昔話2
つい数時間前までは、ただのチームメイトだった。
流川は花道の家に来たことはなかったし、自転車に2人乗りするのも初めてだった。
喧嘩以外でコミュニケーションを取ることがほとんどなかった天敵のことを、流川は新鮮な思いで見ていた。
「…一人暮らし?」
「そ。上がれよ」
夜遅くの突然の訪問に、流川は家人に挨拶をしようとしたのだ。
花道が電気をつけるまで真っ暗だった部屋は、外の気温と同じで、確かに人の気配はなかった。
「と、とりあえず……フロだよな」
流川は狭い廊下に所在なげに立っていた。初めての家で勝手がわからず、そして主の花道は自分の方を全く見ないままどこかへ消えてしまった。
「桜木…」
自分でも驚くほど小さい声しか出なかった。そのせいか、返事はなかった。水の音が聞こえる風呂場に向かうしかないだろうか。
流川はくしゃみを一つした。
「あ、わりぃ…」
呼んでも返事をしなかった男が、小さなくしゃみ一つで飛んできた。おかしな男だと思う。
花道は客人を居間に案内し、ストーブとこたつを付けた。
「洋平たちはテキトーにするもんだから、つい…」
自分といっさい目を合わさないまま、花道はゴニョゴニョと謝った。そしてまたどこかへ消える後ろ姿を見ながら、流川はとりあえず寒さを凌ぐことにした。
疲れた体が温まり始めると、当然のように睡魔に襲われる。空腹が勝つか、眠気の方が上か、流川はぼんやりと考えながら目を閉じた。
「おい寝るな! フロ入れって!」
耳元で聞こえる怒鳴り声を無視したら、今度は肩を揺さぶらる。自分はもう風呂なんてどうでもいい、と思うのに。それでも、わずかに残る理性が、他人様の家で試合後の体のままふとんに入るのは良くない、と告げてきた。温かいお湯につかっていると、少し眠気が遠のいて、今日のことをいろいろ考え出してしまう。試合に負けて、自主練して。そして。
流川の頬は突然上気した。
「おい…着替え、ココ置いとくぞ」
ちょうどそのとき花道にドア越しに話しかけられて、流川は水面をかなり叩いた。見られたくないものを見つけられて誤魔化そうとした。そんな感じだった。
流川には、そもそも着替えはないはずだった。今日の予備はすべて使いきった。
予想した通り、スウェットの上下も下着も花道のものだった。
一瞬躊躇ったものの、流川は有り難く借りることにした。自分と入れ替わりにすぐに花道は風呂に入り、流川はまた一人きりになった。
見慣れない天井を見上げ、グルッと部屋の中を見渡した。物音もなく、殺風景な部屋で、花道は一人で暮らしているらしい。改めて想像してみて、流川は心底驚いた。
今日は、花道に関して新たな発見ばかりだった。
ふとんが2つ並べられていて、まるで旅館のようだと笑う。いつも突っかかっている相手にマメなことだと驚いた。
ふと時計を見ると、10時を過ぎている。学校にいた時間がいかに長かったか。流川の思考はまた自主練の後のことに至り、慌てて首を振った。まるで話題を変えるかのように、流川は自宅に連絡しようと立ち上がった。「桜木?」
風呂場に向かって、流川はドア越しに話しかけた。
「な、な、なんだ?!」
上擦った声と同時にバシャバシャと激しい水音が聞こえた。ちょうど、先ほどの自分がしたように。
そのとき、表現はわからないけれど、おかしい気持ちでいっぱいなのは自分だけではないと気づき、流川は肩をなで下ろした。
「デンワ、借りていいか」
「で…デンワ? あ、ああ…ど、どうぞ」
どうぞ? そんな言葉、初めて聞いた気がする。流川はほんの少し頬を弛めて、受話器を取った。花道は長風呂ではなかったが、落ち着かない流川には長く感じられた。そして、そろそろ耐えきれなくなってきた空腹感をどうすべきなのか、花道に相談することもできなかった。けれど、花道は自分に対して今は「いじめ」はしないらしい。一応、客人扱いなのだろうか。
「あ、は、ハラ…減ったろ? たいしたモンねーんだけど…」
風呂から台所に直行した花道は、流川にチャーハンを用意した。冷蔵庫から出してレンジでチンという作業を、流川はただ驚きながら見ていた。
「…これ……テメーが作ったのか?」
「……オレ様にできねーことはねーの」
そう得意がるときだけ、花道は流川の方を見た。けれど、すぐに視線を逸らす。
「…テメーは…食わねーの?」
「あ、ああ…オレぁ、ラーメンでも作るかな」
流川はじっと花道を見た。自分も欲しいと言葉に出せなかったので、目で訴えたのだ。
「ん? オメーも食うってか? チッ」
舌打ちしたけれど、花道はちゃんと流川の分も作った。そして、流川はチャーハンを半分残した。
「あれ…」
花道は、口に合わなくて残したと思ったらしい。これは目線だけでは通じずに、流川は素直に一言付け加えた。
