ROOTS
長時間のフライトは、花道に静かな振り返りの時間を与えた。
「はて…?」
花道が日本を出てから、季節が移り変わっていた。社会人となったばかりといえる花道が、流川のことを聞いてすぐに辞表を出したのである。今思えば、ずいぶんと思い切ったことをしたと思う。
なぜ、そこまでしたのか。来てくれと頼まれたわけでもないのに。けれど、断られない気はした。なぜかなど、やっぱりわからないけど。
「…わかんねー……ことはない、かな…」
そして、前々から思っていたこととはいえ、花道は急にアメリカ行きを決意した。お金もないし、あてもない。けれど、流川がいるではないか。そんなことを考えて、花道は一人赤面した。
「とっ! とにかくだっ! あのままじゃジュニアが可哀相だったろ?」
誰に言い訳しているのか、その言そのものがおかしいと指摘する人もいない。花道は、子どもがいることは想像できたが、息子だともジュニアだとも知らなかったのだから。
日本に帰ったら、少し騒ぎになっているかもしれないと思う。何しろ、花道は誰にも何の相談もしなかった。突然行方不明になった悪友を心配しているかもしれない。それなりに仲良かった同僚も面食らっただろう。
今の花道には、それらは遠い過去に思える。けれど、流川たちとのことも夢でも見た気分だった。
「俺…どうなるんだ?」
ま、いいかと呟いて、花道はシートに身を落ち着けた。
花道は、二人きりになって困っているだろう流川たちを想像し、苦笑を漏らした。
そのときの流川は、確かに大いに困っていた。
花道が徐々にジュニアから距離を置くために、外出や外泊をしていたにもかかわらず、完全にいなくなったことを悟ったジュニアは、手の付けられないくらい大泣きをした。
「ジュニア…泣くな…」
どれだけ教わっても、流川にはあやすことが難しかった。花道ならば、またはアナベルや義父母たちはどうしていただろうか。何かたくさん言葉をかけていた気がするのだ。けれど、流川はそれほどスラスラしゃべれるタイプではない。まして、子供向けのあやし言葉などはもっと厳しい。2mの相手の上からダンクを決める方が、まだ可能だと心から思った。
流川は、大泣きして床に転がるジュニアを抱き上げた。愚図る子どもは腕の中でも暴れる。胸板を何度叩かれても、流川はジュニアを離さなかった。
「…大丈夫だ…」
耳元でそれだけ言い続けた。何がどう大丈夫かなどとは説明できないが、自分といることが大丈夫なことと、花道が戻ることを確信していたためかもしれない。流川自身は自覚しないまま、そう言っていた。
「大丈夫だ…ジュニア…」
だいぶ経って、ジュニアは流川の首に巻き付いた。涙に濡れた頬が首筋に当たって、何やらこそばゆい気がした。ホッとしたのと、ため息をつきたいのと、温かくて気持ち良いのと、流川には瞬時にいろんな感情が芽生えた。軽く背中を叩くと、だんだんしゃくり上げるのが止まっていった。
『ダディ…ハナはどこへ行ったの…?』
流川が真正面からダディと呼ばれたのは、初めてのように感じられた。実際にはそうではなかったが、流川が自分のことだと認識しながらというのが、これが最初だったのだ。ものすごく心拍が上がり、頬が熱くなった。
流川が自分を「父親」だと自覚したのは、まさにこの瞬間からかもしれない。
『…ハ…桜木は、また戻ってくる…』
『…ホント?』
『俺も桜木も嘘は付かない』
ジュニアはやっと体の力を抜いた。流川に抱きつき直し、『ダディ』と呟いた。
その日から、流川は必死で父親になろうとした。
日本に戻った花道は、まず悪友たちからの愛の鞭をもらった。
「花道…いい度胸じゃねぇか」
「おうおう、俺らンことなんか、もう忘れちまってたんだろ」
「どこ行ってたのか知らねぇけどよー」
洋平は、小さく笑っただけだった。
「す、すまねぇ…」
全員が社会人となった今、昔ほどの馬鹿騒ぎはしない。けれど、ふざけた明るいノリは今でも健在だった。
「そ、その…どっから説明すりゃいいのか…」
「別にいらねーよ、ンなの」
洋平は花道の肩を叩いた。無事でいたならばいい、との思いを込めて。
