テレパシー
流川が突っ張っている両腕を曲げ始めたら、終わりが近い合図だった。一生懸命花道を押し返そうとしているのだろうけれど、下半身は密着させたままだ。そうしながらお互い射精するのだから。
声を出すまいとしているのがわかる。きっと自分もそうだろうと花道は思う。けれど、荒い呼吸や喘ぎ声に近い鼻息は、どうやっても伝わってしまうのだ。
「…ン!」
流川は歯を食いしばりながら、掴んでいた花道の肩に自分の口元を乗せる。その腕は決して花道の肩から後へは行かない。抱きしめ合うことはない。それでも射精時にはかなり体が密着してしまう。花道も声を抑えようと、流川の肩口に顔を押し当てるからだ。
少しでも早く呼吸を整えようとしているとき、流川がゆっくりと顔を仰け反らせる。まだ息が荒いまま、ゴクリと唾を飲み込むのだ。それをきっかけに、花道はお互いの体を離すようにしている。黙々とそれぞれがティッシュで情欲をぬぐい去り、流川は暗いままの部屋から洗面所へ向かう。花道が入れ替わりに手を洗っている間に、流川は無言のまま帰っていく。
こんな習慣がついて、そろそろ3ヶ月になるところだった。
最初の日を迎えるきっかけは、1枚の写真だった。
花道はある日の朝、新聞部に向かっていた。
インターハイでの怪我を乗り越えバスケ部に戻った花道の、最初の練習試合だった。校内の新聞部がニュースの題材にと取材に来て、高校生が持つには大きいカメラを持参していた。試合に圧勝し、花道は自分の復活を実感できたし、当然自分が大きく目立つ内容だと思っていた。
ところが、朝校門で受け取った1枚新聞で、一番目立っていたのは流川だった。
内容は花道についても書かれていたが、1枚しかない写真の中央を飾っていたのは、試合に勝った直後で嬉しそうな笑顔の流川だったのだ。白黒印刷とはいえ、誰の目にもはっきりとわかる。確かに花道もすぐ隣に写っている。大興奮したのを覚えているし、満面の笑みだった。けれど、その顔は左側のチームメイトの腕に半分隠れてしまっている。誰を新聞の主役にしようとしたか、明らかだった。「テメーら!どういうつもりだ!」
花道の怒鳴り込みに恐怖を感じながらも、新聞部2年生は毅然と対応した。花道のこともしっかり記載しているから約束違反ではない。流川が中央なのはたまたまそう写っただけで、いずれの写真も花道の表情は隠れてしまっていた。だからこれを起用したのだと。
花道にはついに言えなかったが、この新聞は女子生徒に人気を呼び、新聞部発祥以来の大にぎわいだった。当然のように、原本を欲しがる話もたくさん出たので、ネガから起こし、ブロマイドとして発売すれば、部費も潤うのではないかと計算し始めたところだった。
しかし、結局このネガも現像した写真も、すべて花道に奪われてしまった。
報道カメラマンとしては、何があっても自分の撮影したものを渡すつもりはなかった。けれど、腕力で来られ、どうにもならなかった。悔しい気持ちと、もっと早くたくさん現像しておくべきだったという気持ちで、部員全員涙した。その後女子生徒たちに随分と恨まれたのだった。花道は、現像された写真全部に目を通した。
望遠レンズがあるとプロではなくてもここまで写るのか、と驚いた。試合中の自分の顔やチームメイト、そしてベンチの様子がわかる。試合終了ブザーが鳴った瞬間の写真は枚数が多かった。全体的に、流川が中心に来る写真が多い。結局はずっと流川を追っていたのだろうと憤慨する。試合中も試合後も、流川は確かに格好良かった。
それにしても。
「あのキツネ……笑えるのか…」
新聞に載っていた写真である。円陣を組むかのように、嬉しくてみんなが集まっているところだった。お互いの背中や肩を寄せ合って、喜びを分かち合うところだ。花道は、たまたまだと自分で思うけれど、流川の隣にいた。けれど、流川の笑顔は見た記憶がない。そして、誰もがほぼ目を開けていない様子も写真からわかった。
笑顔の写真のもう一枚前では、流川の左腕が花道の肩を捕まえようとしているところだった。その腕が流川だったことも気付いていなかった。すべてが一瞬のことだからわからなかった。花道の顔は会心の笑顔で、少しだけ流川の方に首を傾けている。横顔がはっきりと写っているし、見方によっては、流川と花道が寄り添って笑っているように見えるだろう。もちろん、花道の左側のチームメイトが、同じように背中に腕を回しているのだけれど。
「あれ…ルカワだったのか」
特別なことではない。誰かが誰かの肩を抱いただけなのだ。
そう思うけれど、なぜだか花道はドキドキする気持ちが止まらなかった。なぜこんなに嬉しいのだろう。あの長く苦しいリハビリを乗り越え、そしてチームメイトとして一緒に試合に臨むことが出来た。同じユニフォームをまた着られたのだ。
自分が泣きそうになるくらい感動したときに、流川もそう感じてくれたような気がしたのだ。
「ま……あるわけないか」
わざとらしいため息をついた後も、花道は写真から目が離せないでいた。入院中、たくさんのお見舞いがあった。チームメイトだけではなく、神奈川の他校のライバルたちも訪れていた。怪我をしてフラフラだった花道の健闘を見ていた海南だけでなく、陵南からは魚住、仙道や彦一も来てくれた。
そしてその彦一に勧められたのが、日記のような記録、思ったことを何でも書く、教わったこと、出来るようになったことなどを記載しておくノートだった。彦一は記録はマメで、観察力も記述力もあると思う。けれど、花道は日記もつけたことがなければ、思ったことは口にして忘れるタイプだったから、笑って断ったのだ。けれど、入院中の苦しい気持ちはリアルタイムでしか書けない、という言葉に心が動き、書きたいことだけを書くというノートにした。ごく普通の大学ノートで、表紙や日付などを書くアドバイス付きだった。
「どーせなら、カギ付きのヤツくれよなァ」
病院の中で、誰にも見られずにいるにはそれが一番簡単だった。けれどきっとすぐにカギを無くしてしまうことも想像がついた。花道は、授業のノートはほとんど白いのに、このノートだけは細々と書き続けた。
高校に入学できてからのこと。バスケットボールに出会うきっかけ、赤木との決闘、練習から逃げ出した自分など、思い出せる限り書いてみた。ただそれは非常に短い文章で、あくまでも花道の頭の中で広がるような、そんなヒントだけだった。
「シュート練習始めたのは……いつだっけ」
日にちは覚えていない。そんなことは重要ではないのだ。ただ、自分が毎日少しずつ教えられたことを練習し、体得した成果を試合で出せたこと。晴子に言われた初めてのダンクの日。自分のミスで負けた試合のことや坊主頭になったこと。インターハイに出場し、山王という覇者を倒したこと。怪我をしたときの気持ち。
入院中、怒濤の5ヶ月のことを振り返っていた。
どのシーンにも、流川はいた。けれど、流川のことは「キツネ」としか書いていない。誰に見せるでもない日記に嘘を書く必要はなかったが、負けを認めるのが悔しくて、流川に勝負をふっかけた自分などについては、ノートに書かなかった。
そんなノートの表紙の裏に、流川の笑顔の写真と、自分の肩を引き寄せようとする流川の写真を貼った。ノートを開くたびに、必ず見えるように。