Fox&Monkey
春休みのど真ん中、その年の4月1日は、湘北バスケット部の七不思議として伝承されるかもしれない。すでに卒業した三井や現役部員たち、マネージャーですら、心の中でそう思った。それくらい、異様な部活動となった。
その日の見学者は多かった。とはいっても、三井の他、桜木軍団が揃っていただけなので、特に珍しいものではない。部活開始時間に全員集合し、いつも通りのメニューをこなす。最初は、花道の号令がやや小さいかと感じられたくらいだった。
ところが。
「桜木くん?」
「桜木?」
「…花道…オイ」
ワンテンポずつずれた呼びかけが、体育館にこだました。誰もが驚くくらいの出血が、花道の顔面から吹き出したからである。部員もその声に行動を止め、周囲の目線をたどる。その先には、押さえきれない血をスプラッタ状にしたキャプテンの顔があった。
さすがの花道も目を見開いていた。ボールがぶつかったわけでもなく、この気候でのぼせるはずもなかった。まして、休憩中のことだったから、周りの驚きも大きかった。
「あんだよ、桜木? ちょーし悪ぃんか?」
れいによって後輩の指導にきていた三井は、笑いながら花道のそばに寄る。その明るい口調で、固まったままの時間が動き出した。
「え…えーっと…」
焦る花道は当然まともに返事もできない。ますます耳や頬が赤くなるのが、誰の目にも明らかだった。
「三井サン、あとは俺らが引き受けます」
ため息をつきながら、洋平は三井に申し出る。三井も同じようなため息を返し、部員に号令をかけた。
「おう、ただの鼻血だ。オメーらは休憩終わり」
キャプテン代理の三井の号令は、本来なら副キャプテンの仕事だったろう。そのときその任にあたるべき人物の行動を、部員の誰一人思い出せなかった。けれど、それからが、もっとおかしかったのだ。
「流川、大丈夫か?」
「……先輩…」
三井は、部活途中で消えた流川を校門で待っていた。もっとも流川は文字通り消えたのではなく、ちゃんと行き先を言っていたし、それは三井もわかっている。
体育館が堂々と使える時間帯にグランドへランニングに出た流川の行動は、誰の目にも奇異に映った。実際、流川自身がまともではないと自分で思ったのだ。
自分を待っていた三井が問いただそうとしているのは、鈍い流川でもわかる。けれど、今は誰とも会いたくなかった。
「…ったく、何なんだよ、オメーら」
流川は俯いたまま、ただ半歩後ろからついてくる三井の言葉を聞いていた。
「桜木が鼻血ってのは珍しくねぇが、その後復活できないくらい、ってのが変だよな? それとも最近あんななのか?」
「……さー」
「ま、アイツは水戸たちが連れて帰ったし、まあ大丈夫だろうけど…流川?」
流川は立ち止まって、少しだけ振り返った。
「お前はどうしちまったんだよ?」
その口調には少し責めが入っている。主将副主将が二人揃って不在となると、部活動は成り立ちにくい。まじめな部員と尊敬される先輩がいたために、無事に終わったのだ。けれど、湘北の要ともいえる二人が同時に調子が狂ったということに、違和感を残したままだった。三井には、流川が責任を放棄したようにしか思えなかった。
「…すまねース」
首をぺこりと下げて、流川は三井に謝った。予想外のことで、流川の頭頂部をみつめたまま、三井は動けなかった。
「あ、や、ま、なんだな…マジメな部員ばっかだしよ…」
殊勝な流川に、三井は大きく動揺した。流川が言えないでいる理由も知らず、三井はこの無愛想な男にも調子が出ない日もあるのだろうかと首を傾げた。その日は、流川にとってもワーストから数えた方が早い日だっただろう。これほど情けないと思ったことはない。自分をコントロールしきれない自分自身に苛立った。
花道が倒れたとき、流川にだけは花道の頭の中が見えた気がしたのだ。
いつもなら一緒に登校する。それもしなかっただけでなく、部活中も一度も目を合わせなかった。一人で着替えているときでさえ、流川の心拍は跳ね上がった。熱く感じる頬を、冷たい水に何度も当てた。突然告白された流川がそんな状態なのだ。突然「好き」という気持ちに目覚めた花道の戸惑いは、それ以上のものだっただろう。ボールに触れている間は思い出さずに済んでいたのに、花道の様子が今度は忘れられなくさせてしまった。流川のシュートはいつもより外れ、動きがやや鈍いものになってしまった。それが嫌で、流川はコートから出たのだ。
こんな小さな事件が、自分のバスケットを狂わせると思わなかった。それが悔しくて、流川はひたすら走った。一人になりたかった。忘れようと思ったけれど、花道の言葉は頭から離れなかった。