「俺…アメリカに行こうと思う」
桜木軍団は顔を見合わせたけれど、誰も驚きはしなかった。
「…ふーん?」
「……あれ? 驚かねーの?」
「やっとか、って感じだぜ?」
花道は、一大決心を打ち明けたつもりだったのに、拍子抜けした。
「いや、なんつーか、ジュニアが可愛くてよぉ…ルカワより俺に懐いてて…」
そこからは、桜木軍団の呆気にとられた顔にも気付かず、花道はこれまでの生活を話し続けた。どれほどうんざりした表情を向けても、花道の言は止まらなかった。
今の花道には、あちらこそが帰る場所となったらしい。
ハードルがなかったわけではない。むしろ、何の目的もなくアメリカに移り住むことの方が難しいのである。手続きなどの細かいことが大の苦手な花道は、予想以上に手間取っていた。
「む…早く帰ってやんねーと…」
気は焦り、すべての関係者に頭突きをかましたい気分だった。
そんな窮地を救ったのは、意外な女神、アナベルの弁護士スーだった。
花道は、実は流川よりもスーと親しかった。留守を預かる間、時間を見つけてはやってくるスーに英語を教えてもらったこともある。育児についても、独身とはいえ女性の方が知っているものらしい。方法を教えてもらうというよりは、その探し方を教授してもらっていた。
そのスーに授かっていた知恵と、スーからの直接的な応援で、花道はアメリカへの切符を手に入れた。
結局、花道がカリフォルニアの流川たちの元へ戻るのに数ヶ月かかった。その間、花道から何度か電話したが、流川の反応が素っ気なかったのもあり、気になっていた。
けれど、意外にも穏やかな生活を築いていた。
流川との生活に慣れたジュニアは、一人で留守番することを覚えていた。4歳になったばかりの彼にはきつい話であり、アメリカでは虐待と取られても文句は言えない。流川は、帰る時間を伝え、その時間に必ず帰ることを繰り返し、ジュニアを慣らしていったのだ。それは、プレスクールが始まる前の短い期間のつもりだったし、花道が戻るまでのことだと思っていたから。
その待ち人がやってきた日、プレスクールでの参観日にあたる親の会があったため、流川もジュニアも不在だった。花道は勢い込んで来た分、落胆も大きかった。ドアベルに反応しないことにいろいろ理由を考えて、青くなったりもした。
「お、オイ? ルカワ? ジュニア? まさか…中でのたれ死んでんじゃ…」
そんな想像に、花道は必死でドアを叩いた。窓から中はあまり見えない。家の周りを回って、花道は頭を抱えた。
「救急車…って110番? あれ、こっちだと何だっけ…」
「……どあほう…」
しばらく前からその背中を見ていた流川は、声をかけるタイミングを見計らっていた。実は心臓が跳ね上がっていたけれど、それを悟られまいとした。すると、いつもの言葉しか出てこないのだ。
『あーーっ ハナだっ』
ジュニアは素直だった。そして、花道を忘れていなかったらしい。
『ハナミチ!』
流川の腕の中から両手を伸ばし、花道に満面の笑顔を向けた。
「あれ…ジュニア? 流川? 無事だったのか…」
「……何のことだ…」
少し目を見開いた流川の表情は、ごく普通の、以前の彼だった。ジュニアを抱く腕は安定していて、ジュニア自身も居心地良さそうにしている。そして、ジュニアが浮かべる笑顔も、穏やかで明るいものだった。
「おう…ジュニア」
ワンテンポ遅れて、花道はジュニアを抱き上げた。
喜びの声を上げるジュニアは、どこから見ても元気そうだった。流川もやつれてはいない。入った部屋は、多少散らかってはいるものの、荒れてはいない。それだけでなく、流川は簡単な料理を覚えていた。それは花道が教えたものばかりだった。
『ジュニア、今日は洗濯の日』
『オッケー』
了解の笑顔を浮かべ、ジュニアは自分の部屋へ駆けていった。
『ハナ…手伝ってくれる?』
「…えっ 何だって?」
『日本語だ、ジュニア』
『……何て言うの?』
花道にはそのやりとりはあまりわからなかったが、この二人は英語と日本語の両方で会話しているらしい。流川やスーの英語はわかるようになっていたが、子どもの英語は聞き取れなかった。
