unser Sohn オスカーパパ編
俺はずっと一人だった。
一人で生きてきた、というと大げさで、やはり親の力、それが例え金だけであっても世話なしでは生まれても生きても来られなかっただろう。だが、俺はずっと一人だった。
気が付いたときには、周囲に俺を「オスカー」と呼ぶ者もおらず、かしずかれ、対等な存在はいなかった。
十六歳になるほんの少し前、俺は単身アメリカに渡ってきた。その時は自活するつもりだった。しかし、ある時親父と言い争いになった。すでに身長も体格も追い越していた俺が、その親父に突き飛ばされたのは、油断ではなく驚きからだったろう。そして頭を打った俺は一週間意識不明だった。たいした怪我ではなかったが、運悪く大学の試験期間中だった。意識を取り戻した時、俺の留年は決定していた。
そのことを俺は別に気にしなかったが、突然俺を怒った父親に、俺は不思議な感覚を持った。無関心だと思っていたのに、いきなり怒られた。怒鳴られた。それが生まれて初めてのことで、これまでの三十年の人生の中でそれが最後だった。
気にした父親からは、引っ越す度に部屋を与えられた。
ただそれだけだ。謝るどころか会いにも来ないが、俺の環境変わるたびに贅沢な家を与える。それだけだ。
そういう心遣いは嬉しくなかったが、やはり広く自由な空間は俺を安心させた。結局は貧乏が性に合わないのだろうか。
ウォルフはきっと不思議に思っているだろうが、わざわざ尋ねては来ない。なぜ貧乏な学生やレジデンスの身でこのようなアパートメントに住んでいるのか、俺は特に話そうとはしなかった。
それでいい、と思っている。
ベットの中で俺の後頭部に手を差し入れたウォルフが、何針も縫われた傷に気が付いた。眉を寄せてはいたが、聞いて来なかった。俺も話すつもりはない。
俺たちはそれでいい、と俺は思っている。
大切にしなければならないのは、過去ではなく、二人で、そしてフェリックスとで作る三人の未来なのだから。
ダブルベットでも狭いと思っている俺とウォルフの二人だけの空間。
それは俺がようやく手に入れた安眠の場所だった。
眠りの浅い俺は、人と眠ることが苦手だった。女とベッドを共にすることはあっても、朝まで眠ることはなかった。
ウォルフだけがいてくれれば、俺はいい。
お互い忙しい身であり、すれ違いも多いが、部屋の中やベットにウォルフの匂いや温もりを感じるだけで、俺は安心して待っていられる。まるであいつの前では俺は子どものようだ。
ずっと迷子だった俺が、ようやく見つけた帰ることが出来る家。
手に入れた、という言い方もおかしいが、心から叫べる『家族』。
もう、手放せない。
今日、その愛しい恋人は三十歳の誕生日を迎えた。
だが夜勤であり、今ベッドの上には俺一人だ。
日付が変わるまで、本を読みながら、時々駆け回るあいつの仕事ぶりを思い出し、心の中だけでおめでとうを言い続けた。
恋人の分も、と二人分の祝いのビールを、シャンパンは二人のときに開けることに決めたからだが、枕元に置きながら、俺は一人の時間を楽しんでいた。
二人でいる楽しさを知っているから、一人も楽しめるのだ、と俺はウォルフと暮らし始めて気が付いた。
やがて日付が変わり、眠気が少しずつ訪れた頃、ライトを消そうと手を伸ばしたそのとき、寝室のドアがノックされた。
フェリックスしかいない。
いったいどういう教育を受けたのか、やけにこういうところは丁寧で、夜の大人の時間を邪魔してはいけないことを知っているようだ。
ちなみに、俺はそんなことは教えてはいない。
「フェリックスか?」
キーッとかすかなドアの音に、小さな影が現れた。
この家に来て半年ほどになるが、来た頃のような夜泣きもほとんどなく、託児所でも元気にやっているらしい。
そんなフェリックスがこんな夜半に起きているのは珍しいことだ。
