ROOTS
休みの日には、三人で行動することが多かった。買い物も、食事の支度も、眠るときまでそばにいる。流川はジュニアを挟んで花道といる方が、昔の自分らしいと感じていた。ジュニアに出掛けられると、会話というものが成り立たなかったから。
そういえば、なぜ花道が自分のところへやってきたのか。
流川は自分に都合良く解釈しなかった。0%の期待もないと思いこんでいる節がある。けれど、それはごく自然な考えだっただろう。ともかく、不思議でも何でも、今はこれが間違いなく現実だった。
広いスーパーの中では、ジュニアが小さい頃は荷台に乗って回っていた。今では走り回るけれど、花道がアメリカにやってきた頃は二人から離れようとしなかったから。
ときどき流川は以前のジュニアを思い出す。
「こら、ジュニア! ヤメロ、それは買わねー」
『……なぁに?』
おそらくジュニアはわざとやっていた、と流川は思っている。彼はよく荷台の先頭で、陳列されたものをひょいひょいカゴに入れていた。花道が気づいて怒るときもあれば、レジで驚くこともある。ジュニアがそうすると、花道が声を掛けるのだ。おそらく、それが楽しかったのだろう。それがわかるのは、流川がそうやって花道の気を引いていたと自覚し始めたからかもしれない。
流川とジュニアで買い物に出たときは、なぜかジュニアは荷台には乗ろうとしなかった。通りを歩くときは必ず手を繋ぎ、スーパー内では抱き上げなければならなかった。流川にはその訳まではわからなかったが、ジュニアの中で流川と花道の役割が違っていたからだろう。いずれにしても、流川は楽しんでいた。
逆に、花道と二人きりで買い物に出たときは、もっと沈黙が多く、距離を置くように歩いていた。それでも単体で買い物に出ようとはしなかった。流川は、花道とバスケット以外で並んで歩くことが最初は珍しく、やはり楽しんでいた。
「おう、ルカワ?」
少し離れたところで手招きされる。流川はたいてい素直に近寄った。
「こないだコレうまかったろ? 今日もこれでいいか?」
「……ワンパターン」
「…てめー、食わねーつもりか?」
「…食う」
流川は憎まれ口ばかり叩くが、本音は花道の料理が好きだった。子どものためにバランス良い食事を考えているのではないだろうか。そして、体力が付くような内容だと思うのだ。花道はいつから料理ができるのだろうか。花道のことを想っていても、これまであまり疑問にしなかった。
花道のことが知りたい、と思うようになった。
わざわざ尋ねることまでは出来ない流川は、意外な一面をジュニアから知った。
ある朝、流川はいつもなら一番最後まで寝ているのに、割合早く目覚めた。花道はすでに起きてキッチンに立っており、流川はその手さばきをのぞき込んでいた。このとき花道が、流川とジュニアの行動の共通点に笑っていたことなど、気づきもしなかった。
遅れて起きてきたジュニアは、自分と花道に挨拶に来る。これは、母親たちが存命の頃からのくせなので、止めようもなかった。毎日のように頬にキスされることに、流川はなかなか慣れなかった。そんなジュニアが、そのままリビングに戻り、アナベルや祖父母の写真に向かい、手を合わせていたのだ。浅く腰を曲げ、ギュッと目を瞑る。それは数秒間続けられた。そして顔を上げたジュニアは、写真に笑顔を向けていた。
流川は、ジュニアのそんな挨拶を初めて見た。
「ジュニア? 何してたんだ?」
『これ…? えっとね、ハナがおはよーって言えって』
本当は挨拶や報告や相談もしろ、と花道は説明した。けれど、ジュニアはすべては覚えられなかった。 仏壇と似たような扱いに、流川は少し驚いた。
花道は、亡くなった父親とそのように会話していたのだろうか。
流川は少し切なくなった。現実的な彼には、あまり参加しかねることなのに。
「…ジュニア、写真は写真でしかない。そこに親を求めるな」
『……ダディ? わからないよ?』
もっともらしく言ってしまった流川は、ジュニアが理解できなかったことに少し安心した。別に止めさせるほどのことではないと思うのだ。
「…おやすみなさいは?」
『もちろん言ってるよ。ねぇ、ママ?』
そうしてまた写真に笑顔を向ける。置いて行かれてまだ半年ほどなのに、ずいぶん立ち直ったと、流川は思った。
そんな日々を過ごしていると、あっという間に半年が経った。命日には流川とジュニアで墓参りに行った。言葉は違うかもしれないが、流川はそんな気分だった。白い石だけとなった母や祖父母のことをジュニアはまだ理解できなかった。
