GENE
「実際、むなしく思うこともあるよ」
休日の、珍しく他にスタッフがいない研究室で、ミッターマイヤーは実験を始めた。その隣にはロイエンタールがいて、借りた白衣を纏っていた。それが彼には小さくて、友人が自分より小柄だったことを思い出した。座って語り合う間柄に、身長や家系などは関係なかったから。
他人に近づかないロイエンタールが、ここまで興味を惹き、そしてこうして外でも会うことになるとは、ロイエンタール自身、驚いている事実だった。
「…何に?」
慣れた手先を見ながら、ロイエンタールは問い返した。
その問いと同時に、隣の部屋のディープフリーザーに用ができたらしい。ロイエンタールの方を見ずに、ミッターマイヤーは歩き出した。友人が戻ってくるまで、ロイエンタールは動かずに椅子に座ったままでいた。
「…俺たちのしていることが」
右手に細胞の入ったバイアルを手に、いつもより投げ捨てるように呟いた。ミッターマイヤーのそんな顔を、ロイエンタールは初めて見た。
「どうして? 人の役に立つ仕事だろう? 俺と違って」
「…そんな言い方はよせ、ロイエンタール。仕事に貴賤はない」
自分に真正面から注意する人間は、初めてだった。ロイエンタールは驚いた。見慣れないスカイブルーの双眼を見開かれて、ミッターマイヤーは少し気まずくなった。
「すまない…まるで八つ当たりだ」
「いや…」
それ以外、ロイエンタールには何も言えなかった。
自分を取り戻したミッターマイヤーは、ロイエンタールを横目に実験を再開した。
「かつてわかっていたことを…誰かが辿った道のりを、俺たちは繰り返しているに過ぎない。新しく発見したつもりでも、それは本当は既知のことなんだ…」
「…あの戦争か」
「そう…あれがなければ、すべてのデータと研究者が失われる、というウソみたいな現実は、本当に夢だったのに…」
「戦争の後、しばらく平和な時代だったと聞くが?」
「…そうだな。もしかしたら、『遺伝子』なんか、知らない方がいいのかもしれないな…」
「ほう、ということは、お前は無職になってしまうのではないか?」
ミッターマイヤーは、もっともな意見に手を止めた。振り返ると自分をまっすぐ見つめる双眼がある。その顔は、茶化したりしていなかった。
「たとえ、わかっていたことのやり直しでも、それを続ける者がいるから助かる人もいるのだろう。今度こそ、悪用しないように人は努力している…らしいぞ、ミッターマイヤー」
「…ロイエンタール…」
「過去の輩は知らないが…今現在お前が発見したことは、お前の業績だ。昔のデータを盗用しているわけではないのだから」
自信に満ちた励ましに、ミッターマイヤーは正直泣きそうになった。
明るいけれど、どこか上滑りな研究者たち。それは、皆同じ思いだったから。
「そう…そう、かな…そうだよな、うん…」
表情に明るさが戻ってきた友人に、ロイエンタールは皮膚の下で温かい笑顔を浮かべた。
「ロイエンタール」
「…なんだ?」
「俺、今実験中じゃなかったら、お前に飛びついていたかもしれない」
ありがとう、という言葉だけでは足りないけれど、この興奮を伝えきることも出来ない。ミッターマイヤーは、自分のほしい言葉をしっかり告げてくれる存在に、心から感謝した。
「…実験は失敗してもやり直せるが、今の状況は再現不可能だぞ、ミッターマイヤー」
ロイエンタールがからかうように言うと、ミッターマイヤーは真面目に答えた。
「研究費が足りなくて、失敗したら困るんだぞ」
その言い方に、ロイエンタールは吹き出した。
「…ところでミッターマイヤー、お前は実験のたびにそうやって落ち込んでいたのか?」
「お、落ち込んでるわけじゃないぞ!」
珍しく明るい笑い声が、実験室にこだました。
2002.11.22 キリコ