昔話8
流川は、たった一人のコートで気の済むまで練習し続けた。もっと落ち着いて、自省しながら取り組む方が良いとわかっているのに。まるでそこに憎むべき敵がいるかのように、流川は無我夢中にリングを目指した。実際には、邪魔する人間はいないのに。
呼吸に限界がきて、ボールを置いて俯くと、体中から汗が噴き出ていた。ポタポタとコートに落ちる汗を、流川はしばらくじっと見ていた。真冬の外での練習として、これはどうなのだろう。これでは体が冷えてしまうのではないか。
「…チッ」
舌打ちして、流川はベンチに向かった。大急ぎでタオルを使ったけれど、帰宅するしかないとため息をついた。
すぐそばのフェンスには、人だかりが出来ていた。それほど珍しいことではないし、流川は気にしたことはない。けれど、今日はいつもと何かが違うとすぐに気が付いた。
「……きもの?」
見学する若い女の子たちの服装が、いつもと違うらしい。もちろん顔も覚えていないけれど、振り袖はあまり見たことがなくて、確かに新鮮だった。
今日は、1月1日なのだ。
「…がんたん…」
自分は行かないけれど、ここにいる着物姿の子たちは、初詣に行って来たのか、それともこれから行くのか。そのついでに、ここに寄ったのだろうか。ただの通りすがりだろうか。流川はこれまで考えたこともないようなことを想像した。そして、いつも賑やかな男がやってくる方向に目をやった。
花道は、今日はコートには来ない。
桜木軍団と初詣に行ったのだから。
せっかく忘れていた男のことを思い出し、流川はまた舌打ちした。なぜこんなにもイライラするのか。流川にもよくわからなかった。
花道の部屋で、桜木軍団と出くわしたことが、なぜか居心地の悪い思いなのだ。何も聞かれなかったし、自分も何も言わなかった。けれど、花道が戻ってくるまで、妙におかしな空気が流れたのを感じた。
「……オレの方か…」
場違いなのは。
そう思ってしまった自分が、何だか腹立たしい。
何もやましいことはない、と考えたそばから、なぜこんなにも気まずい思いをしなくてはならないのか。
花道は、何と説明しているのだろうか。
全部、こと細かく、話すのだろうか。
何もかも打ち明けたとして、どうするのだろう。
何かが変わるだろうか。
何一つ、良くなることはないと思うのに。
花道が、心底自分を嫌っていたら、嗤いものにでもするのだろうか。
流川は自宅に戻っても無言のままシャワーを浴び、そのまま部屋に向かった。家族と顔を合わせづらいと感じるのはなぜだろうか。やはり、イケナイコトをしてきたのだろうか。初めてキスをしてきましたと、顔面に書いてある気がするのだ。
そうだ。ファーストキスだ。
ベッドに倒れ込みながら、流川はようやく気が付いた。
あれが本当にキスだったのならば。
ニセモノのキスとは何だろうか。
「…ホンモノ…?」
流川は目を閉じて、手の甲を唇に軽く押し当てた。
「……チガウ…」
自分の皮膚とは全く違う感触だった。あれは、花道なのだ。
花道と、キスをしたのだ。
自分でそう反芻すると、急に頬が熱く感じた。
枕に顔を埋めて、流川は昨夜のことを思い返した。だんだんエスカレートしているのではないだろうか。一週間前と比べて。そもそも、それ以前には近づいたことすらない男なのに。
ヤロー相手に、と思うのに、花道の指を思い出すと、下半身に熱がこもった。そんな自分に驚いて、流川は両腕で自分を抱きしめた。そうすることで、かえって花道の腕と比べてしまうのに。
花道の腕の中は、温かく、意外にも優しかった。気を遣うような動きを、嫌いな相手にはしないのではないか。そもそも、触れてこないはずだ。
流川はふと両目を開いた。
自分は花道に想われたいのか。
しばらく考えたけれど、そうではないと思う、と自分に答えた。
花道が何を考えているのかはわからないけれど、花道は桜木軍団には何も話さない気がした。なぜだか自分でも理解できないけれど、そう思えた。
「……信じらンねー」
理解できないはずの男を信じている自分が、信じられなかった。
コート以外で信じたことなどない相手なのに。
互いの体を近づけることはできても、自分たちに会話らしいものはあまりない。知らないとまではいわないが、それでも自分の体を相手に預けることができるくらいに信頼しているらしい。
流川は体が空腹を訴えるまで、じっとしたまま花道のことだけを考えていた。
一方、花道も桜木軍団に気付いたとき、とても気まずい思いをした。昔からの仲間にこんな風に感じたのは、初めてだった。
入れ違うように黙って出ていった流川に、花道もかける言葉が見つからなかった。悪友たちの問いかける視線に気付かない振りをして、花道は大急ぎで出かける準備をした。
正直なところ、すっかり忘れていたのだ。桜木軍団との約束を。
久しぶりに5人で歩いていても、花道はどこか上の空だった。話しかけられても生返事で、あまり目も合わせない。花道が、流川のことを冗談でも話さないところが、桜木軍団にはかえっておかしく思われた。
実際、花道は流川のことばかり考えていた。
選抜が終わった一週間ほど前から、花道はほとんど流川としか会っていなかった。バスケをするか、バスケのビデオを観るか、一緒に眠るか、それしかない一週間だった。まるで、2人きりの世界だと、今更ながら気が付いた。
今日、洋平たちと顔を合わせて、突然夢の世界から目覚めさせられた気がしたのだ。