花道は、その日はどれだけジュニアに誘われても遠慮した。
そんな彼らにも変化は訪れる。流川が卒業を迎える年が来ていたのだ。
「やっとかよ」
「……うるせー」
花道は日本の大学を、とりあえずの成績とはいえ卒業している。社会人として実業団にも所属していた。
流川は留学したままずっと学生で、働いたことがない。永住権を取ったときからアルバイトも可能だったが、アナベルがバスケットに集中させた。彼女たちの死後は、保険金で生活しているのである。花道は完全な居候だった。だから、彼らの生活はいたって質素だった。そのお金は、ジュニアが受け取る物だと流川は思っていたから。
「日本に帰ンのか?」
花道の口調は、一緒に帰ろうと誘われているようにも、お前が帰っても俺は残る術があるとも、どちらとも取れた。流川はずいぶんと深読みできるようになったらしい。
そんな流川の将来の中に、今のところその文字はない。
「…まだだ」
そう答えたのは、心のどこかには「いずれ日本に」と考えていたのかもしれない。
今の流川は、まだアメリカでバスケットをし足りないという思いが強かった。
花道は試合以外は大学のバスケットチームに入り浸っていた。スポーツで有名なその大学には、NBAなどいろいろなところからスカウトマンが来る。自分を見てもらうのも、自分を売りつけるのも、アメリカでは交渉ができなければならない。流川は英語に困ってはいないが、これが少し弱いところがあった。逆に、花道は自分を能力以上に評価し、それを相手に納得させる引力がある。そこが二人の違いだった。
花道は、流川とのコンビプレーを買うスカウトマンを探しだした。
その話がきたとき、流川は驚きで固まった。同じチームに所属できるとは、全く思ってもいなかったから。日本人を受け入れるチームがあるだけでも、驚愕ものなのだ。
「…なんで…」
「ああっ? なんでって、何がだ?」
「……お前は自分を売り込んだんだろう…?」
「…まあ、そうなんだけど…なんつーか、おりゃあオメーとやりてーんだよ」
素面でそう言われ、流川は面食らう。その無防備な顔に、花道の方も遅れて慌てた。
「と、とりあえず、一年契約っつーか、ダメだったらクビだっていうし…」
「…それはたぶん普通」
「じゃ…いいじゃねぇか」
流川は、ソファの上に立って自分を見下ろす花道の真正面に立った。自分の手のひらを見つめてから、ゆっくりと差し出した。
「……おう…」
「お……おう」
ものすごくぎこちない握手だった。花道の手は温かかった。
ジュニアは、この知らせをずいぶんと喜んだ。母親も所属していた世界である。純粋に応援した。
『ダーッド! ハナ! すっげーよっ』
両手を上げて走り回るジュニアを、花道は追いかけ回して遊んだ。流川も一緒に走りたい気分だった。もっと長く、砂浜を辿って他国まで飛んでいきたいくらい、浮かれた。じわじわと認識できる幸福に、流川は諸手をあげて喜んだ。
花道もジュニアも、流川の満面の笑みというものを初めて見た。憧れの、NBAなのだから。
しかし、実際に二人が入団してから、大いに困ったことが出てきた。二人が同時に留守であり、遠征や合宿やらで完全な不在となる日があったことである。
顔を見合わせながらも、どちらも止めることは出来ない。かといって、ジュニアを放り出すほど無責任な彼らではなかった。けれど、流川は自分の息子のことなので、一度は身を引こうかとも考えた。それほど流川の中で大きな存在だったのだろう。
「ケイヤクイハン、とかになる」
と花道はもっともらしい理由で引き留める。花道は、心から流川とバスケットがしたかったから。
「だからって、ジュニアを放っとけねー」
花道が打ち出したにわか案は、新婚のスーに預かってもらうことだった。もちろん一時的にだ。そして、流川が納得する前に、スーが引き受けていた。
『アナベルの息子だもの』
弁護士とクライアントというだけでなく、二人は親友同士だった。
流川は渋い顔をした。けれど、確かに他に方法はなかった。見ず知らずのベビーシッターに預けるよりは、という妥協案で承諾したのである。
けれど、これはジュニアの感情を計算に入れない、大人同士のビジネスだった。当然、ジュニアは拗ねた。スーやスーの夫に対しても暴れる。ごく自然な反応だった。
スーは、そんなジュニアの説得を試みた。口で言ってもわからないことを、目で見せることで理解させようと思ったのである。
『ジュニア、アナベルはすごかったわよね』
『……知らない』