「…半分」
「あ……あっそ…」
2人で、勢い良く平らげた。
その夜は、流川も花道も倒れ込むように眠りについた。眠気が、妙な緊張感に勝った。
けれど、次の日の朝、花道はいつも通りに行動できなかった。しばらくふとんから起きあがることができず、隣で静かな寝息を立てる流川から目を離せず、いろいろな思考が頭の中をグルグル巡った。
自分はなぜ、よりによってこの男を誘ったのだろうか。
何度確認しても、あの流川がこの部屋にいる。
声をかける相手を間違ったわけではなかった。何しろ、体育館には流川楓しかいなかったのだから。そもそも、流川だけがいると知っていて、体育館へ向かったのだから。
両腕を組んでのんきな考察をしていたが、その間の長くはなかった時間を思い出し、花道の顔色は真っ青になった。自分のしでかしたことに責任を持つべきだとは思うが、今回の場合、どうすればいいのだろうか。
冷や汗が体を伝い、花道はゴクリと唾を飲み込んだ。
謝るべきなのだろうか。でも、この男に対して素直に言えそうにない。けれど、そんなことを云っている場合ではないぞ、と心の中で自分を責める。たとえ、昨日が最後の試合や練習であっても、この男に対して「借り」は作っておきたくない。これから顔を合わせる機会はグンと減るはずだが、それでもまだ自分達は同じ高校の生徒なのだ。非常に気まずいはずだ。
もしかしたら、流川は「なかったこと」にしているのかもしれない。その考えに辿り着いたとき、花道は両手を鳴らした。それ以外に考えられないではないか。流川はアノ後、自分の家に泊まりにきたのだ。仕返しの仕様がないことのはずだから、お礼参りでもないだろうし。
花道は、自分の勝手さに呆れながらも、やっとふとんから抜け出した。いつものように朝食の準備をして、天気が良ければコートに出よう。その前に、買い物に行かなくては、と花道は少し日常を取り戻した。流川は花道よりもかなりゆっくり起きた。どこでも眠れることを、ここでも証明したのだ。
首をひねって時計を見ようとして、そこが自分の部屋でないことに気が付いた。
すぐに花道の家だったと思い出したけれど、隣のふとんはもぬけの殻だった。
上半身だけ起こして家の中の気配を伺う。けれど、何の物音もしなかった。
「…桜木?」
呼んでもまた返事はなく、またくしゃみでもすれば現れるのだろうか。そんな考えを実行したわけではないが、流川は本当にくしゃみをした。花道は、飛んでこなかった。
流川はため息をついてから、立ち上がった。ふとんを重ねて上げたのは、合宿のときのクセなのだろう。いつもはベッドだから、新鮮に思えた。できるだけ足音を立てずに洗面所に向かう。お風呂場で、昨日は目にしなかった赤いものが視界に入った。
「…洗濯…」
したのだろうとすぐに思った。けれど、風呂場に干すものだろうか。そして、どう見ても、自分の赤いユニフォームしかないのだ。そういえば、昨日アノ後、すべて花道が自分で持ち帰ったのだろうか。そして、わざわざこれだけ洗ったのだろうか。
流川は自分で答えを出すことをすぐに諦めて、部屋に戻ってこたつに入り込んだ。それからほどなく、外の階段から激しい足音が聞こえ、流川はなぜかすぐに花道だと思った。そして、実際に花道は大声を出しながら、ドアを開けた。
「雨降ってきやがった!」
舌打ちしながら、花道の赤い髪や上着から水を払う。流川は無言のまま、その姿を見ていた。
「お、おう…起きやがったか。ハラ減ったろ?」
花道の手にはビニールの袋が下げられていた。
「…買い物?」
「あ、ああ…近所のスーパーまでな」
スーパーで買い物。流川には新たなニュースだった。自分はスーパーに行ったことはあるが、あくまで荷物持ちとしてだ。花道は、一人で買い物をし、これから料理するのだろうか。
「…食いに出ねーの…」
「あん? オメーはそっちがいいのか?」
「…いや…別に…」
「…まあ…作った方が、安上がりだからよ。ガマンしろ」
そんな言葉を使うとは知らなかった。大勢で食事に行っても、誰かしらに奢ってもらおうとする男だと思っていたのに。
自炊する姿があまりにも珍しくて、流川は台所で花道の手をじっと見ていた。
「あ…あのよ…ルカワ…オレ様は毒なんて入れねーよ」
包丁を持った花道が、流川を振り返った。
「…毒?」
「見張ってなくていーっつってンの!」
「……みはり…」
流川の行動は、花道にはわからなかったらしい。けれど、流川もわざわざ口にしなかった。
花道は、自分を追い出そうとはせず、自分の分の食事も用意している。やはり、お客様扱いなのだろうか。花道のそんな接し方に、流川は馴染みがなく、不思議な気持ちだった。