ROOTS
そんなジュニアが彼らとは逆に数週間留守することになった。それはプレスクールの夏の合宿であったため、ジュニアは友人たちとのお泊まりにはしゃいでいた。
「む…ジュニア、なんでそんな嬉しそうにしてやがる…」
「えーそりゃ嬉しいから!」
ジュニアは英語と日本語を上手に使う。花道と話すときは日本語のときが多い。今では花道の英語もかなりのものなのに。
親というのはこういうものか、とその理不尽さを感じた。花道は、本人がどう思おうとすっかり父親だった。流川も黙ったまま、ほんの少しムスッとしている。けれど、二人ともそれ以上文句も言えなかった。親離れよりも子離れの方が難しいものである。
笑顔で旅立つジュニアを、花道も流川も複雑な笑顔で見送った。
それから新たな苦悩が待ち受けているとは、二人とも思いも寄らなかった。
全くの二人きりの夜が、こんなにも落ち着かないものだとは思わなかった。食事中もカチャカチャと食器の音だけが響き、テレビ番組はまるで部屋の家具に聞かせるかのようだった。
困ったのは、その第一夜からだ。最近、たいていは流川が先に眠り、花道とジュニアが揃ってベッドに入る。いつの間にか流川はジュニアに体をくっつけて、甘えるように眠っていた。ジュニアがいなくなった夜も、流川はごく日常のように先にベッドに入った。それなのに、一向に眠れそうにない。眠りを大切にする自分がこんなことを経験するとは思ってもみなかった。心拍が上がり、頬や耳が熱くなっているのが自分でわかる。シーツが冷たく感じるくらいだった。
しばらくして、ドアを開けるカチャリという音が聞こえた。流川の心臓は高く鳴った。それが聞こえてしまうのではないかと思うくらい、止めることができないものだった。
「ル、カワ…その…」
入るぞ、と宣言されたのは、これが初めてだった。花道の緊張が、流川にも伝わる。自分だけではないとわかると、妙に安心した。
知り合って約10年。24歳の夏に、二人の人生が変わった。
その居心地の悪さは、言葉で表すのは難しい。けれど、試合や練習を終えて、二人はまっすぐに帰宅する。そこにジュニアはいないけれど、必ず「ただいま」という。
「なあ、ルカワ? 「ただいま」って何て言うんだ?」
「…アイムホーム…が一番近い」
「えっ…いつも言ってたのって、そういう意味だったんか」
花道は素直に驚く。流川は今やっと知ったらしい花道に呆れた。
「…どあほう」
「まーたオメーはよー、なんか何でもそれで済まそうとしてンだろ?」
「……」
そんな言い方をされたのは初めてだった。もしかしてそうかもと思ったとき、流川は二の句が継げなかった。
「おうルカワ、メシ足んねーぞ、買いに行くか」
二人きりで買い物に行くことにも徐々に慣れていく。けれど、ジュニアがいるのといないのとでは、会話の数が圧倒的に違っていた。
この一年ほど、花道は夜に出かけなかった。デートする相手がいなかったらしい。ジュニアは花道が家にいることが嬉しかったし、流川の心も実は平穏だった。
その花道が、二日連続遅くなるという。場合によっては帰ってこないつもりだろう。
「昨日は…いた」
ベッドの中で、その温もりを確かに感じた。
けれど、今日は帰らないかもしれない。そう思うと、流川の心臓はキュッと縮まる。酒でも呑んで寝ようと、流川は暗いキッチンに立った。
住み慣れた家とはいえ、未だに自分はお客様気分のことがある。まるでモデルルームにでもいる感覚だ。
けれど、今は間違いなく花道と、ジュニアを待っているのである。一人でいるときの流川は、ときどき思考がトリップしていた。
「…寝る」
貴重な休みを寝過ごすだけで終わりたくはない。夏の間はいつも快晴のカリフォルニアでは、公園のコートは大にぎわいなのだから。
ところが、ベッド上で何度反転しても、今ひとつ眠りがやってこない。瞼は重いのに、意識が遠のかない。嫌な想像をしたくなくて、寝たいのに。
「もー酒はいー」
自分に言い聞かせ、流川は端から端まで回転した。
そんな中で、流川がピタリと止まり、顔を埋めた場所があった。
「…桜木のにおい…がする」
自分と反対側の枕から、花道の残り香がわかった。それは、香水やコロンではなく、花道自身のものだ。
心臓が穏やかにキュッとなる。
ジュニアという壁がなくなってから、流川は毎晩のようにこの匂いの中で眠っている。それは、ジュニアにすり寄る代わりに花道にくっついているのだと、流川自身は知らなかった。
