ROOTS



「今すぐではないけど、アメリカに行きたい」
 と言い出したジュニアに対し、流川と花道の反応は似ているようで違っていた。ただ戸惑いや寂しさは、同じだっただろう。ちょうどその日は、花道の誕生日だった。
 自分の体幹くらいしかなかった小さな存在が、今ではたいして目線の変わらない位置にいる。これがあのチビのジュニアだろうか、と花道はいつも思う。英語はもちろんのこと、日本語までかなり自由に扱い、理論で言い返されたりもする。どちらかというと、感情のままに動く花道と正反対だった。
「親って…こんな感じ…」
 花道は、自分のことを父親だと思ったことは、実はなかった。流川といたくて、正直にその通りにすると、ジュニアがいたというだけのこと。けれど、花道はジュニアを育て上げたとしっかり思っている。
「コーコーセーっつったら、もういっちょ前…」
「……そうか?」
 流川は渋い顔をする。息子の早い自立に戸惑う姿は、子離れできない親の典型だった。
「考えてみろよ…俺らが知り合った頃だぜ?」
 そう言われて、流川は自分の高校生時代を思い出す。そこには、花道がいてチームメイトがいる。けれど、親はあまり出てこない。アメリカ行きも、勝手に決めていた。
 流川は、肩で大きなため息をついた。
「………行かせてやるしかねーんじゃねーの」
「……おう」

 ジュニアは、自分が流川の本当の子ではないとずいぶん前から知っていた。血液型の話は覚えていなかったが、その後流川の型を知るキッカケがあったのだ。その頃、すでに互いの血液型が親子ではあり得ないものだとわかる年代だった。
 だからといって、ジュニアには何も変わらなかった。ショックを受けたのは事実だが、生まれたときから一緒だったし、アナベルは流川をジュニアの父として扱っていた。その記憶は、薄いけれど確かにある。
「まあ…俺は楓が好きだもんな…」
 そんな独り言を聞いた流川は、驚いて固まってしまう。改まって言ったことも言われたことはなかったから。
「…楓?」
「……おう」
「愛してるよ、お父さん」
 そう言いながらジュニアは流川に巻き付く。英語でならそれほど怒らない父は、日本語だと猛烈に照れた顔をする。その変化は、身近な人間にしか見分けられないだろう。
 流川は、小さく笑うジュニアの鼻をつまんだ。あまり目線も体格も変わらない息子は、流川には眩しかった。彼が失ったものを、若い息子はまだ持っている。これからそれを生かすことが出来るのだ。
 向かい合って立っていても、今ひとつ会話は弾まない。けれどそれは居心地悪いものではなかった。
「ジュニア」
「…ん?」
「アメリカに行く前に、父親に会っていくか?」
 戸棚からコップを取り出したジュニアは、その姿勢のまま硬直する。そんな話題は初めてなのに、流川は何の質問もしない。直球だった。
「……ダディ?」
 名前で呼ぶようになっているのに、驚いたり甘えたりするときはこの呼び名に戻る。流川にも、その違いはわかっていた。
「…知ってるんだろう? 彼は日本にいる」
「……そ…う、でも…」
 流川はそれ以上何も言わず、彼の勤め先と本名を書いたメモを渡した。
「お前が自分で考えろ、ジュニア」

 その血を受け継いでいる父にいつか会うかもしれない。その前に、ジュニアは父のこと、父のパートナーのことを知りたかった。それが、彼らの知り合いを訪ねた理由だった。ただ、こんなにも早くこの瞬間がやってくるとは思いも寄らなかった。
『ホントの父さん?……ピンと来ないな…』
 日本に移り住んでから、ジュニアは聞かれたくないことは英語で言う。確かに速すぎて誰も聴き取れなかっただろう。
 ジュニアは、もう一人の父に会いに行こうとしていた。

