テレパシー
花道はお盆休みをぼんやりと過ごしてしまった。部活は休みでも自主練習しようと思う。予定していたのに、なんとなく体が動かない。日が落ちてからランニングに出た。それだけだった。
結局、流川に声をかけないままだった。アメリカ行きを聞いてから、いろいろなことにイラついて、何も手に付かなかった。部活のない日も、なんとなくコートに行けば、自然と流川と会えていた。そのまま部屋に来てビデオを観て、一緒に走っていたのに。それができなくなっている現実に、まだついていけなかった。
「もー行ったんかな…」
そう考えると、それもショックだった。自分は、部員の中では一番近い存在だったと思っていた。
お盆があけて部活が始まると、いつものように体育館に向かう。けれど、流川のロッカーは空いたままだし、もちろん部活にもいない。自分のかけ声で何もかもがスタートする。指示される立場ではなく、する立場になったのだ。そして、そこに頼もしい男はいない。
夏休み後半の部活が始まって3日目に、花道は居残り練習を再開した。けれど、そこには一人で、ボールの音も一つしか響かない。
「なんか…チガウ…」
これは自分の知っているバスケットではない。チームメイトも全員知っている顔なのに、なぜだか突然馴染めなくなった気がする。
次の日、晴子がみんなに写真を配った。
「フラッシュあったから、ちょっと色が変よね」
明るい言葉を付け足したけれど、それが乾いたものだと花道にはわかる。
花道は初めてその写真を見て、自分はこんな顔だったんだなと客観的に見る。隣に写る流川は、あまり見たことのないような表情をしていた。
「桜木君の写真だけ、流川君楽しそう」
晴子が小さく笑ったので、花道はホッとした。けれど、その言葉には今ひとつ納得できなかった。
「これ…いたずら始めますって顔じゃないですか」
「……そうかなぁ」
ほんの少し唇を突き出して、ピースをしている。そんな流川は見たことがない。自分の肩をギュッと掴んで、ちゃんとカメラ目線だった。そして、動揺していた自分は流川の方を向いている。嫌がっていたはずなのに、流川の背中に腕を伸ばしていた。
「もう…アメリカ行っちゃったんだろうね…」
体育館の天井を見上げる晴子に、花道は何も言えなかった。
やっぱりもういないのか、とただ再確認した。もう一週間もすれば2学期が始まる。夏休みの宿題なぞくそくらえだ、と放置していた。これからは主将として後輩に模範を示せ、と言われても、自分らしくないことはなかなか出来なかった。
ぼんやりと花道は山王戦のビデオを観始めた。この試合の自分が、やはり栄光時代だったと思うのだ。リハビリを終えたあとも、もちろんいつでも全力で取り組んでいた。けれど、この試合が一番胸が熱くなる。たぶん流川が自分を認めてくれた瞬間だったから、と自分でも思う。
けれど、流川の3倍練習できないでいる間に、流川はさっさとアメリカへ行ってしまった。また技術の差がついてしまうのだろうか。いつからアメリカへの準備を始めていたのか。自分は全く知らなかった。流川も話さなかった。
「いや…まぁわかってたけどよ…」
流川がアメリカへ行くことは、宮城が言った通り、何も驚くことではないのだ。わかっていたけれど。
話してもらえるほど親しい間柄ではなかったということか。
試合に集中できないでいる間も、ビデオは先へ進んで後半に入っていた。
そのとき、玄関のベルが鳴った。
こんな風に鳴ることは少ない。桜木軍団ならば強めのノックだから。
「夜だけど…新聞勧誘かな…」
花道はビデオを一時停止して、ゆっくり立ち上がった。
無言でドアを開けると、そこに流川が立っていた。実は、ほんの少しだけ期待していた。流川がベルを押したことは数少ないけれど、流川だったらいいな、と思ったのだ。まだアメリカに行ってなくて、自分にだけこっそり会いに来る彼を想像し、誰にも話せない優越感を味わう妄想だった。
けれど、目の前にいる流川は本物だった。
ここに来るときはいつもジャージか制服だった。けれど、見たこともないTシャツとジーンズで、小さな鞄を斜め掛けしている。こんな流川は、見たことがなかった。
「桜木…?」
いつまでもドアを持ったまま焦点の合わない目をしている花道に、流川は戸惑った。こんな風に夜に訪れるのは初めてで、流川も内心落ち着かないでいたから。花道は無言のままスペースを空ける。流川もそれ以上何も言わないまま、玄関に入った。
背中に花道の視線を感じる。きっと目を見開いたままだろう。そして、問いつめるような口元をしているに違いない。
