オスカーとフェリックス
     =父の残像=

  

 

「ファーター?」
 俺の呼びかけに、ファーターはゆっくりと振り返った。ソファに座った後ろから話しかけたため、彼の手元は見えなかった。何を真剣に見つめていたのだろうか。
「……お仕事中でしたか?」
「いや」
 実際疲れた顔をしていたが、テーブルの上にはワイングラスがあった。仕事ではないとはすぐにわかったのだが、一応聞いてみただけだった。国務尚書としての仕事が忙しいのではない。けれど、彼はとても参っている。

 

 俺の実父であるオスカー・フォン・ロイエンタールは、俺が士官学校に入学したとき、退役した。伝え聞くヤン・ウェンリィと同じように、さっさと隠居生活に入ったのだ。穏やかな毎日を、たった一人でどのように過ごしていたのか、俺にはわからないが、時折の帰省を喜んでくれていた。そして卒業しようという今、時代は前皇帝から新皇帝、アレクサンデルの時代に変わったばかりであり、父が、たとえ実質的でなくても皇帝をお守りするつもりでいたことを、俺は知っている。
 しかし、数ヶ月前に崩御されれたラインハルト陛下の後を追うように、俺の父は静かに人生の幕を下ろしたのだ。

 オスカー&フェリックス

「ファーター? その写真を見ていらしたのですか」
 ソファの横に立ったまま、俺は手元をのぞき込むようにして言った。父が亡くなってから、何度か同じ行為を見ていた。父と俺の写真。ファーターが撮ってくれたものだ。
 俺が静かに横に座ると、ファーターは一度大きなため息をついた。ゆっくりと顔を上げ、俺の顔をまじまじと見つめてきた。





「やっぱり…よく似ているな」
 小さな声で主語も言わず、語りかけるというよりは、呟くように言った。
「…そうですか? いえそうですね。士官学校にいた教官、昔オスカーと共に闘った方々も、よく似ていると言ってました。成績に関しては、オスカーには及びませんでしたけど」
 そう言って舌を出した俺に、ファーターは肩だけで笑った。
 もう、写真や立体映像装置の中でしか会えない父、そう考えると寂しくないわけではない。実のところ、未だに信じられず、俺は悲しむことすら出来ないでいた。しかし、閉め切りとなった自分たちの家に入るのは勇気がいった。あの家の中には、父と自分だけの空間で、思い出や残像がありすぎるからだ。
 ファーターも俺も、しばらく黙ったまま、見るともなしに写真に目線を向けていた。

「ファーター。オスカーの家に、一緒に来てくれませんか?」
 ファーターは一瞬躊躇ったように見えたが、俯いたあと承知してくれた。もうすでに夜も更けていたが、月明かりを頼りに静かに家に向かう。昔から、何度も行き来した、慣れた道。自分が引き取られたときも、自分が遊びに行くときも、この道を通った。そう、俺が「帰る」家はここだ。ファーターとムッターもいる隣も俺の家でもあるが、父と俺の家はここだ。
 部屋の中は埃が積もっている以外、特に変わりなく、この家に住人がいないことをはっきりと示していた。階下から吹き抜けの天井を見上げ、この広い家の中、一人で寂しくなかっただろうか、と俺は後悔する。意外と寂しがりやな父、照れ屋な父、ファーターのように優しい言葉は少ないかもしれないけれど、愛情たっぷりに育ったのだ、と今ならわかる。
 半泣きになりながら2階へ上がると、父の部屋を入った。帝国軍の最高幹部にあった者の部屋とは思えない質素さに、それでも俺は懐かしさで一杯だ。この部屋で何度寝たかわからない。辛い、悲しい夢を見たら、父が連れてきてくれたこともあった。
 俺は涙を飛ばすつもりで首を振り、俺の部屋へ向かった。
 この部屋は、この家に来たときから与えられていた部屋で、小さな子どもには広すぎるだろうが、今は父のように簡素で質素で、もちろん子ども用のベッドもない。ベッドや机が変わっても、父がそばにいてくれたことは覚えており、残像として俺の瞼に浮かび上がってくる。少しだけ笑ったり、泣きやまない俺に困った顔をしたり、何も言わずに閉じこめてくれた温かい胸を思い出し、その腕が永遠に失われたことをようやく認識出来た。
 俺は、ベッドに突っ伏した。

