昔話3

   

 何か予定があったわけでもなく、約束事もなかった。
 花道は、流川とこたつで向かい合うことに、そろそろ限界を感じていた。
 晴れていればコートに出たのに。そうすれば、自分達はバスケットを通してコミュニケーションが取れる。たとえ流川に敵わなくても、自分はこの男に挑み続けるつもりなのだから。
 けれど、コート以外では、どうすれば良いのかわからなかった。
 昨日、試合が終わったあとは、確かに、花道は流川と一緒にいたいと思ったのに。
「桜木…」
「な、なんだ?! ルカワ?」
 流川が顔を上げる度に、花道は毎回上擦った声を出した。それがおかしくて、流川はこれまで話しかけたことのない相手に、何かと声をかけた。見ているTVの内容だとか、得意な料理のこととか。
「あれ…バスケ雑誌だよな…」
 流川が指さした方向には、数少ない雑誌や本が立てられていた。
「お……おう…」
 花道の返事の前に、流川は本棚に近づいた。その中の一つに見覚えがあったから。
「これ…オレがやったヤツ?」
 端がすり切れたその雑誌は、花道が入院していたときに流川が上げたものだった。お見舞いの品として、バスケ雑誌が良いと先輩達が云ったから。そのときの最新号を差し入れたのだ。
 あれから2年以上経っているのに、花道は今でもこれを大事に取っている。流川は少なからず驚いた。
「お、おお…オメーにもらったモンでも、本には罪はねぇ」
「……つみ…」
「オレぁよ、本とかそういうの、手放せねーんだよ」
 意外な思いで、流川は花道を振り返った。驚いた表情がわかったのか、花道はすぐにふて腐れた。
「…しょ、しょーがねぇだろ……いっぱい買うカネねーんだよ…って、何でここまで説明してるんだオレは!」
 小さな声でボソボソ話していたのに、途中から怒鳴り声に変わる。また舌打ちしながら台所に行ってしまった。
 流川の驚きは、花道が貧乏だとバカにしているものではなかったのに。
 一人暮らしでやりくりする花道を、見直しているのに。
 そう言葉にできなくて、流川は花道を追いかけた。
「…桜木…」
「な、なんだよ…」
「………今度…ウチ来るか?」
 花道は勢い良く振り返った。その勢いで、ポットから入れていたお茶をこぼしてしまった。
「あちっ!……え…ウチって…」
「……本とかビデオとか…ある……けど…」
 花道の表情が見る見る明るくなっていくのが、流川にもわかった。
「マジか? 見せてくれンの?」
「……別に…いーけど…」
「うおおっ ヤクソクな!」
 これだけのことで大喜びする花道に、流川はまた戸惑った。
 自分はこれまで、この男のどこを見ていたのだろうか。
 花道が本当に嬉しそうな表情を自分に向けるのは、これが初めてではないか。流川はぼんやりと考えた。
 流川が、他人を家に誘うのも、これが初めてだった。

 こういうとき、花道という男はやはり強引なヤツだと流川は思う。
「今度って……今日でもいい?」
 それでもお伺いを立てているところは、少しは遠慮しているのだろうか。
「…今日?」
「オメーも帰るだろ? そンとき、ちょっとだけ……ダメか?」
 流川には、相変わらず花道の思考についていくことができなかった。
 昨日は「泊まりに来い」と誘い、今日は急に「帰れ」と云わんばかりだった。
「……オレは…帰る…のか…」
「あん? 帰らねーの? 別にいてもいーぜ」
 花道のこの態度は何だろう。流川は訳もわからないところにムッとしていて、それをうまく伝えることができなかった。
 特別、花道の家にいたいわけではないのだから、すぐに家に帰ればいいのに。
 そういえば、なぜこんなダラダラとした時間を過ごしていたのだろうか。たとえ雨が降っていても、家で出来ることはあるのに。
「……帰る」
 流川の素っ気ない言い方に、花道の方がむくれた顔をした。