 その人が大学のバスケットボール部のコーチをしているのを知り、ジュニアはそこに潜り込む。この堂々とした態度は、花道に似ているらしい。
 広いキャンパス内でキョロキョロすることも出来ず、とにかく高い屋根があるだろう体育館を目指した。そのドアに近づくと、バッシュの音やかけ声が響いてきた。
 ジュニアの心拍は、跳ね上がった。
 しばらくすると、休憩時間となったらしく、部員たちは勢い良くドアを開け、ゾロゾロと水場に向かう。その汗くささが、少し懐かしかった。
 監督とおぼしき人物は、一人ではなかった。悩む前に、若い方がジュニアに声をかけた。その人は背が高く、細見で、父よりも少し年上に見えた。
「何か用かい?」
 ごく気さくな声だった。高校生の見学は珍しくなかったのもあるし、大きな試合前ではなかったからだろう。それでも、ジュニアは緊張した。
「えっと……俺は今度湘北高校に進学する予定で…」
「ああ、あの高校は公立だけど頑張っているよね。それで、見学に来たの?」
「あ……ハイ…」
 もじもじとするその少年に、若い監督は肩でため息をついた。
「いきなり失礼かもしれないけど、ずいぶん日本語がうまいんだね」
 ジュニアが顔を上げると、真正面からじっと見つめてくる。実は彼の方が誰かを思い起こしているなど、ジュニアにはわからなかった。
「あ、あの……アナベルを…アナベル・オーウェンをご存じですか?」
 監督も突拍子もないことを言われて驚いた。いやそれよりも、ちょうどその顔を思い出していたから、急に血圧が上がったのかもしれない。
「……知っているよ。素晴らしいWNBAの選手だった…惜しい人を亡くしたね…」
 その表現は、ジュニアには自分に対して言われたように聞こえた。アナベルがこの世にいないことを知っていたことが、ジュニアには嬉しかった。
「…素晴らしかったですか…?」
「会ったこともあるよ。俺は舞い上がったものさ。君は…どこか似ているね…」
 ジュニアはそれには答えず、黙ったまま先を促した。
「どこで?」
「…俺はずっと昔アメリカを目指したことがあった。そのときだよ…けど、日本でそれなりでも、あっちでは大したことはなかった。…会ったばかりの君に、俺は変な話をしてるな…」
 休憩時間とはいえ暇ではないはずの監督は、後頭部をポリポリとかいた。大学構内に見たこともない白人さんが現れて、興味が湧いたのだろうか。
「あの、もう一つ…流川楓を知ってますか?」
「…知っているよ、もちろん」
 それはどういう意味なのか。それ以上説明しなかったが、ジュニアの考えでは、NBAで活躍した日本人として、その前にアナベルの結婚相手として、また今も日本の実業団で現役でいることまで知っているかもしれない。そんな沈黙だった。
「あの、…俺、二人の子なんです」
「ああ…なるほど」
 素直に驚きを示し、その監督は「なるほど、なるほど」と何度も頷いた。
 ジュニアは、自分と似たところがないか、その顔を凝視した。
「君もバスケットをしているの?」
「…はい」
 会話が途切れたとき、体育館の中から号令がかかる。休憩時間は終わりだった。
「あ、練習だ。見学していくかい?」
「いえ…」
「…そう…じゃ、頑張ってね」
 何しに来て、なぜこんなに会話をしていたのか、監督にもわからなかった。これからの若い人材を励ますのは、自分に年齢を感じさせた。
「あの、田浦監督」
 静かだけれどはっきりした声で呼び止められ、監督は全身で振り返った。
「俺…俺は、マイケル・J・オーウェン。俺の名を覚えててください」
 それは、バスケットで名をあげる宣言のつもりだった。監督は片手を上げて、笑顔でその手を振った。
 爽やかな対応に、ジュニアは急に気が抜けた。大きな木のそばで、座り込むくらい。
「…アナベルは…人を見る目はある…かな」
 快晴の空に向かって、ジュニアは投げキッスを贈った。 



2003.10.5発行
2009.10.28UP
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