赤頭の手
「桜木くんって、シュート上手くなったよねぇ」
桑田が言う。他の部員も頷いている。
「どうやってあんな短期間で上達出来るのかなぁ」
ド素人だから、上達も目に見えるだけだろ。
「…部活以外でも練習してるとか…」
アイツがそんなタマか…。いや、確かにやっているのを見たことはあったな。ウチのマネージャーと。
「…やっぱりさぁ…、持って産まれた才能なのかなぁ…」
「う〜ん、それもあるだろうねぇ」
桑田が腕組みをして大きく頷く。そんなとこに感心してるんじゃねぇ。
「あとさ、俺達と大きく違うのって、あの手だよね」
手の違い…?
「手?」
「桜木くんの手って、大きくってしっかりしてる。ボールも掴めるくらい」
そうだね、と言いつつ、お互いを手を見せ合っている。
「あっ、流川くん…」
俺の無意識のため息が聞こえたのだろう、突然手を取り合って一歩後ずさった。俺はそんなに怖ぇーんだろうか。別に何も言ってねぇのに。
「流川くんも、もう終わり…?」
俺は休憩しに来ただけだ。普通に話しかけられ、コイツらがただ驚いただけだと気付く。座っている俺の横に座り込み、俺に話しかけてきた。
「流川くんの手も大きいよねぇ」
膝の上に放り投げだしていた手を見つめながら呟いた。俺の手、「も」、だと。人の手をマジマジと見たことなどなかった。
しかし、アイツの手はよく覚えている。常に思い出すわけではないが、ボールを掴む手を見るたびに何となく頭をよぎる。
大きくて、熱くて、いや熱があったからかもしんねーが、力強い。まぁ男の手だ。
俺も大きい、と評されたが、どうだろう。確かに小さくはねー。ボールも掴める。
でも、とすぐ付いてくる。
そうだ。アイツの方が大きい、と思う。
比べたことねーけど。誰もいなくなったコートに桜木が立てる音だけが響く。アイツのシュートを見つめていると、やはり手に目が行く。
時々悔しそうに呟きながら、何度も同じことを繰り返している。今日は指摘してくれる相手がいないんだろう、一人でブツブツ言いながらやっている。ボールを顔の前に持ってきて、両手で挟んでいるその姿は、頼りない、気がする。やっぱ初心者だ。
ゴンっと、シュート出来たときには聞こえるはずはない音が聞こえ、またアイツが呻る。本当に悔しそうだ。自分ではバカだから、わかんねーんだろう。
「この肘だ」
桜木が驚いて振り向く。俺も驚いている。
気が付いたら、俺は桜木の横にいて、その肘を掴んでいた。
「…なにっ?」
俺のせっかくのアドバイスを素直に受けそうにないコイツは、俺の手を掴んできた。俺の右手がコイツの左肘を掴み、その手首を右手で掴んできた。痛いほど握られ、強くて大きくて、浮き出ているのは指の付け根の骨で、筋も通っていて、なるほど男の手だ、と思う。しばらくじっと見てしまっていたらしい。視線を落としたままの俺を、アイツが下からのぞき込んできた。
「…ルカワ?」
はっと気が付いて顔を上げると、お約束のように顔面にぶつかった。別にわざとじゃねーが、鼻を打ったようなので、痛かっただろうとため息が出る。
そのため息に反応したかのように、予想通りこぶしが飛んでくる。俺の右腕には、コイツが掴んでいた後が残っているようで、痛いような熱いような。そして、意識がそこに集中していたために、避けられるはずのものをまともに受けてしまった。
ガツンという音が自分から出たのだと瞬時に思ったが、どこから出たのかよくわからない。殴り合いが初めてなわけでもなく、怪我をするのもしょっちゅうだった俺が、全く避けることを忘れていた。この右手の手首に残った感覚のせいで、か?
