いい気分だから
きっといい気分でいた。桜木はいいものを見せた、と思っていただろうし、俺はいいものを見た、という気持ちだった。教わった、というのは決して口にはしないが、いい気分だったのは確かだ。だから、こんなこと言ってしまったんだ、と思う。
「…ルカワ。送ってやる」
これまで、そんなこと言わずに勝手に送っていたくせに、何やら嬉しそうな声で言う。この大雨の中をか? 何考えてんだどあほう…。
「いらねー」
俺の即答に、一瞬あっけに取られたようだが、またすぐに怒る。
「ぬっ? せっかくこの俺様が…」
「俺が行く」
どうしてコイツは、いついかなるときも優位に立とうとするのだろうか。わざとバカを言って、周囲を和ませているのかもしれないが、そうすると俺が「どあほう」というパターンに気が付いてないはずはねーんだが。
桜木のそんなバカなセリフを遮ると、しばらく理解に時間がかかったらしい。
「…え?」
「…俺が、てめーん家に行ってやる」
「……おめっ、このっ、エラそうにっ、でも、まぁ来たいっていうなら招待してやってもいいぞ?」
もの凄く、声がうわずっているのがわかり、俺は傘に隠れて小さく笑った。
桜木は、覚えてしまえば、付き合いやすいタイプかもしれない。別に仲良くしたいと思っているわけではないが。
ふとんに体を倒して、耳を澄ますと、やはり雨の音が一番大きかった。こないだ来たときも、雨だった気がする。あれから、まだ一週間くらいなのに、かなり日が経っている気もする。そういえば、考えもしなかったのだが、アイツはまた俺とする、のだろうか。
いつも必ず、というほど来ているわけではないが、俺を先に風呂に入れる。ドロドロだった服を脱ぎ、靴下は玄関で脱いだ。それを、桜木はさっさとバケツに入れて洗い始める。ガクランもズボンも、パッとハンガーに掛ける。おふくろみてー、なんて思ったことを口にしたら、コイツは怒るだろうか。冷えただろうからすぐに湯を張るな、というセリフは、保護者のような気がするんだが。おもしろいヤツだ。
桜木が、風呂から上がってきた。
「ルカワ、おめー、猫舌か?」
「…? なんだいきなり?」
「いやおめーが入った後は、お湯が温いんだ。でも沸かし直すのもなぁ…」
また主婦みたいなことを言う。そうだ、コイツは主婦って感じだ。一人で何もかもやっているからかもしれないが。確かに、俺は熱いお湯は苦手だ。
「…だったら、今度からはてめーが先に入れ」
「…いや、別に、冬じゃねぇし、かまわねーけどさ」
そう言って、台所で水を飲んでいる。言ってしまってから気が付いたのだが、俺はまた桜木の家で風呂に入るつもり、らしい。桜木は、壁に凭れてテレビを見ていた。俺は、寝っ転がって見るともなしに見ていた。
相変わらず、俺達に会話はない。雨とテレビのおかしな音以外、何にも聞こえない静かな部屋だった。「寝るか」
あくびをしながら、桜木が立ち上がる。そう言われたとき、すでに俺は半分眠っていた。その声で逆に起きた、という感じだった。
真っ暗にされた部屋で、桜木の動く音だけが聞こえていた。目を閉じてじっとしていると、落ち着いたらしいため息がもれ、本当に眠る体勢に入ったのだとわかった。それでも、何かアクションがあるかと待ってみる。どれだけ経っても、桜木は動かなかった。
「…どあほう?」
「…俺はどあほうじゃねー」
はっきりした声で答えてきた。眠りつつある、というわけではないらしい。
「おい、おめーが起きてるなんて、珍しいんじゃねぇ?」
そんなに、俺はコイツの前で眠っているのだろうか。まぁ少なくとも、ふとんに入って起きている、というのは珍しいと自分でも思う。それでもこう答える。
「んなことねー」
「…眠れねーんなら、なんか話でもするか?…っても、お前と何話すんだ?」
尋ねてきてるのか、自分に聞いているのか、桜木自身も困ったらしい。もっとも、聞かれても困る。俺にだってわからない。桜木と、何を話したらいいのか、俺も知らない。
それでも、俺より多くの人と接するコイツは、俺よりは会話出来る、だろう。
「ルカワ、おめー、猫好きか?」
俺は、ため息をついた。それが、会話のスタートになるのだろうか。
「…別に嫌いじゃねー」
「…俺は結構好きだ」
ほらみろ。これで終わりじゃねぇか。他になんかねーのか。真っ暗な中でも、桜木が上を向いているのがわかる。考え込んでいるのもわかった。
「…じゃぁ…犬は好きか?」
「………どあほう……」
この場合、俺でなくてもそう言ったんじゃないだろうか。日頃、水戸やバスケ部員と話すとき、てめーは何の話をしてるんだ。犬や猫は、一度聞いたら終わりだし、会話も続かないだろうが?
「ぬ? 眠いのに話しかけてやったのに!」
コイツは、この「してやってる」という言葉をよく使う。俺はこれがスキじゃねー。頼んでねーのに、勝手にしてるくせに、恩着せがましいんだ。どあほう。
「…ねみーなら寝ろ。どあほう」
桜木が、首をパッとこちらに向けた。見えないけど、たぶん睨んできてるんだろう。
「ふん。寝よ寝よ。ルカワと会話なんて永久に無理に決まってんだし」
一応、会話が成り立たなかったことはよくわかっているらしい、と呆れる。コイツはコイツなりに、努力したってことだろうか。…あれで?
それでも、俺は俺でやはり努力しなきゃなんねーんだろうか。バスケのことでもないのに。
「……オイ…」
「うるせー、俺は寝てるんだっ!」
寝てる奴が、返事するなよどあほう。かえって、眠ってしまっている方が、俺は口にしやすかった。でも寝てたら意味ねーか。
「………しねーのか…?」
「…え?」
俺は、自分がしたくて言ったわけではない、と自分に言い聞かせた。
驚いて固まった桜木は、すぐにその意味を理解したらしい。まだ固まったままだ。
コイツが行動を起こさないなら、言ってしまった俺が気まずいじゃねぇかどあほう…。
あまりの沈黙に、さっきのセリフを取り消したいと思ったとき、やっと桜木が口を動かした。
「……いいのか?」
「…どっちでも…」
いつも賑やかに走り回る巨体が、今日はノロノロと亀のような動きで俺に近づいた。ゆっくり時間をかけて俺を腕枕した桜木は、もう一度、今度は目だけで聞いてきた。
「…ルカワ?」
「……俺はやり方しらねーからな」
「おめーは、何もしなくていい」
低い小さな声は、すでにその気だと匂わせていた。覆い被さって触れてくる唇が、なぜか懐かしい感じがした。一度しているのなら、何度しても同じだ、くらいの気持ちで俺は目を閉じた。
2000.10.2 キリコ