花道は、流川の大学によく出入りするようになった。それはバスケットコートだけであったが、部外者に厳しいアメリカで、花道の強引さはその上をいっていたらしい。あまり話せないままなのに、チームメイトと打ち解けるのに時間はかからなかった。
流川が小さく見えるメンバーの中で、彼は相変わらず黙々と練習を続けていた。他の連中のような陽気さもなく、ただ一途にボールに向かっている。その姿は、始めは嗤われる対象だったと花道は聞いた。けれど、鋭い技術は正確で、コートに立っているときは最も信頼できる相手だと、アメリカ人らしい言い方も耳に入った。
『お前はメチャクチャだよな』
セットした赤い髪を崩されながら、花道はそれなりに親しまれている。がむしゃらなところは変わっていないと、流川は観察した。素人とは二度と呼べないほどの技術に、素直に感心した。
そして、周囲の目は、二人のコンビぶりに驚かされた。対戦しているときは互いがやり合おうとし、まるで憎み合う立派な敵同士だった。けれど、チームメイトとなると、他の誰よりも、流川と数年バスケットをしてきた部員でも出来ないくらい、息の合ったプレーをする。口での合図でもなく、指示でもない。けれど、それぞれが望むべき位置にどちらもいるらしい。流川のパスやシュートは正確で、花道のジャンプは抜群だった。
流川単体でも、日本人としては「まあまあ」と思っていたチームメイトは、東洋の意外な強敵だったと認め直し始めていた。
『ハナミチ、うまい日本人ってのは、たいして珍しくないんだぜ』
『……ふーん?』
『そのレベルって、こっちではもっと珍しくない。わかるか?』
『……なんとなく』
『お前がアメリカのバスケットをやりたいのなら、なんか特徴がいるかもな』
「わあってるよ」と日本語で呟いて、花道は首を縦に振った。実際には半分くらいしか理解できていなかったが、自分に好意的だったのはわかった。
家に帰れば、プレスクール、デイケアから戻るジュニアの相手を精一杯する。明るい時間ならば公園のコートに行くこともある。講義が残る流川を置いて、花道とジュニアだけで出かけることもある。ジュニアは、フレキシブルな予定に対応できたし、二人といることがすっかり当たり前と思っているらしい。
『ハナ、ハナは何でバスケットをするの?』
「…ジュニア、俺といるときは日本語しゃべれって言っただろ」
「…むつかしい…」
「ふっ バーロー! これからはバイリンなんとかが流行るんだ。どっちも話せ」
花道の肩車の上で、ジュニアは小さな頬を膨らました。
「ハナは…バスケ、好き?」
「おっ ちょっと質問変えやがったな。まーいい。バスケットな…俺もこんなに続けるとは思わなかった時期もあったな…」
『…何言ってるのかわからないよ…』
「なんかずっとルカワを振り向かせたくて、負けたくなくて、倒してやるぜって思っていたら、アメリカまで来ちまったな…」
ジュニアはいつもよりわかりにくい日本語を諦めた。ときどきこんな真面目な顔をする花道も、好きだったから。
『ハナ? スーはもう来ないの?』
「あっ えっ 何だって? スー?」
『ハナとスーはコイビトなんだろ?』
花道はジュニアを振り落としそうだった。勘違いだと正すには、動揺が大きすぎた。
「じゅ、ジュニア! オメーそれ、ルカワに言ってねぇだろうな!」
「…ハナミチ、早すぎてわかんない」
絶句した花道は、しばらく立ち止まっていた。何がどうしたのかまで理解できていないが、ジュニアはすでに流川に話したことを言わない方がいい気はした。
『ハナ、もうウワキするなよ?』
「…? ジュニア、わかる言葉で話せ」
ときどき、子ども同士の会話のようだと、ジュニアはため息をついた
ジュニアは流川の前ではずいぶんと大人しくしていた。聞き分けがよく、礼儀正しい。挨拶にうるさい父の教えで、ジュニアはプレスクールでも人気者だ。どちらかという無口なのも、喋りすぎない父の真似かもしれない。ずっと一緒に暮らしていたけれど、初めて知る人のように、ジュニアは流川をよく見ていた。
