと貫徹したりするタイプのドクターであった。
 そんなヤンが、比較的落ち着いているこの時間に起きていることに、ジュディは驚いたのである。

「今日は…お休みにならないんですね」
 出来るだけ嫌味がないような口調でいった。嫌味ではなく、ただ驚いたのでそう口にしたのだ。
「一応…新年だしね…」
 先ほどの会話も終わりだったのか、と判断したジュディはその場を去ろうとした。
 その時、ヤンが質問し始めた。
「君は…ロイエンタールのことが好きなんじゃないの?」
 どこからそんな情報(?)を得たのか知らないが、ヤンはそう思っているようだった。そんな質問に対し、新年の挨拶とロイエンタールとどこから結びつくのかわからないまま、とりあえずジュディはヤンを真正面から見返した。ヤンの黒目がちな瞳は真剣であり、ちゃかして尋ねたわけではないとわかった。
「…ええ。でも昔のことですわ」
 ジュディはにっこり微笑みながら、そうきっぱり言った。
「子どもが出来て…ショックだったかぃ?」
 その質問には、とりあえず微笑んで黙っていた。
「ミッターマイヤーのことは…、やっぱりショック?」
 なぜ質問攻めに合わなければならないのか、ジュディにはわからなかったが、なぜかこのヤンの口調には怒ることが出来ず、それよりも自分について考えてしまうから不思議だった。
「ショック…というよりは、驚いているだけ…だと思います。フェリックス坊やのことも、Dr. ミッターマイヤーのことも…。でも…私、みんな好きですわ…」
 ヤンは目を逸らしながら、考えていた。
「そう…」
 それだけ言って、ヤンは去っていった。これにはジュディの方が驚いた。質問の意味も、なぜロイエンタールのことを知っていたのか、ということも、わからないまま、また不躾な質問だ、と怒る暇もないまま、一人で何かを納得して行ってしまった。
”やっぱり…つかめきれない人よね…。でもなぜか怒る気になれない人だわ…”
 ため息をつきながら、ヤンが患者に人気があるのがわかった気がしたジュディだった。

 ジュディは受付でスタッフと談笑しているミッターマイヤーを見つめた。
 ミッターマイヤーの柔らかい印象や雰囲気は、子どもの緊張をほぐすだけでなく、大人から見てもホッとするような、そんな存在である、とジュディは思う。
 ミッターマイヤー夫妻が会うのは、年に1,2回くらいだと聞いていたが、愛妻家という噂だった。
”愛妻家がゲイ…よくあることよね”
 しかし、根っからのゲイではないだろうと、多くのゲイを見てきたジュディには思えた。
”Dr. ロイエンタールだけ…。そしてDr. ロイエンタールはDr. ミッターマイヤーだけ…”
 二人が深い仲である、と約半数のERスタッフは知っていた。ただでさえ人気の高い、目立つドクター2人である。はっきり内情を知らなくても、同居という事実から噂にならないはずはなかった。
”フェリックスのことで、Dr. ミッターマイヤーは、いろいろあったみたいだけど…。気持ちも複雑よねぇ。なぜ育てているのかしら…? なさぬ仲の子どもだと思うのに…”
 今のジュディの大きな疑問の一つであった。 


 その日はロイエンタールの方が先に帰宅していた。フェリックスを連れて帰ったのもロイエンタールである。年末、二人とも忙しく働いており、家で会話できるのは久々であった。
 ミッターマイヤーが帰ったとき、ロイエンタールはソファで寝ていた。その胸の上にはフェリックスがうつ伏せて乗っていた。日頃、ベッドから落ちることにやたらと気を使うロイエンタールが、ベッドより狭い自分の胸の上に寝せるとは…、と少々あきれながらも、その父子の風景にしばし見入っていた。ロイエンタールの左手は、眠りながらもフェリックスを支えている。
”父親らしいよなぁ…”
 どちらの姿にも惚れ惚れとする気持ちがあったが、胸の奥の方で何か別の感情があることにも気がついた。
 『父親』
 自分に子どもがいないことから、ロイエンタールをうらやんでいるのか。
 ロイエンタールがフェリックスを抱いている、そのそばに、エルフリーデの陰を見てしまうからなのか。
 今、フェリックスはエルフリーデの子どもである。しかしなろうと思えばロイエンタールはいつでもフェリックスの父親になれるだろう。自分はかわいがっていても、ひょっとして養子にして法律上親になったとしても、『父親』になれるだろうか…。

