ROOTS
高校を卒業して一年後。花道が懐かしさから卒業写真を取り出したその日、花道の玄関にその流川が現れた。今度も突然のことで、花道は口をあんぐりと開けるばかりだ。
「る、ルカワ…?」
「…っす」
「…ほ、ホンモノか?」
「……どあほう」
少し驚いた目をしてから発せられた言葉は、聞き慣れた一言だった。およそ、一年半ぶりの再会だった。
そのときの流川を後から思い出すと、それが二度目の訪問で、自分が流川に自宅を教えた覚えがなかったことにも気付く。それでも流川は間違いなく玄関に立っていた。
何しに来たのか、花道にはついにわからず仕舞いの訪問だった。「茶」とだけ言った流川は、その後数時間、ただ黙ったまま花道の隣に座っていた。部活に行く時間だと花道が言わなければ、ずっとそのまま置物のようにいたのではないか。そう思えるくらい、ただじっとしていた。花道が見せた卒業写真にもたいして興味を見せず、花道の大学生活を聞きたがった。それを、相づちも打たずに、眠りもせずに耳を傾けていたのである。
「キツネに抓まれたって…こんな感じかな…」
アメリカに行ってから何の連絡もなかったし、噂も聞かないようにしていた。電車に揺られながら、やはり幻影だったのではないかとすら思う。けれど、立ち上がったときの存在やそばを通る気配は間違いなく生きた人間のもので、ケンカ以外で少しだけ触れたことを思い出して頬を染めた。なぜこんなに緊張するのか、花道自身わからなかった。
それが、実はビザなどの手続きのための一時帰国で、驚愕ともいえるニュースだと、花道は皆より遅れて知った。流川本人に会ったのは、安西と花道だけなのに。
久しぶりの三井からの電話の内容は、花道を何時間も固まらせた。受話器を置いた記憶もないくらい、動揺した。そのときのショックの大きさにも驚いていた。これが他の人ならば「早いな」で済むことだっただろう。けれど、噂の渦中にいるのは、あの流川なのだ。
「桜木? オイ、聞いてるか? あの流川が結婚だと! しかもデキちゃったらしい! おーい、桜木ー?」
流川がアメリカ人女性と結婚したという情報は、日本の報道番組によってもたらされた。それは相手が有名人だからであって、無名の日本人留学生の結婚なぞ、メディアには特別なものではないだろう。
ある意味、流川はこれでまず全米に名をあげたといえる。取材陣がその留学生のバスケットをTVでオンエアしたのは、バカにしていた東洋人が意外にも素晴らしい技術を持っていたからだ。それがまた、流川が入学した大学の名を広めた。
何よりも、妻となった女性が元WNBAプレイヤーであることが、マスコミの注目をよんだ要因である。アナベル・オーウェンは、日本人の血を引くプロということで知られていた。日系ハワイ人である父と、白人である母の間に産まれ、スポーツでも有名な名門大学の出身だった。卒業後、黒人が多いバスケット界でその座まで上り詰めたのである。それが、20歳代後半に入ってすぐに故障し、バスケットから身を引いた。その後、スポーツキャスターやタレントなど、様々なメディアで顔を知られる存在だった。
そんな彼女が、10歳近く年下の留学生と突然結婚したのである。これは、夫となった人物の周囲だけでなく、妻の方も十分驚かされるものだった。
流川自身、一生結婚しないと思っていた。これは、女性に興味を持てなかったのもある。性欲はおそらく人並みにあっても、他人、特にバスケットに興味のない人に近づきたいと思ったことがないから。自分の周囲に群がるファンを「うるさい」としか感じなかったから。
そんな彼がアナベルというスターと出逢ったのは、流川のロードワークコースが決まったものだから、とアナベルのスポークスマンは伝えた。以前から、流川がアナベルのファンであり、偶然出逢った二人は恋に落ちる。ロマンティックに脚色された分を差し引いても、劇的で運命的だとメディアは騒ぐ。寡黙で無表情な流川は、ジャパニーズブシとしてもて囃された。日本には、この一部が伝わったのである。
流川はそのことを知らなかったし、耳に入ってもわざわざ訂正するのも面倒だと思っただろう。すでに新婚生活に入っていたのもある。このときアナベルは、妊娠7ヶ月に入ろうとしていた。この時点での流川の戸惑いは、周囲の想像以上であった。流川は、どんどん膨れるお腹を見ても、現実味を感じていなかった。実際、元気な男の子が産まれても、流川は「父親」の自覚が形成されないままだった。唯一、流川は息子の名前だけ拘った。