流川楓は現実にいるけれど、やはりアレは夢だったのだろうか。
つい数時間前まで、初めてのキスに浮かれていたと思ったけれど。
「……キス…?」
周囲の目も忘れて、花道は自分の指を唇に押し当てた。
桜木軍団の驚いた表情にも、気付かなかった。花道はこの界隈では有名人になりすぎて、当然高校生だということも知れ渡っていた。だから、昔のようにパチンコに行くこともできず、初詣のあと、軍団全員で花道の部屋に戻ってきた。ジャラジャラと麻雀牌の音を立てても、花道はぼんやりとしか手を動かさない。あっさり負けてしまっても、いつものように怒鳴ったり叫んだりもしない。花道の出番がないときは、誰の手も見ず、輪の中に入ってこなかった。
こんな花道は、桜木軍団も初めて見るものだった。
告白して振られたあとや試合に負けたあととも違う。高校最後の試合のショックかと思ったけれど、ここまでひきずる男とは思えなかった。大学に進学する不安とか、そういう先のことで考え込む花道でもないと思う。やはり、流川楓のことしかない、と洋平たちは目線で会話した。
「そういえば……なあ花道?」
「………んあ?」
洋平は、手を止めずに、ふと思い出した風を装い話しかけた。声の方を振り向いた花道は、何の気構えもなく無防備に見えた。
「…ルカワって…」
ただ名前を出しただけで、花道は誰の目にも明らかに狼狽えた。
「な、なんだルカワって! ナンでもねーぞ!」
何も聞いていないのに、と全員が思った。花道は元々、桜木軍団の中では嘘や誤魔化しが下手だったが、それは今でも変わっていないようだった。
いったい自分たちの親友とあの天敵がどうなっているのか。軍団の自分たちにすら話せないようなことなのか。もしかしたら、相談されても返事に困るようなことなのかもしれない。いろんな考えがそれぞれ浮かんだが、お正月から問いつめるようなことは止めた。いつか、花道から話してくれるかもしれないと期待しながら。
頭突きすらしなかった花道を少し寂しく思いながら、お開きになった。
その日一日、桜木軍団と何を話したか、花道は全く思い出せなかった。そんな自分に、少し腹が立った。けれど、たった一人のことで頭がいっぱいの状態をどうすればよいのか、花道にもわからなかった。
その夜、花道は一人でビデオを観ていた。たくさん観るべき試合があったし、繰り返し観なければと思うプレーがあったから。少しでも、あの男に追いつきたかったから。
自分ではかなり集中していたと思う。それなのに、なぜかこの足音にはすぐに反応できた。
花道は勢い良く立ち上がり、玄関へ向かった。
ドアを開けると、驚いた流川の顔があった。自分の耳に間違いがないことを確認しながら、花道は頬が崩れてくるのを感じた。自分でもよくわからないけれど、流川の訪問が嬉しいのだろうか。その自覚は、花道にはまだなかった。
「……その…さ、寒かったか?」
部屋に通されても無言のままの流川に、花道はしびれを切らした。改めて、会話しなければ、と意識すると、何を話せば良いのかわからない相手だ。ついこの間まで、気を遣わない相手だったはずなのに。
ウィンドブレーカーも脱がない流川は、こたつで丸くなりながら、手を擦り会わせた。流川は、ランニングと称して家を出てきたのだ。
「……コレ…」
いつもより身軽な流川だが、多少は荷物があったらしい。花道は、流川からタッパーを受け取った。
「…おせち?」
「……と、コレ…」
おせち料理が詰められたタッパーの上に、ラップで包まれたチーズケーキが乗せられた。お店で見るものと違い、手作りに思えた。
「…ケーキ?」
花道の不思議そうな顔を見て、やはり知らないのだと確認した。
今日が、流川の誕生日なのだと。
「……渡すの、忘れてた…」
それで、わざわざ持ってきてくれたのか、と花道は少し驚いた。
次に会う機会をどうしようと勝手に悩んでいたところに、流川がそれを作ってくれたから。
「あ……その…皿に移すから…」
花道の言う意味がわからなくて、流川は台所に付いていった。花道は中身をすべてお皿に移し、タッパーを丁寧洗って拭いた。にもう何度目だろうか。こうやって、花道のすることを横から眺めるのは。
「た、タッパー…カラで返してスミマセン、って言っててくれよな…」
困ったような笑顔を浮かべられて、流川は返答に困った。とりあえず、そのまま伝えればよいのだろうか。自分が覚えていれば、の話だが。
それから、花道の入れたお茶で、ケーキを二等分した。流川が断る前に、花道が綺麗に分けてしまったのだ。自分はもう家で食べてきたと、改めて言うのをなぜか躊躇った。
「…お正月に手作りケーキ。オシャレなお母様だな…」
花道がおいしそうに食べながら、感心したように言う。流川は喉元まで「チガウのに」と出かかった。
おせちは昨日から持っていた。
けれど、ケーキはさっき自分でラップに包んだのだと、流川は打ち明けることが出来なかった。
なぜ花道にわざわざケーキを持ってきたのか、自分でもよくわからないけれど。祝福されたかったわけではなく、ただ一緒に食べたかったのかもしれない。自分は甘いものがそれほど好きではなく、母親が食べやすいベイクドチーズケーキを毎年この日に焼くのだと、教えたかったのか。
流川は、花道が最後の一切れを食べるまで、じっと見ていた。
昼間のイライラがいつから消えていたのか、自分でもわからなかった。