頬を寄せると、シーツの冷たさを感じる。自分が火照っているのもわかった。
流川は躊躇いながら自分の分身に手を伸ばした。短パンのゴムを引っ張るのが恥ずかしくて、何度も手を止めた。
「…桜木…」
ものすごく久しぶりに、流川はそんな欲求を持った。長い間、自分を慰めることもしていなかった。
「ふっ」と呼吸と共に声が漏れ、流川は唇を噛んだ。見られているわけではないけれど、はしたないことをしている気がした。
もう少し、というときで、部屋のドアが勢い良く開いた。
流川はメディウサの頭に睨まれた人間のように、そのまま石になってしまった。
「…ルカワ…ふー」
酔っぱらっているのがわかる。けれど、機嫌は良さそうでもない。いつもこんな風に帰ってきていたのだろうか。流川はとにかく寝たふりをした。
花道は、ぼんやりしたままでも、流川がいつもと違う位置にいることに気付いた。単に寝返りを打っただけだと思ったが、妙に固まっていることもわかる。声を出さずに笑いながら、花道は流川をいじめたくなった。
「オイ、ルカワ?」
何の反応も示さないのは予想通りだが、なぜか背中で意識されているのがわかる。花道は、その背筋を指で撫でた。
ビクッと震えて逃げようとした流川の腰を、花道はすぐに捕まえた。
「なっ」
背中にピッタリと張り付かれて、流川は思わず声を上げた。自分の臀部に当たるものの熱さに、流川は心底驚いた。
「なあルカワ?」
大きな指があごにかかり、花道の口に耳を導かれた。唾液の音が鼓膜をくすぐり、流川は喉仏を上下させた。
「オメー、今ヤッてたろ?」
なぜわかるのだろうか、と流川は動揺する。けれど、この状況の方がもっと理解からほど遠く、なぜこんなことに陥っているのか、問いつめることもできなかった。
「俺がヤッてやるから、俺にもヤッて」
その言葉通り、花道は流川自身に直接触れてくる。驚愕と恐怖に近い感情で、流川は指すら動かすことができなかった。
ゆっくりと動く指は、さきほどから我慢している分身をじらすようだった。流川は自然と呻き声を洩らす。それがますます花道を煽った。
「ルカワ…」
耳元で低く囁かれ、開いている手はTシャツに潜り込む。胸の先を摘むと、流川が身を捩った。
「…はぁ…」
うっとりとしたため息とともに、流川の首が少し傾く。花道の髪に自分の髪を絡められ、こちらの方が追い立てられた。無意識の方が罪悪だ、と花道は勝手に怒った。
「この…」
流川を押さえつけるように、シーツにうつ伏せにする。掴む物を得た流川は、枕にしがみつき、顔を埋めた。花道は膝で流川の足を押さえ、逃げられないようにする。
すぐに、花道は自分の苦しい分身を解放してしまった。流川の少し高い呻き声だけで。
しばらくその反応を理解できなかった花道は、ますます苛ついた。
「こ、この、ヤロウ! こら、ルカワ」
「…うるせー、どあほう」
荒い息を整えながら、流川も必死で応戦する。けれど、どちらも声に艶が有りすぎて、迫力の欠片もなかった。
何が起こったのか、流川が認識する前に次々進む。呆然としている間に、花道の赤い頭は自分の上を動いていた。
取り敢えず抗おうとした流川の背中に、花道は大きな口を押しあてた。鼻でTシャツを滑り、肩の先の口に含む。その熱い息に、流川の頬はカッとなった。逃げようと腕を動かすと、上腕の裏側の柔らかい部分に当たり、かえって辛いことになった。花道は流川の肘に噛みついた。
「…いい加減に…」
ヤメロと言いたいのに、口を開けば喘ぎ声しか出なくて困った。流川は手のひらで押さえ、掴まれている腕を振った。
小さな抵抗は、逆に攻める方をスムーズに動かしたりする。二人とも意図しないまま、花道の唇が腋の下をくぐり、流川の乳首に触れた。花道は自分がそのポイントを攻めなければならないのだと勝手に解釈する。シャツの上からでもわかる突起が可愛かった。
流川の右手が花道の赤い髪に絡まれた。髪を引っ張ろうとしたのだが、力の入らない指ではそれもままならない。胸に導かれているように思われていることに、流川は気付いていない。乳首を口に含まれると、体を震わせ、花道の頭を掴んだ。
ゆっくりとした動きに、流川もゆっくりと体を天井に向ける。いつの間にか花道の首に腕を回し、空いた手で口を塞いだ。
花道は、首に触れる流川の指が震えていることに気が付いた。