 ミッターマイヤーは眠っている父子の顔を見比べていた。
 赤ん坊の顔というものは、毎日違って見えるものである。今日は母親似だな、と思ったら、次の日は父親の面影が強く出ていることもある。今日のフェリックスは、ミッターマイヤーにはエルフリーデと重なって見えた。まるでロイエンタールがエルフリーデに腕枕していると錯覚してしまうほど、今日はフェりックスが母親似に見えてしまった。
”髪の色も大きさも全然違うのに…、どうかしている…”
 頭を強く振りながら、そんな自分の考えを振り払おうとした。ぐっすり眠っているフェリックスは、ミッターマイヤーが抱き上げてベビーベッドへ寝かせても、一瞬起きたものの、また深い眠りに誘われたようだった。
 一方、胸の上から重たい赤ん坊をおろされたロイエンタールも目覚めなかった。やはりかなり疲れているのだろう。ミッターマイヤーは毛布をかけて、自身も寝る準備を始めた。
 
 熱くきつめのシャワーを頭からしばらくかぶっていた。身体の汚れとともに、自分の中にあるドロドロの感情を洗い流せたら、と思いながら、バスタブの底へ流れていくお湯を見つめていた。
 突然バンッ勢い良くバスルームの扉が開き、ミッターマイヤーはかなりビクッとし、驚いた。もちろん同居人のロイエンタールである。
「な、なんだよ! いきなり。びっくりするじゃないか!」
 慌てて自分の身体を少しでも隠そうと壁に向け、首だけ後ろを振り返った。ロイエンタールは怒鳴り声などまったく意に介さず、バスタブまで近づいてきた。無言・無表情なままで近づいて来られると、何だかこわく感じ、次々と思いつく罵声をあびせたが、自分に逃げ場などなく、右手をグイッと取られた。
「…ウォルフ。聞いてくれ」
 なにやらシリアスな雰囲気を漂わせた恋人に、ミッターマイヤーは聞こえにくいのでシャワーを止めようとしたが、その左手も取られて止められた。
「…オスカー、お前濡れる、ってもうビショビショじゃないか…」
 部屋着を着たままシバスタブの中へ入ってきて、二人でシャワーの下に立っているのである。濡れて当然であった。
 ロイエンタールは自分の胸の前にミッターマイヤーの両手を抱き、真っ正面から見つめてきた。二人とも上から来る水のおかげで、まともに目を開けてられなかったが…。
「今日から…新年だな」
「…うん」
「去年も仕事だったな」
「うん」
「今年も…仕事しながら新年を迎えたな」
 そのセリフにミッターマイヤーはER内での大胆な行動を思い出し、また怒鳴り始めようとした。しかし言葉はすべて、ロイエンタールの口の中に直接吸い取られていった。ミッターマイヤーはモゴモゴ言いながら、「キスなんかで騙されないぞ!」と言っているようだった。
 言葉だけでなく、唇から舌から吸い上げていくと、モゴモゴも止まり、かわりに鼻から抜けるような声が聞こえてきた。
 ついっと唇が外された瞬間、「あっ…」という声が残った。
 結局キスでごまかされたことになったようだった。
 ミッターマイヤーは真っ赤になりながら、
「こんなとこまでそんな話に来たのか? お前は〜!」
「ウォルフ!」
 今までより大きな声で呼ばれて、ミッターマイヤーはびっくりした。
「今年も…今年もよろしく頼む…。今年も、そばに…いてくれ」
 語尾のあたりはさきほどとは逆のルートで口の中へ直接伝えられた。
 二人にとって、恋人として迎える新年はこれが初めてであった。今後のことはわからないし、今は二人っきりではなくフェリックスもいる。まだまだ平和とは思えない環境であったが、二人で一緒に新年を迎えることが出来、二人はその時を大切にした。
「キスなんかでごまかされないって言っただろう…?」
 優しいキスにほとんど酔いながら、ミッターマイヤーは無駄な抵抗をしていた。そのグレーの瞳はすでに薄くブルーに色付き、半分閉じられた濃い蜂蜜色の睫毛に水滴が乗り、ロイエンタールはこんなに色っぽいミッターマイヤーの顔を初めて見た気がしていた。
 何度も「ウォルフ」と呼びながら行為を進めていこうとするロイエンタールに、ミッターマイヤーは場所に関する文句を投げかけた。それに対し、ロイエンタールは小さく鼻で笑っただけで、続行していった。

”ここならフェリックスの声も、ウォルフには届くまい…”



1999.8.4 キリコ
2001.2.6改稿アップ

 

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