 ずっと、俺の後ろについていてくれたらしいファーターは、俺の背をゆっくりと撫でさすってくれた。ファーターも泣きたいはずだ。俺よりも付き合いも長いのだ。親友同士なのだ。なのに、その腕は振るえずに、温かく俺を慰めてくれる。
「……ファーターも泣きたいでしょう? ごめんね、一人で泣いちゃって…」
 だいぶ大泣きしたあと、俺は一人で先に泣いたことを謝った。ファーターは、俺をベッドに腰掛けさせ、自身も隣に座って呟いた。
「ファーターだからな」
 照れたような笑顔を浮かべ、ファーターは俺の方を向いた。
 この言葉が、今の俺にはどれだけ救いだったか表現出来ない。俺には父が二人いたのだ。これほど有り難いことはないのではないだろうか、と俺は再び涙が零れはじめてしまった。
「うっ……」
 俺は、年甲斐もなく、ファーターの膝の上で泣き崩れてしまった。俺はファーターに甘えている。彼だって辛いだろうこの家に連れてきて、そして泣く機会を俺は与えなかったのだ。ファーターは泣くなとも言わず、黙って俺の背を撫で続けてくれた。

 深夜、俺は広いベッドの中で、ファーターに抱きしめられていた。泣きやんだものの、ヒックヒックという体を止めることが出来ず、まるで子どもに戻ったかのような錯覚を覚えた。ファーターと眠ったことは覚えていなかったが、その胸は、ファーターの背を追い抜いてしまった俺よりも大きく感じ、父の腕と同じく温かく感じた。
「……結局、あいつは俺達を置いていくんだな」
 頭の上に響くその声に、俺は父がノイエ・ラントのことを思い出しているのだと思った。詳しくは聞いていないが、父は一度はヴァルハラへ旅立ちかけたらしい。なぜ瀕死の父が戻ってきたのかまではわからないが、その時ファーターが一生懸命引き止めようとしていたことはムッターから聞いていた。
「…一度は戻って来てくれたのにね…」
 返事を求めたわけではなかっただろうファーターに、俺は俺なりに答えた。今回は、怪我ではなく病気だったのだ。生きたいと思っていても、どうしようもなかったに違いないとわかってはいるのだが。
「…フェリックス、お前がいたからだ」
「えっ…?」
「お前がいたから、あいつは死に神を追っ払ったんだ」
 俺は暗い腕の中で目を見開いたが、すぐに滲んできて何も見えなくなった。ファーターの白いシャツがその滴を吸い込んでいく。俺の涙は、いつになったら止まるのだろうか。

「Bitte nicht tranen. Jetzt wird gechlafen.」

 そう言って、俺の額にキスをくれた。瞼にも頬にも、最後に唇に。その、数えられないくらい繰り返されたその行為は、俺に父を思い出させてくれると同時に、忘れさせられないことを実感させた。
「俺も昔、一度だけロイエンタールにしてもらった」
 ファーターも父を思い出している。そして小さく笑っている。そうだ、父のことを悲しい思い出ばかりで埋めなくても、優しい温かいことを思い出せばいい。しばらくは切ないだろうが、それでも俺がこんなにも大事に愛されたことを俺自身が証明出来る。たくさん愛されたから、愛することが出来る。俺は、俺の父、オスカー・フォン・ロイエンタールを心から尊敬している。幸せをありがとう。

「いつか…もちろん俺が先だぞ? ヴァルハラにいったら、あいつに言ってやろうな」
「…何て言うの?」
 ファーターが小さく笑った。俺は、その頬に、一筋の涙がつたっていたことにやっと気がついた。それを見られたくないのか、俺を腕の中に閉じこめながら、優しい声で言った。

「ロイエンタールの大バカ野郎ってさ」

 

オスカー最後のお勤め日&フェリックス士官学校入学日


 最終回、かな〜(笑) 
 いろいろ考えてたのですが、なんか突然終わってみました。たぶん。

2000.9.8 キリコ

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