GENE
何度も通ううちに、ミッターマイヤーは『ゼー・アドラー』の客層の不思議さに気が付いた。それは、スタッフやロイエンタールからすれば、ものすごく鈍感としか思えないくらい、わかりやいものだった。
「この店って…男の客が多いよな」
定位置に座ったミッターマイヤーは、薄暗い店内を見回した。そして、すでに隣が定位置と言わんばかりに常に同じ席に座るロイエンタールは、俯いて小さく笑った。
「俺はこの街のことはよく知らないけれど、お店が分かれてる(男女用に)ってわけでもないよな?」
いくら離れているといっても、ミュンヘンもハイデルベルクも同じ国だ。ミッターマイヤーの質問からわかることは、夜の街に出たことがない、ということだった。
初めから、その気がないことがわかり、ずっと気を遣っていたバーテンダーが、説明しようとした。けれど、すぐにロイエンタールが取って代わった。
「ドクター・ミッターマイヤー…」
「ミッターマイヤー、お前はあまりこの世界を知らないのだな」
二人に話しかけられて、ミッターマイヤーは視線を戻した。
「世界? この界隈のことか?」
ロイエンタールとバーテンダーはお互いに顔を見合わせた。
本当なら、偶然迷い込むような店ではないのである。けれど、明るい昼間の雰囲気をまとったまま流れ着いたミッターマイヤーに、ロイエンタールはまず目を惹かれたのだ。
「ま…知らなくていいこともあるか」
「…そうですね」
「……何のことだ、ロイエンタール?」
男の客しか来ない店、女性に見える店員や客も違った性を生きているだけ、そしてそこで働いているスタッフすべての本当の仕事まで、ミッターマイヤーが知るのはもう少し後のことだった。
「つまらないだろ? 大きな装置があるわけでもないし」
「いや…こんな感じなのだな」
見学者のカードをぶら下げた、名前しか知らない友人の背中を、ミッターマイヤーはじっと見つめた。こんな風に太陽の下で会うのは初めてだったのだ。
待ち合わせ場所に現れたロイエンタールは、いつものダークな雰囲気ではなく、ごくシンプルな年相応のスタイルだった。その姿を見て、ミッターマイヤーは初めて彼について年齢すら知らない自分に驚いた。
「…結構仲良くなったのに…」
気が付けば、自分のこtばかり話していたではないか。
それでも、ロイエンタールの方から自分の研究所を見たいと申し出てきたことを考えると、自分に全く興味がないわけではないとわかる。
「ま、いいか」
そして、双眼をスカイブルーにして現れたロイエンタールに、何も聞けなくなってしまったのだ。
「ロイエンタール、こっちが俺のデスクなんだ…」
「……」
「…散らかってると正直に言ってもいいぞ。俺もそう思っているんだから」
「いや…研究者というのは、こんなものなのではないか?」
「……そうかな」
論文やらCDやら、実験器具まで持ち歩き、整理できない自分。そんな、一般家庭には縁のないデスクを見ても驚かない友人に、ミッターマイヤーは彼の片鱗を見ることになった。言葉の端々に、さり気なく彼の生活が見えたりする。尋ねにくいと思ってしまったことを、ミッターマイヤーはなかなか聞けないでいた。休憩室へ案内し、濃いコーヒーを座って飲んだ。
一口飲んで顔を上げたロイエンタールの様子に、アルコールしか飲まないのだろうかとミッターマイヤーは少し驚いた。まだ、彼のことはわからないことだらけだった。
「…もしかして、コーヒー苦手?」
「いや…ただ、飲んだことがない味だ」
「…はっ?」
確かに、安いインスタントだった。ミルもドリップも関係ない、お湯を入れるだけの。
この時代に、このシンプルな味を知らないとはどういうことなのだろうか。
「…もしかして…」
『貴族』なのだろうか。何世紀も前に消えたはずのその地位は、それでもしぶとくその名を残す。そして、収入にかかわらず、気位だけはかつての豪奢さを残していることも、ミッターマイヤーは知っていた。
「なんだ? ミッターマイヤー」
何でもない、と笑って、ミッターマイヤーは明るい日の光を映すスカイブルーの瞳を見つめた。夜の闇で見るよりも、明るい色に見える。どちらも綺麗だと思ったが、ミッターマイヤーはヘテロクロミアが好きだった。
「…この瞳のことが聞きたそうだな、ミッターマイヤー」
今日会ったときから、グレーの瞳から発せられる質問に、ロイエンタールはついに根負けした。口では遠慮しているらしい様子もわかり、ロイエンタールとしては友人の出方を待っていたのだ。
「我ながら、気の長い…」
「ロイエンタール?」
「ああ…この瞳、やはり目立ちすぎているのでな」
「……綺麗だからな」
そう相づちを打ったミッターマイヤーに、ロイエンタールは作り物でない笑顔を返した。
この時代、遺伝子を再び解明しようと躍起となっている真面目な研究者の裏で、暗躍するグループがいることを、ミッターマイヤーは知らなかった。
2002.11.22 キリコ