出産後割と早く仕事に復帰したアナベルと、まだ学生の流川とでは、育児は当然難しい。そのため、アナベルの父母と同居することになった。全米を飛び回るアナベルと、勉強とバスケットに追われる流川では、実質的に親らしいことは出来ず、祖父母がその代役を担った。
日本で流川を直接知る人間は、しばらくこの話題で騒然となった。「あの流川が?」と誰もが首を傾げる相手だからだろう。それほど親しくなかった同級生たちも、「あいつも男だったんだな」と感想とも皮肉とも言えない言葉を漏らした。ファンの女の子たちの落ち込みようもかなりのものだったが、それよりも誰よりも、花道の様子がおかしかった。
「そんなにショックだったのか? 花道…」
親友の洋平に言われても、花道は肯定も否定もしなかった。自分でもわからないのだ。何がこんなにも自分を苛立たせるのか。
「俺なんか…ルカワとチューしたぞ…」
わけのわからない言葉に、洋平はついていた肘をかくりと滑らせた。
「……花道?」
それ以上はむくれた顔のまま話そうとはしない。肩をすくめながらアルコールを勧めると、花道は黙ったままそれに応じた。洋平の目から見て、今の花道は嫉妬しているように思えた。ただそれが、誰に対するものかははっきりとしない。
その日以降、花道は流川の話題を徹底的に避け始めた。
新しい家庭は、流川にはそれなりの居心地が良かった。多少日本語を話せる義父と、その彼のための日本食がときどき出てくる。義母も穏やかな人だった。この二人から、よくもアグレッシブなアナベルができたものだと不思議に思うくらいだった。「カエデ、カエデ」と実の息子のように可愛がる義父母に、流川は素直に喜びを表現することができなかった。日本で「デキちゃった婚」がどのようなものか、流川ですら知っている。けれども、そこはさすがにアメリカで、流川を責めはしなかった。
そのアナベルはというと、流川と同じく親の自覚が足りないのではないかと思われていた。それは不在がちなためだろうが、実際には息子を非常に可愛がっている。彼女が必死で働いているのは、全員が扶養家族だからである。
流川は、新しい名前もそれなりに気に入っていた。どうでもいいようで、どこか新鮮だった。それというのも、相手の籍に入るというよりは、日本名に英名が入ってきただけだからだろう。今の彼は、カエデ・ルカワ・オーウェンとなっている。そして、息子の名は「マイケル」だった。それは彼が尊敬して止まないバスケットプレイヤーの名前であり、そのことにアナベルも反対はしなかった。けれど、彼女には他に望むものがあったらしく、ミドルネームに「ジュニア」と名付けた。結局、その子はジュニアと呼ばれるようになる。
カリフォルニアに住む彼らは、一年中バスケットができる。一般人でも、対戦相手は山のようにいる。その山を一つ一つ崩すように、流川は常に挑戦し続けた。家に帰ると、自分が話さなくても賑やかな家庭があり、自分はただ食べて寝ればいいのである。家族サービスと呼ばれるものもほとんどなかったし、寮に住んでいたときのような煩わしさもない。流川には、有り難い環境だった。
さらにもう一つ、アメリカ人と結婚したおかげで、流川はスムーズに永住権(グリーンカード)を手にしたのである。これは、国籍は日本のままであるが、就学も就労も可能となる。学生ビザではアルバイトもできなかった流川が、このおかげでいろいろ自由が増えるのだ。奨学金ももらいやすくなる。打算的にも見えるが、流川がアナベルとの結婚を決意したのも、これがあったのは事実だった。
この夫婦の会話は、相変わらずバスケット一色だった。息子の話題よりも、これからのNBAやWNBA、日本のバスケット界などについてばかりである。その点、非常に変わっているといえるだろう。それでも流川は、真剣にやり合うと勝てないことすらある元プロを尊敬もし、敬愛もしていた。心の底では小さな恋を押さえ、今と将来の自分たちを大事にしようと思っていた。流川はこの結婚を後悔したことはなかった。
しかし、この幸せな生活は長くは続かなかった。