『じゃあ…カエデとハナミチを見ればわかるわ』
ジュニアは俯いて口を尖らせた。会えなくて寂しいのに、わざわざその名を出されたくなかったのだ。
『行きましょう、ジュニア』
『…どこへ?』
スーは、流川と花道が出場できる日に観戦に行った。弁護士仲間のコネを使い、コートのできるだけ近くの席を選んだ。
ジュニアの興奮は、言葉からではなく、感動の涙で伝わってくる。見慣れた二人の真剣な顔も、二人のパスがよく通ることもわかる。生き生きと動いているように見えた。隣でスーが促しても、ジュニアは試合中は一度も座らなかった。結局出場したのは短い時間であり、その試合は彼らのチームの負けだった。けれど、ジュニアは誰もいなくなったコートからも、目が離せなかった。
『ジュニア…そろそろ帰りましょう。今日は彼らも帰って来る日でしょう?』
スーと夫が抱き上げなければ、ジュニアはそのままそこの張り付いていたかもしれない。これまで、公園のコート上で二人を見ていたけれど、そんなものではない。真剣な眼差しが、ジュニアには強烈だった。
うっすらと涙の筋を残したジュニアに、スーはかける言葉も見つからなかった。
『ダディ! ハナ!』
彼らより遅れて家に戻ったジュニアは、玄関が開く前に叫ぶように呼んだ。その必死の声に、彼らの方が慌てた。何事かがあったのか、と心配になる。
「ジュニア?」
『ハナミチ…あ、ダーッド』
二人の中間を目掛けて、ジュニアは高く飛んだ。巻き付かせたかった腕は短く、二人の肩にかろうじて引っかかった。花道が体を受けなければ、床に落ちていただろう。
「…ジュニア? どうしたんだ?」
『後はジュニアに聞いて。おやすみなさい』
「…スー」
彼女の笑顔が穏やかならば、取り敢えず事件ではないらしい。けれど、泣きじゃくるジュニアからは要領は得なかった。
「ジュニア…何があったんだ…」
「……やっぱり預けンの、止める」
だいぶ経ってから、流川が真面目な顔で言う。息子が泣くのは、どんな理由であれ、気持ち良くなかった。
「違うよ、ダディ。バスケ、止めちゃダメ」
「……ジュニア?」
二人の声が同時に疑問型で浮かぶ。
『凄かった…格好良かった…信じられないよ…すごいよぉ』
まだまだ流暢に日本語が使えないジュニアは、やはり英語に戻ることがある。感情表現は、日本語では難しいらしい。
「…ルカワ、なんつってんだ…?」
「……すごいって…」
「何が?」
流川も首を傾げた。
その夜は謎が解けないままだったが、後日、スーがジュニアを連れて試合を観たことがわかり、それだけで二人はジュニアの言いたかったことがわかった。
ということは、バスケットを続けてもいいのだろうか。
「ジュニアがそう言ったじゃねぇか」
「……」
流川には躊躇いもあった。けれど、やはり他にどうしようもなくて、息子も応援してくれるなら、とにかく頑張るしかないと心に決めた。
「ジュニア、来い」
『…なぁに?』
「このビデオの使い方を教える。俺たちを待つ間、これを観ろ」
ジュニアは座らされたソファで、父の顔を見つめた。棚の奥にしまわれていたらしいビデオが、端からセットされる。映し出されるまでの短い時間、ジュニアはただワクワクした。
賑やかな歓声が少し聞こえ、その後は何もなく試合が開始されている。その中ではユニフォームを着た女性ばかりが、流川や花道と同じ動きをしていた。
『ダディ?』
これは父たちではない、とジュニアは尋ねたかった。けれど、チラと横目で見た以外、流川は何も言わなかった。
ジュニアは、出場者の名前を聞いていなかったのだ。流川は一番わかりやすく映ったシーンで、ビデオを一時停止した。
「ジュニア」
それだけで促されたジュニアは、わけがわからないまま画面を凝視する。それは、写真を見ないと思い出せない母の顔のアップだった。
『マミィ…?』
流川は黙って頷いた。あまり、口を開きたくないようにも見えた。
『それ、全部マムの試合なの?』
「…そう」
『なんで今まで観せてくれなかったの?』
「……もう少し、大きくなったら、と思った」
ジュニアはまた口を尖らせた。彼はよくこの仕草をするが、それがアナベルのくせだとは知らなかった。
『いっぱい…観てもいい?』
「…ああ」
流川はジュニアの頭をポンと叩いた。
その会話に花道は入っていけなくて、ジュニアと同じように口を尖らせていた。
2003.10.5発行
2009.10.28UP
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