「オスカァ…」
滅多に甘えた声を出さないフェリックスだったが、半分寝ぼけながら、しかし涙を浮かべた大きな瞳に、俺はなんとなく事情を察した。
「おいで」
俺のこんな声音を聞いたことがあるのは、この世の中ではウォルフとフェリックスくらいだろう。自分でも信じられないような声や、または表情をしていることがある。
フェリックスが来てから、俺の表情筋は多忙なのだ。
フェリックスはぺたぺたと足音をさせながらベッドに近づき、いきなり飛び込んできた。俺の腕の中にすっぽり入り込み、鼻をぐずつかせ始めた。
その前髪をゆっくりとかき上げ、背中を撫でさすると、しばらくヒックヒックと言っていた小さな温かい存在が、ゆっくりと落ち着いていくのをはっきりと感じた。
「どうした? 怖い夢でも見たのか?」
「…うん…」
そう言って首にしがみついてくるその様子が、今の俺には堪らなかった。守るべき存在、守りたいと強く思う存在、自分がこんなにも父親になれるとは思ってもいなかった。
フェリックスが自分の子だから可愛いというだけでなく、俺は病棟で診ている赤ん坊たちも可愛いと思える自分が決して嫌いではなかった。
こんな感情を持てるようになれたのは、ウォルフガング・ミッターマイヤーとこのフェリックスのおかげだろう。フェリックスが存在していることを言えばエルフリーデの功も捨てがたい。あいつが可愛がっていたのも今ならよくわかる。治療のために手放すのがどれほど辛かったか、ということも今の俺たちならよくわかる。
もう、二度と、手放せない。
「オスカー、ビール飲んでたの?」
さっき泣いたカラスがなんとやら、というのだろうか。
腕の中から出てきた顔には、涙の跡は見られたが、その表情は穏やかであった。
「ベッドでジュース飲んじゃダメってウォルフが言ってたよ?」
先ほどまですがりついていたくせに、もう俺を監視するように、まるで小姑と化したフェリックスに、俺は皮膚の下だけで笑った。
「ジュースとビールは違うからな。俺は大人だからいいんだ」
フェリックスは俺のこんな屁理屈に眉を寄せた。
「…そうなの? ビールならいいの? 俺もビール飲んだら大人?」
子どもの思考というのはおもしろく、どの神経がどう繋がって伝達したらそういう話になるのか、とにかく不思議な考え方をすることがある。
それだけ常識に捕らわれず、自由な発想が出来、大人は羨ましく思ったりするのだろう。
ビールを飲んだから大人、というわけではなかったが、俺はフェリックスに初挑戦させてみた。
「飲んでみるか?」
俺の一言に、突然大きな瞳がますます大きくなり、目が輝くといった感じで喜んだのがわかった。
だいぶ長い間放置されていた温いビールであり、多少キも抜けているだろうし、まぁ少しくらい。子どもってのは父親の真似をしたいものさ。
「ゆっくり。少しだけだぞ?」
そう言って缶ビールを支え、フェリックスの口元に運んだ。
フェリックスは両手でビールを持ち、両目を寄せた。
一口、ゴクリという音が聞こえた拍子に、フェリックスの表情が大きく変わった。顔中のつくりをすべて中心に持って来たようなその顔に、俺は吹き出した。
「ウェ〜〜 何これ…」
「それが大人の味だ。フェリックス」
俺は珍しく声を出して笑っていた。
悪いことを教える父親かもしれないが、息子に新しいことを教えられる自分が楽しくて仕方なかった。
その後、俺が何気なく言った「そのうち慣れる」という言葉に、フェリックスはウォルフの留守には俺にねだるようになった。
これを大人になる練習と思っているらしい…
子どもの思考は単純すぎて、怖いこともあるということを俺は身をもって知った。
後日、夜勤ではなかったウォルフが帰宅して、キッチンで晩酌し合う俺たちに雷を落とすのはまた別の話…