けれど、彼の目から見ても、父は不器用だった。コート上ではスピードもあり、キレが良いのもわかる。ボールはまるで体の一部かのように、滑らかに動く。父の手に掛かれば、思い通りのところに飛ぶのだ。それなのに、
『ダッド…これ、食べられるの?』
『……さあ…』
花道が日本に帰っていたときから、流川はしばしばキッチンに立つ。努力しようと調理すると、食材が無駄になることが多い。ジュニアはそれを見分けることができる。花道や祖父母が立てる匂いと、ときどき全く違っていたから。
『もー ハナに作ってもらった方がさー』
『…イヤダ』
『ダディ…なんてガンコ…』
ムキになる父は、最近まで知らなかった。花道が来てから、口数も増えたと思う。
「あーあールカワ、あんだよそれ…」
大げさなため息をついて、花道は流川をキッチンから追い出した。
「ちっ」
舌打ちする流川を、ジュニアはじっと見つめた。機会があれば、きっとそれを真似するのだろう。
ジュニアは今度は花道の手さばきを自分のものにしようとした。
ソファに座った流川は、振り返って花道とジュニアを確認する。そうしなければ、こうしている毎日が信じられなかった。体育館の中に花道がいることも、その場にいなければ夢のようだった。
リビングのボードには、可愛がってくれた義父母やアナベルの写真がズラリと並ぶ。ジュニアのものは、生まれたときのものからたくさんある。一枚だけ、小さなジュニアを抱く自分の写真があるが、それも流川には自分に似た誰かのものとも思える。
今の流川には、どこかすべて夢の中で自分を客観的に見ているようにしか感じられないのだ。それなりに空腹感もあり、バスケットをして汗をかく爽快感もある。けれど、何かをしたい欲求が、ずいぶん減ってしまっていた。
日本で花道と一緒に暮らしたことはない。バスケットコートの上でだけ、同じ時間を過ごしていられた。よくケンカをしたが、あまり会話も成り立たなかった。
「…そういえば、ケンカをしない」
それは大人になったからだろうか。
目を閉じて、流川は湘北高校の屋上にいて、空の下で眠っているつもりになった。そうしていると、鬱陶しく構いにくる相手がいたから。ケンカにしろ、文句にしろ、とにかく互いだけだったのに。
「オーイ、ルカワ」
『ダーッド! ご飯できたよー』
花道の呼びかけのあと、明るい高い声が聞こえ、それが自分に向けられたものだと目を開ける。何度か瞬きして、これが現実だと自分に言い聞かせる。いろいろあったが幸せだと思う。それなのに、別の人生を考える自分がいた。
食事中も賑やかな花道に、ジュニアは笑いながら食べる。同じ食卓を囲んでいることも不思議で、流川の手はときどき止まった。
「ぬ…あんだルカワ? 俺さまが作ったメシがまじぃとでも言うのか」
「ぁあん」と懐かしい不良っぽい凄味に、流川は目を見開いた。それに返事をする前に、ジュニアが先に口を出した。
『ハナ! 今なんていったの? なぁに、それ! なんか凄かったよ』
大はしゃぎで喜ぶジュニアに、花道は「格好いいだろ」と偉そうに仰け反った。流川の入れたかったツッコミは、タイミングを逃したらしい。
こんなおかしな食事時間をもつことができたことに、流川は瞼が熱くなるほど感動していた。戸惑いもあるが、幸せだった。
三人で眠るのも、もう当たり前だった。何部屋もあるこの家で唯一使われているのは、このゲストルームだけだった。
ときどき、花道がいない夜がある。花道がそれなりにもてることを、以前はスーと付き合っていたらしいことも、噂に疎い流川でも知っている。今の相手は自分の大学の女学生であり、アタック攻撃を目の当たりにしたこともあった。そんな夜は、流川の胸はチリチリと痛む。きちんと外泊を連絡してくるところが、またかえって苛ついた。ジュニアを力強く抱きしめて、嫌がられたりもする。
流川はずっと以前から、花道が好きだった。長い間、この想いをひた隠しにしてきたのだ。
2003.10.5発行
2009.10.28UP
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