たとえ久しぶりでも、もう少し大胆になるか、本気で抵抗するか、どちらかではないかと思うのだ。けれど、流川の反応は初な乙女そのものだった。彼は結婚していたのに。
「ルカワ…こっちの手もよ…」
わざわざ注釈をつけて、その腕を自分のしたいように引っ張る。花道はしがみついてほしかった。花道は流川の手を握り、その手のひらが汗をかいていることを自覚しながら、自分の背中に回させた。そのときやっと顔を見たが、ギュッと瞑られた睫毛まで震え、寄せられた眉が戸惑っていることを表している。頬や耳が赤いのが、嫌がっているわけではないことを教えてくれた。
流川は人に触れられ慣れていないのではないか。花道はそう感じた。
小さく開いた唇が酸素を求めて動くのを、花道は自分のもので止めた。肩がピクリと跳ねることにも、ぎこちなく動かされる舌にも、花道は夢中になった。
花道が二日酔いの頭を抱えながら目覚めたとき、ベッドには誰もいなかった。シーツに触れても、温かみもなかった。
「イテテ…」
それほどアルコール強くないが、ときには羽目を外してしまう。それはいろんなことにストレスを感じたときの、逃げ場の一つだった。
この半年、花道は言い寄ってくる女性に何も感じなくなっていた。頑張って話すよりも、流川とジュニアと一緒に過ごす方がいい。そういう思いが強くなってから、花道は女性と付き合わなくなったのだ。そしてこれが、最近の花道の大きな悩みだった。ずっと気になっていた相手に、そのせいでかえって目が集中してしまっていることが、自分でわかっているから。
そして、酔っても記憶は無くならない。花道は、ついにヤッてしまった、というのが本音だった。おそらく、ジュニアという防波堤がなくなったから。
「…どこ行ったンかな…」
花道は足を引きずるように歩き、バスルームに向かった。
横目に黒髪と細い首を見ながら、花道はトボトボと歩く。見たものを脳が理解したときは、シャワーの中だった。流川は、ソファに座っていた。
「ルカワ」
振り向きもしない流川は珍しくないけれど、取り付く島がないこともわかる。けれど、花道はめげなかった。自分の髪から落ちるしずくをメトロノームに、花道は告白する。
「ルカワ…その、俺ァ、ふざけてあんなことしねー」
ものすごく真摯で真面目な顔をしていたが、流川はもちろん見ていなかった。
それだけ言って水の中に戻った花道を思い返し、流川は目を細めた。嬉しいような情けないような、照れるだけのようなものすごく困るような、とても複雑な顔だった。流川には、花道が手慣れていることが妙に悲しかった。抱かれたことのショックよりもショックを受けていることに、自分のもろさを見た気がしたのだ。
今後、これっきりじゃなくなった方が困るかもしれない。流川は真剣に思った。
「…急すぎだよな…」
何の承諾も取っていなかったことに気付き、花道が青くなっていたことを、コートに出た流川は知らなかった。
昼過ぎに空腹で戻った流川は、しばらく玄関で躊躇っていた。夏の鋭い日差しの中、現実に入っていくことが出来ない感覚だった。ボールを胸に抱えてドアの前でいる姿は、ずっと昔の自分を思い出させた。
この自分が、と流川は自分でも不思議だった。ボールを抱えて花道の家まで歩いた。ゆっくりと階段を登り切った後、しばらく日差しの中に立っていた。躊躇う、ということをしたのは、それまでほとんどなかった。ドアベルを押すのに、指が震えたのを嫌でも覚えている。
流川は花道に関したとき、いろんな感情が溢れる。気になって気になって目が離せなかった。怒ったり笑ったり激しく変わる花道に、逆の方向につられた。人を好きになったは初めてで、アメリカに来るまでその想いがわからなかった。
自分の家なのに、流川はノックをしようと腕を伸ばした。それはデジャブだった。
けれど、ノックする前に、流川は部屋に引き入れられた。花道がその気配に気付いて、出迎えたから。
無言のまま、花道は流川を抱き寄せる。知っている匂いに包まれた流川は、恐怖は感じなかった。苦しいくらいの腕に巻かれ、流川はただ目を閉じた。
何がきっかけで変わってしまったのかわからないけれど、花道と流川は急接近した。
2003.10.5発行
2009.10.28UP
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