流川とジュニアを残して、大切な三人が事故で他界してしまったのだ。
そのときの電話を、流川は思い出したくなかった。英語の聞き間違いだと思い込もうとして、受話器を置いてもその場を動けなかった。プレスクールに通い始めたばかりのジュニアを迎えに行く途中、車がクラッシュしたのだ。遺体の確認に来いと言われてその場所へ向かっても、流川は自分が何をしているのかわからなかった。
それからが、いろいろ大変だった。
まず、流川は疑われた。永住権を手に入れ、保険金を独り占めするための工作ではないか、と。それほど莫大な金額だったからだろう。けれど、その疑いはすぐに晴れた。
お葬式やらいろいろな手続きは、流川にはよくわからない。勘当同然だった流川の両親には、直接は知らせていなかった。手間取っているところを、アナベルの弁護士スーが助けてくれた。
最も問題だったのは、二人きりになった生活であった。何しろ流川は育児に携わっていなかったため、ジュニアが何を食べてどう眠っていたのかすら、よく知らないのである。母親や祖父母を探し回り泣き続けることにすら、どう対応すればいいのかわからなかった。呆然としたいのに、隣で大声で泣き叫ばれる。泣きたいのはこちらだと怒鳴りたくても、声も出なかった。
学校もバスケットも手つかずのまま、流川の家の中もひどい有様になっていた。これからの身の振り方を考えなければいけないときに、ジュニアはただ泣き続ける。二人とも、まともに寝食を取っていなかった。もしかしたら、後数日で流川の忍耐は切れていたかもしれない。子どもというものがわからない流川は、自分の常識が通じないことにいい加減限界を感じ始めていたから。
そんな彼らの家に、報道陣がよく押し掛けてきた。それを無視するためにインターホンすら切った。隔絶された世界で、流川はバスケットと花道のことを思い出していた。この三年、思い出さないようにしていた元気なその姿は、瞼に鮮やかだった。こんなにも世界が変わってしまったのだろうか、と流川は初めて涙を浮かべた。隣で泣く息子の存在すら、忘れかけていた。
ちょうどそのとき、玄関のドアを激しく叩く音が聞こえた。さすがに驚いた流川は寝そべっていたソファから顔を上げる。重い頭に手を当てて、小さくため息をついた。
「おーい、ルカワ? いねーのか?」
ドンドンと鳴らされ続けるドアを、流川はじっと見つめた。
幻聴だと思ったから。都合のいい夢に違いないと。
「おいキツネ!」
再び怒鳴られた言葉を自分に向けるのは、唯一人だ。花道以外に自分をそう呼ぶ人はいないのだから。
「……さ…くらぎ…?」
小走りにドアに向かい、勢い良く開けた。もしも夢だったなら、流川は立ち直れなかったかもしれない。
「お…あんだ、いたのかよ」
「…桜木…?」
スタスタと入ってきた花道は、流川の真正面で振り返った。
「あんだよ、その顔色はよー しっかりしやがれ、バカ野郎」
労っているのか、励ましているのか、バカにしているのか、流川にはわからない。けれど、考えるより前に花道に飛びついていた。
「…桜木…」
「なっ なんだよ、オメーはよっ」
口ではそう言いながらも、温かい手のひらは流川の背を撫でた。こんなにも優しい花道はやはり自分の脳内での空想かもしれない。そう思ったら、流川は素直な行動に出た。
「桜木…桜木…」
初めてたくさんの涙をこぼした流川のそれは、涙腺が壊れたかのように見えた。花道の首にしがみついて、流川は泣いた。アナベルと義父母のために、必死で泣いた。そして、花道に逢えた嬉しさで泣いた。
「ル…カワ…その、ヤメ…」
本物の花道は、思っていた以上に参っている流川に困っていた。泣いている彼を見るのは初めてだし、甘えるように頬を寄せる仕草も全く慣れないものだったから。
「…な、泣きやめ…頼むから…」
そう言いながら、花道は流川の目元に口付けた。ものすごく自然にそうしたことであり、花道はずっと後になってこのことに驚いた。
流川がジュニアと二人きりになってから、およそ二週間が経っていた。
花道と流川の三年ぶりの再会だった。
2003.10.5発行
2009.10.28UP
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