Fox&Monkey
保健室でほぼ一日を終えたその次の日になっても、流川はまだぼんやりとしたままだった。授業に座っているけれど、寝ているのか起きているのかもわからない。クラスメイトはいつもと少し違う流川にどう対応していいのかわからなかった。そんな雰囲気に、当の流川はもちろん気づいていない。彼にも周囲を見渡す余裕がなかった。
待ち遠しかったお昼休みに、流川はマフラー片手に屋上に上がった。まだ寒い2月だけれど、火照った頬を冷ますにはいいと思った。そして、ここならば誰も来ないと考えたから。
「あ…メシ…」
ぼんやりとしたままでも習慣で早弁をした。けれど、お昼休みに食べるべきものを、持ってくるのを忘れたのだ。
「…めんどくせー」
体のだるさが取れなくて、流川は手すりにもたれて座り込んだ。
遠慮なく当たる風は冷たくて、あごをマフラーに埋め、両手を脇の下にしまい込む。目を細めると、青い空だけは心地よく見えた。
一昨日の夜のことを何度も思い返してしまう。そのたびに、顔が熱くなる。そういえば傍目にはどのように見えているのか、そんなことを今頃心配し始めた。
「…スキ」
小さな声で、流川は言葉にした。
そうでなければ、自分があんなことを許すはずもなければ、それ以前に殴りかかっていただろう。そもそもこの一年、ずっと近くにいたではないか。
触れ合うのは嫌ではない。むしろ、もっとと思う自分がいる。
バスケット以外のもので、何かに執着するのは初めてだった。
そのことに、流川は戸惑っていた。
執着しているはずなのに、花道が自分をどう思っているのかまでは確かめられずにいる。そんな自分は、いつもの潔い自分とは違うと思う。こんな躊躇いを知るとは思ってもいなかった。人を好きになるのが、こんなにも苦しいことだと想像したこともなかった。
これ以降、流川は告白してくる女の子たちに、これまでよりは真摯な態度を取ることになる。
それから数日の間、部活の間ですら二人はうまく会話できないでいた。元々そんな感じだったが、部員の誰もが変と思うくらい、ギクシャクしていたのである。
「ル…カワ、その、キツかったら…」
その小さな声かけに、流川は目尻だけを赤くする。花道にしか見えない程度の変化だけれど、いつもの毒舌が出てこないのだ。
「……へーき」
「…そ、そっか…」
そして、流川は離れる前に長い足を花道にぶつけた。
そんなことが毎日繰り返されると、さすがに不気味でもあった。二人が一年生の頃から見てきた面々を驚愕させるには十分で、首を傾げ、顔を見合わせるのも無理はない。
けれど、桜木軍団は、ただじっと二人を見つめるだけだった。「よう…やってるな」
「…三井先輩?」
ふらりと体育館の入り口に現れたかつての先輩に、晴子は驚いた。けれど、すぐに笑顔で迎え入れる。気づいた後輩たちも、浮き足だった。それくらい、三井は憧れのプレーヤーということなのだろう。
「のんびり練習できるのも、今のうちだもんな」
「…どうしてですか?」
「新入部員が入ってくるだろ? 桜木みたいのが入ってきてみろ…大変だぞ、マネージャー」
晴子はその言い方に笑った。
「でも…桜木くんみたいな人だったら、また急成長して、救世主になってくれます」
「…桜木が救世主ってタマか…」
三井は大げさに肩をすくめた。
「ミッチー、ヒマなのか?」
受け取ったタオルを手に、花道は親しい先輩に駆け寄った。けれど、口調は相変わらず失礼の部類に入っている。
「…テメー、大学生に向かって…」
「だってこないだだって飲み会…」
「飲み会?」
晴子の相打ちに、花道は突然真っ赤になって固まった。
「あ…いや、そのこないだ…ちょっと…」
「…バァーカ」
三井は知っている事情の中だけで想像していた。花道が照れたのは、もっと別のことを思い浮かべたからだった。
大学生の長い春休みを、三井は実家で過ごすことにしていた。だから、ちょくちょく母校に通うことになった。三井のちょっとした指導は、的確で無駄がなかった。晴子は、そのことを自分の兄に伝えた。
「先輩…」
「…おう…流川」
三井はデジャブを感じた。かつて、こんな風に声をかけられたことがある。
「オメーも、また切れが鋭くなったな。背は伸びたか?」
自分よりも背の高い後輩を見上げて、三井はからかうように笑った。
「…1センチ」
「もう成長は止まったのか」
自分ももう伸びないらしい。そんなことを考えながら、相変わらず無口な後輩が口を開くのを待った。
小休憩で水を飲んだ流川は、三井の方を見ながら、なぜか躊躇っているらしい。
「流川…なんか用だったんじゃねぇの?」
先輩らしく、三井はきっかけを作った。
「……ウス」
「あんだよ、金以外の頼みなら、だいたい聞いてやる。聞くだけかもしんねーけどよ」
「…先輩なら、知ってる…と思う」
「……何を?」
大きく深呼吸した流川が自分の手を握りしめていることに、三井は気づいた。そんな流川を見るのは、初めてだった。
「こないだのビデオ…とか、本でもいーっす」
「………はっ?」
まさか、そんな話題だと思わなかった三井は、思いっきり目を開いた。そして、眠っていたはずの後輩が知っているという事実にも、ダブルで驚いていた。
「後ろ…のやり方、知りたいんす」
「………へっ?」
この整った顔が発した言葉だろうか。三井は乾きかけた目を何度も瞬きした。演技ではなく、手で自分の眼をこすり、相手が本当に流川か何度も確かめた。当の流川は、だんだん落ち着いてきて、自分の説明の補足しようとする。
「…あの、アナル…」
「わーーっかった! そんな単語口に出すんじゃねぇ!」
日が落ちたとはいえ、学校の中で、とんでもないことを言われ、三井の方が照れ始めた。まして、相手はあの流川だったから。
返事に困ったけれど、からかう余裕はなかった。流川の眼は、どうみても真剣だった。
「わ…わかった。今度…な」
「……ウス」
言葉の機微を理解しにくい流川でも、三井の返事の意味はわかった。
無表情のままだけれど、口調だけは満足したらしい。そんな背中を見送って、三井はため息をついた。
少し冷静になってから、三井は体育館に入りかけた流川を慌てて呼び止めた。ふと浮かんだ疑問を、どうしても解きたかった。
「る、流川!」
呼ばれた方は、もうバスケットに向かっていて、首だけで振り返った。
「お、まえ……まさか…したことあんのか…?」
今度は、やはり流川には理解できなかった。抽象的な質問は無理らしい。
「その………セックス」
ほとんど唇の動きだけで、三井はそう言った。そして、その時の後輩の反応は、もしかしたら一生忘れないかも、と思った。
流川は、眼を泳がせて、少し頬を染めた。花道がそう言うのだから、あれはそうなんだろうとまた確認してしまった。けれど、少し自信なさげに、流川は首を縦に振った。
三井は、しばらく固まったように、1ミリも動けなかった。