 冬の雨は激しくなくても冷たかった。
 そんな中、自転車に2人乗りで、傘を差す。どこから見ても危なっかしい走行だった。
「…アブねー…テメー、歩け」
「そんなコトしたら、オメーはオレを置いてくだろ?」
「……ンなことねー」
 そう答えながらも、流川には自信がなかった。仕方なく、後ろから傘を花道に差し続ける。そういえば、今日は自分が運転できるのに。その考えは、また要らぬことを思い出させてしまい、流川は大きく首を振った。
「ルカワ…暴れンなよ!」
「……どあほう…」
 誰のせいで暴れることになったのか。流川は花道の背中を睨みつけた。


 流川の家には、誰もいなかった。
「お……おジャマします…」
 後ろから小さな声が聞こえて、流川は驚いて振り返った。花道が、挨拶をするとは思わなかったのだ。
「…誰もいねー」
「そ…そうか?」
 花道の緊張はわかりやすい。そして、ちょっとホッとしたらしいのがわかった。
 流川はこれまで他人を自分の部屋に案内したことがなく、ただ黙ったまま部屋へ向かった。花道がまるで泥棒のようにソロソロと歩くのがおかしくて、少し笑った。
 階段を上った奥の部屋だった。
「テキトーに座れ」
 ドアを開けた流川は、花道を促した。
 流川の部屋は自分の部屋と大きさは変わらないが、中身がかなり違う気がした。バスケットの色がかなり濃い。部屋の中では使えないリングが壁にあり、意外にもポスターが貼ってあった。
「ジロジロ見ンな」
 制服を脱ぎながら、流川は睨みつける。自分も花道の部屋でそうしたけれど、自分がされるのはやはり気分良いものではなかった。
「あ……いや…オメーらしーなーと思って」
「……オレらしいってナンだ」
 未だにキョロキョロする花道に、流川は口の中だけで呟いた。
 花道は、流川の部屋の本棚に近寄った。机の上の教科書はいかにも使ってませんという綺麗さなのに、バスケットに関する本や雑誌は何度も見開かれた跡がある。花道はいつもの何倍もの丁寧さで、流川の本を手に取った。
「…ビデオ、こっち。画像荒いけど」
 部屋着に着替えた流川は、花道の近くに座った。自ら貸すと言ってしまった手前、今更なかったことには出来なかった。
「み…観ていいか?」
「……いーけど」
 流川の部屋には小さなテレビデオがあった。
「オメー、自分用のテレビあンだな…」
「……居間で観るなって追い出された」
 その表現がおかしくて、花道は吹き出した。そして、想像してみるのだ。一生懸命映像の中の技術を盗もうとする流川が、繰り返し同じビデオを観る姿を。
 たとえ小さな画面でも、流川はいつでもこうして勉強してきたのだろう。こんな雨の日にはビデオを観ていたに違いない。こうした積み重ねで、今の流川楓を作ったのだろう。自分は確かに遅れを取っていると花道は思った。
「オメーン家も、テレビもビデオもテメーだけのだろ?」
 流川がそんなことを言うとは思わなくて、花道はふと顔を上げた。
 確かに同じようではあるが、花道は答えることが出来なかった。