気が付くと、俺の目線には体育館の床があり、自分が倒れていることがわかる。一瞬だけだと思ったのだが、額が冷たい。視界の端に白い物が見える。タオルだ、とわかった。
と、いうことは、桜木が冷やしたタオルを俺の頭に乗っけたってことか。無意識に、またため息が出た。
「ルカワ?」
意外と近くで小さな声が聞こえた。目線だけで返事をすると桜木のホッとしたため息が聞こえた。
「何だよ、ちょーし悪ぃんか? これっくらいで倒れるガラかよ?」
いばった風に言う。でもいつもよりエラそうでもなく、少し遠慮がちだ。さすがに殴った方が悪い、と思っているらしい。えらく殊勝じゃねぇか。
コイツは、ずっと俺のそばにいたんだろうか。まぁそうだろう。罪の意識がそうさせたにしろ、気分悪く目覚めたとき、人がいるってのはこんな感じなのか、と妙に素直に思った。たとえ相手がコイツでも、たった一人よりもマシだ。いや一人で練習していたなら怪我するはずなかったんだが。
コイツも、風邪引いたとき、そう感じただろうか。
桜木が、俺のタオルの上に手を乗せた。
「…頭、だいじょーぶか?」
コイツらしい聞き方だ。いつもより、本当に声が小さく聞こえる。俺の耳がおかしいんじゃねー。マジでコイツなりに気ぃ遣ってるんだろう。それはガラじゃねぇと思うが。要するに、意外だ、と感じたわけだ。いや、それとも、俺が知らなかっただけなのだろうか。
「…この手だ」
思わず口にしてしまい、取り消しできねーかと思ったが、桜木は「えっ?」と耳を寄せてきただけだった。聞こえなかったのならそれでいい。
額から頭のてっぺんにかかる大きな手は、風邪じゃなくても熱く、俺の頭ごと掴まれている気分だった。俺の頭はボールじゃねー。俺のそばで胡座をかいた、すね毛の男の足なぞ見たくもなく目を閉じると、俺の意識はその頭に集中した。タオルを通しても伝わりそうな何かを感じ、じっと動かずにいる。ふっと静かに離されたその手を追いかけて、俺の右手は勝手に動く。掴んだ手から、コイツが驚いたことが伝わったが、俺自身も驚いていた。桜木といると、自分の行動に驚かされることばかりだ。
いつだったかの、静かな夜のように、右手を重ねてみる。
比べ合っているわけではないので、やはりどちらが大きいかわからない。
頭の上で、ため息が聞こえた。
しばらく、そのまま動かずにいた。
後から気が付いたが、外は雪が降っていて寒かった。
俺は、気分が悪く、寒く、少しは心細かったから、手を握ってしまったんだ、と自分に言い訳した。責任を感じているらしい桜木は、俺を送ると言い張り、勝手に自転車を押して歩く。何度「いらねー」と言っても聴かなかった。頑固な奴だ。
二人でいても話すことなどなく、ただ黙々と雪の中を歩く。コイツと並んで歩くのは、初めてじゃないだろうか。別に歩きたいとは思ってねーが。
時々道が狭くて、俺は桜木の後ろを付いて行く。ガクランの真っ黒と暗い道が溶け合って、でも真っ赤な頭は目印になっていいかも、と心の中で呟いた。赤鼻のトナカイならぬ、赤頭か。サンタはコイツを雇うだろうか。
「…さみーな」
一度だけ、桜木は振り返った。きっと沈黙に耐えられないタイプなんだろう。「ああ」と短く答えた。
「雪だもんな」
そういって、空の上を見上げると、吐き出された息が白く浮き出る。こんなこと、今まで観察したことはなかった。今日、初めて冬を体験している気分だった。「じゃあ」
ありがとうと言うのも変に思い、やっぱりまともな会話もなく家の前で別れる。俺はさっさと背を向けて、暖かい家の中に入ろうとした。
「…肘だな」
振り返ったときには、桜木の背中しか見えなかった。
2000.9.24 キリコ