テレパシー
花道は夢の中で流川を追いかけていた。このような内容は初めてではない。けれど、今日ほど絶望的に追いつけないことはなかった。自分だけが泥沼の中にいて、流川が遠くへ走っていってしまう。必死で腕を伸ばして、その名を呼んだ。
「ルカワ!」
自分の声で目覚めた。こういうことはこれまでにもあった。けれど、今日は状況が違っていた。
「…なんだ…」
隣から返事が来て、花道は布団から飛び退いた。まるで幽霊でも見るかのような表情に、流川は憮然とする。肘をつくのを止めて、流川は体を起こした。
しばらく理解できずにいた花道も、ようやく飲み込めてくる。ふと時計を見ると、朝の5時前だった。
「オメー……早起きだな…」
自分はともかく、流川がこんな時間に起きるとは思わなかった。自分が起こしてしまったわけではないらしい。とても冷静な声だったから。
「ね…眠れなかった…とか…」
「…いや…」
花道の部屋で寝られないということではなかった。けれど、流川自身気付いていない緊張がそうさせたのかもしれない。今日、日本から旅立つのだ。時間には余裕があったが、それでも遅れてはいけないという気持ちが働いていたらしい。
流川は立ち上がって洗面所に向かった。花道ももう一度寝ることもできず、台所で麦茶を出した。
いよいよ帰るのだろう。ジーンズを履く流川を見て、花道も覚悟を決めた。
鞄を肩にかけて、靴を履き始める。流川は無言のままで、花道も何の声かけもできなかった。
玄関に立った流川が、花道をじっと見つめる。何と言うのだろう、と不安と期待でいっぱいのとき、流川が右手を差し出した。
「…うん?」
一瞬理解できず、花道は首を傾げた。けれどすぐにそれが自転車の鍵だと気が付いた。
「あ、の、そ…ちょ、ちょっと待て!」
両方の手のひらを広げながら、花道は自分の部屋へダッシュした。流川と同じような格好になり、ついでに帽子をかぶって出た。
二人乗りをして、いったいどこへ行くのだろうか。流川の家に送っていくのだろうか。花道は、流川が言葉少なく指示する方向に進んだ。自転車のブレーキをかけると、ときどき流川の顔が背中にぶつかる。存在を確かめるように、花道は何度か急ブレーキをかけた。
「止めろ」
流川がそう言ったところは、自分たちがよく走っている海岸だった。自転車を奪い、流川はそのまま砂浜に降りていく。慌てて花道は追いかけて、流川が座った近くに腰掛けた。海岸がよく見える場所で、上の道路の影になっている。そばには小舟が並んでいた。
こんな感じの風景は、花道のリハビリ時代を思い出させる。こうして砂浜に座っていると、流川がたまにランニングに走っているのが見えた。流川も、この地元の海と名残を惜しんでいるのだろうか。膝を立てて座る流川は、ただ海の方を見ていて、一言も話さなかった。
一度、流川は顔を上げて、空を見上げた。眩しそうにしていた目を閉じて、そのままじっとしている。その顔はとても晴れ晴れしていて、何の心残りもなく、新天地への期待がいっぱいなのだろう、と花道には思えた。
じんわりと、花道は自分が涙ぐむのを感じた。最近涙腺がもろい気がする。今朝見た夢が、自分の気持ちの全てを表している気がした。
流川に置いていかれる。
自分との差が大きいのだから仕方がない。そう思うけれど、悔しかったし、寂しかった。流川のいないバスケ部に馴染むときが来るのか、自分でも不安だった。
花道はゆっくりと上体を倒して、かぶっていた帽子を顔の上に置いた。こうしている間に、流川が黙って去っていけばいいのに、と期待していた。
けれど、人気の少ない海岸には、流川の気配しか感じられなかった。
流川の鞄の音がして、いよいよか、と花道は唾を飲み込んだ。けれど、鞄を下ろした流川が自分の隣に同じように寝ころんだ気配に、花道は眉を寄せた。
「…泣き虫…」
昨日もそう言われた。顔は見えないはずだし、鼻もすすってはいなかった。それなのに、なぜバレるのだろうか。
「う、うるせー!泣いてなんかねー」
「帽子…かぶってる」
「こ、これは、眩しいから!」
実際に二人のいるところは影になっている。それでも、花道はまだ悪あがきをしていた。
ゆっくりと流川は腕を伸ばして、帽子を少し浮かせた。
「…やっぱり…」
鼻で嗤われた気がして、花道は自分の両腕で顔を覆った。
「ち、チガウ!砂が目に入ったの!」
実際に砂の付いた腕で顔に触れていると、少し目に入った。痛くて涙がでてくるけれど、それが本当に砂によるものか、花道にもわからなかった。
流川の手のひらが両腕を退かした。優しい動きに驚いて、花道は流川の方を向いた。
そのとき、流川がプッと吹き出すように笑った。
「テメーの顔、砂だらけ」
ほんの短い間だったけれど、流川が自分に笑顔を向けた。あの写真ほどではなかったけれど、柔らかく微笑んが気がした。その口元を、花道はじっと見つめていた。
流川は花道の右手を取り、自分の左手で包み込んだ。砂の上でギュッと力を込めると、花道が倍の力で握ってくる。こうして手を繋ぐのは、これが初めてだった。こんなときに比べるのはおかしいかもしれないけれど、晴子の手とは全く違う、そして自分が繋ぎたいと思う手はこれだ、と流川は思った。
花道の方に顔を向けたまま、流川は目線を逸らせなかった。花道はまだその唇をじっと見たままで、これから何が起こるか、瞬時に理解した。そうしたいと、自分だけではなく、流川もそう思ったのだろうか。
右手で持っていた花道の帽子を、互いの顔に近づけた。誰からも見えないように、これは二人だけの秘密にしたかったから。
ゆっくりと引き寄せられるように唇が触れ合ったときに、二人は目を閉じた。ほんの少し触れただけだけれど、流川はそこに砂を感じた。離れるときに、流川は帽子を花道の顔に乗せた。
「砂…」
そう言いながら笑う流川に、花道はその顔を見逃したことを残念に思った。
昨夜は精液をつけてしまったから怒られたけれど。今日は砂付きだけれど、ちゃんとキスすることができた。
自分の心臓の音が聞こえる気がして、花道は起きあがれなかった。流川も座り直したあと、背中の砂を払っていた。背中に小さなプリントがある、花道のTシャツだった。
「…またな」
それだけ言って、流川は立ち上がった。
ここに着く前にTシャツの話をしても「今度」としか言わなかった。
貸すだの今度だの、またな、だの。それはもうすぐ会えるよ、ということなのだろうか。また会おうと言っているのか。
「…お……おお…」
顔を上げられないまま、花道は頼りない返事をした。
そのまま流川が自転車を動かす気配がして、砂の上を歩く音が聞こえた。
今度こそ、流川は旅立った。
花道は鼻をすすりながら起きあがり、しばらくその海を見つめていた。寂しいけれど、胸が熱くて叫びたい気持ちだった。
「今度、言えばいっか」
今思いついた言葉は、次に会ったときに取っておくことにしよう。
友だちでも恋人でもない相手だけれど、特別なあの男に伝えたい。
花道は立ち上がって、流川と反対の方向に歩き出した。