 それから外が薄暗くなるまで、花道は流川のビデオを見続けた。その間、流川はペットボトルのお茶を出す以外、何も出来なかった。花道のように、熱いお茶を入れることもわからなかったから。
 流川のお腹から空腹の音が聞こえて、花道はビデオを止めた。
「オレ…帰るわ…」
「……そうか」
 空腹なのを知られたのが恥ずかしいわけではない。けれど、何か気まずい気がした。花道もお腹が空いたのだろうか。
「ビデオ、借りてもいいか?」
「…いー…っつった」
 2人が小声で会話するのは、とても珍しかった。
 そのとき、玄関でドアが開く音が聞こえ、2人はハッとした。
 自分の名前を呼ぶ声が聞こえ、流川は花道から視線を逸らせた。
「楓? お友達なの?」
 階下から、おそらく母と思われる声と、それに答える流川の声が聞こえた。
「………バスケの」
 友達? と流川も花道も驚いた。けれど、一般的にはそう考えるのが自然なのだろう。互いの家に行き合っているのだから。
 花道は挨拶すべく、緊張しながら階段を下りた。
「あ、あの…おジャマして…ます…」
「あら…桜木くん」
 流川によく似た顔の母親が驚いた表情をしたが、花道の方がもっとビックリしていた。
「いらっしゃい。試合、観てたわよ」
 それで自分の顔を知っているのか。花道が何も聞くまでもなく、謎が解けた。
「もー帰る」
 流川がふて腐れた声を出して、花道の肩を押した。さっさと帰れという合図なのだろう。
「桜木くん、もうすぐご飯よ? 食べていきなさいな」
「え……っと、その…」
 母親の見えない高さで、流川は自分を睨みつける。そんなに鬱陶しがらなくても、と花道は少し傷ついた。
「あの…オレ、今日はこれから用事があって……どーもッス」
 残念そうにしてくれた母親に、花道は頭を下げた。視線を上げたあと、また高い位置で、流川を睨み返した。
「昨日は楓がお邪魔したみたいで、ありがとう。桜木くん。またいらっしゃいね」
「あ…いえ……はい…」
 よくわからない返答をする花道を、流川はため息をついて見送った。

 てっきり、花道は母の誘いを受けるものだと思っていた。
 自分は夕食に誘ったり出来なかった。
 流川は、自分の部屋に戻って、さっきまで他人がいた余韻を味わった。花道は、真剣な顔でビデオに見入っていた。花道がバスケットを始めて間もない頃、試合観戦の仕方も本当に素人だったのに。
 流川は何かを決めたように勢い良く立ち上がり、階下へ降りていった。

 

 花道は、家に戻ってから、ラーメンを啜っていた。料理をする気にならかなったし、何よりビデオを観たかった。この中から流川は何を学んでいたのだろう。自分はもっと凄いことを盗んでやろうと思うのだ。1本目の試合が終わった後、ふと返す約束もしていなかったことを思い出した。
「…今度の練習…」
 は、もうないのだ。呟いてから、すぐに否定した。
「まー……ガッコ始まってからでいいよな」
 冬休みの間、会う予定はないのだから。
 花道は試合観戦休憩と言いながら、立ち上がった。
 ちょうどそのとき玄関でノックする音が聞こえ、花道はすぐにそちらに向かった。こんな時間なら、桜木軍団の可能性が高いから。
「おー……アレ?」
 思い切りあけたドアの外に、流川が立っていた。
 未だ小雨の降る中、これは幻じゃないだろうかと花道は目を擦った。
「…さみー」
「あ…お、おう…」
 花道が道を譲り、流川は素直に入ってきた。帰ったときと同じように、またバッグを提げている。違うのは、私服だということくらいだろうか。
「オメー……ど、どしたんだ?」
 昼間送ってきて、自分は電車で帰ってきた。それなのに、その日のうちにまた自転車で戻ってきた。花道が不思議がるのも無理はなかった。
「……メシ」
 流川はバッグから、大きな弁当箱を出して、花道に差し出した。
「…おふくろから……イッシュクイッパンの…」
「え……」
 花道は驚きで固まって、弁当箱を受け取ることも出来なかった。
 よく考えてみると、流川の母が花道の状況を知るはずはないのだ。だからきっと流川が説明したに違いない。何をどこまで話したのかはわからないが、温かい手作りの食事は有り難かった。
「あ……その、サンキュ……オメーは?」
「……まだ」
 そう言いながら、流川は自分の弁当を出してきた。自分と食べるためにわざわざここに来たのだろうか。花道は呆れながらも、少し感動していた。
「あっそ……じゃー茶でも入れるか…」
 花道が台所へ向かうのに、流川はまた付いていった。
 流川は、花道がお茶葉を急須に入れるところから、ずっと見ていた。
「…な、なんか…珍しいモンか?」
「………毒は入れねーんだろ」
 会話にはなっていないけれど、花道は流川の答えが気に入った。

  

 

  2008.8.4 キリコ
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