「あの……ルカワ?」
まだ玄関に立ったままの花道が、小さく問いかける。たくさん聞きたそうなのに、言葉が続かない様子だった。
流川は振り返りながら、手に持っていた荷物を少し高く上げた。
「これ…渡そうと思って」
「……は?」
やっと流川のそばまで来て、花道はその紙袋を受け取った。
「な、なにこれ…」
「…ビデオ」
紙袋を上から見れば、それがビデオだとすぐにわかった。何のビデオか想像ついたけれど、1本取り出してラベルを見た。紙袋の音が聞こえる方がなぜか安心して、すべてのビデオを1本ずつ確認した。
「…これって…」
「観たことあるのとないの、ある。貸してやる」
「…へ?」
貸すということはどういうことだろう。もうアメリカに行ってしまう男に物を借りても、いつ返せというのだろうか。流川の考えがわからないけれど、押し問答する気力がでなかった。そして、ビデオ自体はやはりありがたいので、黙って受け取ることにした。
会えないのだから、返しようがない。これはつまり貰ってしまえばいい。花道はそう考えた。
そのまま流川は花道の部屋に入っていった。すぐに帰ってしまうのではないかと不安だったし、またなぜか期待していた。なぜこんなに流川に会うのがつらく感じるのだろう。やっといなくなったことに慣れていこうと決めたときに本人が現れて、また一からやり直さなければならないからかもしれない。
流川は一時停止されたビデオを観て、すぐにそれが山王戦だと気が付いた。
「山王の、観てんの」
「…お…おお…」
花道がたまにその試合を観ていることを知っていた。同じビデオも振り返りになるが、たぶんそれ以外の理由で観ているのだと、流川にもわかっていた。
再生ボタンを押すと、後半戦で、もうすぐ花道が怪我をするあたりだった。
ようやくいつもの定位置に座った流川は、小さな声で話し始めた。
「このケガ……思ったよりひどかった…」
花道も慌てて座った。
「お…おお…そうか?」
「…テメーは何ヶ月もリハビリしてたじゃねぇか」
たった一年前のことだけれど、花道は何ヶ月、ということがわからなかった。動けなくて苦しくて、バスケットができない日々は辛かった。けれど、いったい自分は何日、何週間入院していたのだろうか。
「…うん…でもまあ…後悔はねぇよ」
軽い口調で答えた花道に、流川は問い続けた。
「本当に?」
「……なにが?」
「あの後、バスケできなかった。愛和戦にも出れなかった」
「うん……そうだな」
自分の方を向いた流川が珍しく真剣な表情をしていて、花道は不思議な気がした。こんなにも自分に真面目に会話してくれるのは、もしかしてこれが初めてではないだろうか。
「山王戦……最後、出なきゃ良かった…って思ったりしねぇ?」
そんな質問は、誰もしてこなかった。たぶん遠慮して。
花道は両目を大きく開いた。
「な…なんで、そんなこと聞く…?」
問いに問いで返されて、流川はまたテレビの方を向いた。
「オレ……あのとき、止めなかった」
「お……うん…そうだな」
流川は何が言いたいのだろうか。聞き出したくて、花道は言葉少なく返事をした。
「みんな止めてた…けど、オレは止めなかった」
もしかして、そのことを後悔しているのだろうか。あの流川が。
花道は洗いざらしの髪をガシガシと擦った。うまく伝えられるか自信がなかった。
「あのなぁルカワ…」
「……なんだ…」
「その…オレぁ、オメーに感謝してる」
聞き慣れない言葉に、流川はまた花道の顔を見た。
「オメーの言う通り、みんな…オヤジも、出るなって……けど、オメーだけが出ろって言ってくれた。オレの気持ちわかってンの、コイツだけだな…ってあん時は思った」
少し照れ笑いする花道の顔を、流川は黙ったままじっと見つめた。
今の花道は、たぶん本心を言っている。取り繕ったり、相手の気持ちを軽くしようと嘘をついている風には見えなかった。
「…うん…出たがってたな…」
あのときの流れを変えたくなかった、と花道はうまく説明できなかった。これまでの試合で誰もが怪我してもコートに戻って来ていた。そして、自分はまだやれる、と思いたかった。
「オレは…勝ちたかったから、出ろって言った」
「はぁ? 当たり前だろ? オレだってそうだから出たんだっつーの」
流川が気にしていることが花道にはあまりわからない。けれど、何も気に病むことはないのだと答えたつもりだった。
だいぶ経ってから、流川が「そっか」と肩の力が抜けたのがわかった。