昔話12
2月の下旬には、卒業式前の登校日があった。
あの夜以来、流川は花道に会っていない。コートで会うだろうかと思っていたら、雨が続いたのだ。冷たい雨を見ながら、流川はため息を何度もついた。
約束もなく会っていた相手に、今更どうすればいいのだろうか。
もっとも、顔も見たくないという気持ちも多少あったので、雨はいいきっかけだった。
このままアメリカに行ってしまえばいい。そう思ったりもした。
けれど、学校に行くと、すれ違うくらいはあるのかもしれない。
花道は、何か言ってくるだろうか。花道は、あれ以来コートに出なかった。たとえ晴れていても、行かないつもりだった。
流川が訪れなくなったことで、自分の無言の言い分が通じたのだとわかる。自分には面と向かって言う勇気がなかった。何を伝えたいのかもわからないけれど。
もうすぐ卒業式で、どうせ別れ別れになる予定だった。
花道は、流川がいつアメリカに旅立つのか、それすら知らないのだ。このことに気付いたとき、花道は一層落ち込んだ。
数少ない登校日の中で、卒業式のあとすぐに、という噂を聞いた。チームメイトの桑田が、おそらく聞き出したのだろうと思う。
自分は、あれだけ長い時間一緒にいたのに。流川は何も教えてくれなかった。
花道は、流川のことを考えると胸の中がモヤモヤするようになった。
「ムカつく!」
こんなにもイライラするのに、流川のことばかりで頭がいっぱいの自分に腹が立った。
もう、忘れてしまえばいいのだ。
ほんの短い夢の時間で、きっとお互いの気まぐれだったに違いない。実際に、流川も花道も廊下ですれ違っても、視線を合わせようとしなかった。
卒業式の日には、それぞれ部活で集まることが多い。バスケ部ももちろん集合した。後輩たちから花束を受け取り、一人一人握手をする。そして、全員で集合写真を撮った。
卒業生は1列目に座らされた。写真に興味のない流川は、隅っこにいた。けれど、主将副主将は、無理矢理真ん中に並べられてしまう。顔を合わせたくないと思う2人が、何度か膝をぶつけ合った。
流川は、これぞヤンキー座り、という形の花道の膝あたりを横目で見た。花束を持っていない右腕が、膝の上に置かれている。花道の指は、拳に握られていて見えなかった。
その後も、うんざりするほどカメラを向けられて、流川も花道も誘導されるままに動いた。
3年生だけで並んでいたとき、ふいに花道が声を出した。
「は、晴子さん…ココへどうぞ…」
少し上擦った声だと流川は思った。相変わらず、花道はこのマネージャーのことが気になるらしい。そして、花道が指さしていたのは、自分と花道の間だった。晴子が遠慮しながらも、結局2人の間に並んだとき、流川はなぜだかムッとした。そんなにまでして一緒に写りたいのなら、あとで2人で撮ればいいではないか、と。
さっさと撮せと流川は苛ついていたが、なかなか終わらないのは晴子が顔を上げないせいだとようやく知った。
「は、晴子さん…わ、笑ってください」
花道が宥める姿に、流川は心が冷めていくのを感じた。
どうやら、涙が止まらないらしい。
流川がため息をつこうとしたとき、晴子が小さな声で言った。
「る…流川くん…アメリカ行っても頑張ってね…」
足下に涙が落ちるのが、流川にも見えた。
それが言いたくて、一生懸命だったのだろうか。
花道が流川をキッとした目で睨んでくる。それは、返事をしろ、という合図に思えた。
もしかして、花道は自身が晴子と並びたかったのではなく、晴子と自分を並べようとしたのだろうか。晴子の思い出のために。晴子のためなら、無視し続けていた自分と視線を合わせることも出来るのか。
流川は、花道の目をじっと見返してから、晴子の後頭部に向かって「うす」と返事をして、背中を軽く叩いた。
「…そのカオが写真に残る…」
流川は思ったままを口にした。
ものすごく目を見開いた晴子が、ようやく顔を上げた。涙でグシャグシャの顔だけれど、笑顔を流川に見せた。そして、花道にお礼を言ってから、真正面を向いた。流川は、卒業式のあと、これまでと考えが違っている自分に気が付いた。久しぶりに目を合わせた花道は晴子に対して真剣だったし、晴子も自分に対して必死だったように思う。恥も、外聞も、迷惑も関係なく。
けれど、花道と晴子の姿に勇気づけられたのかもしれない、と素直に思う。
自分も、真剣に向き合わなくては、と思った。
日本に心残りを置いていくわけにはいかない。
あの最後の夜、花道はキスをしなかった、と思う。流川はいつも以上に疲れ果てていて、ほとんど眠っていた。けれど、顔に何かが落ちてきたのは覚えている。今思えば、あれはきっと涙ではないだろうか。
「…泣く?」
あの男が泣くのだろうか。正直なところ、よくわからなかった。コート以外の花道は。
花道のことは理解できないことが多いけれど、自分がどう思っているのか、どうにかして伝えようと思った。
花道は、結局流川に何も言わないまま別れたことを、ようやく後悔し始めていた。もうきっと、旅立ったに違いない。どこに行ったのかも知らないのだ。
卒業式の後、流川はまた女子生徒に囲まれてしまい、逃げるように学校から出ていった。花道も、知っている人や知らない人に次々捕まって、流川を追いかけることも出来なかった。それから桜木軍団が花道の部屋に集まった。
「まあ…オレらがこうしてられるのも、もう少しだけだからな」
こうやって、5人でよくわからない会話を夜通し繰り広げられるのも、あとわずかだった。もうすぐ、別々の道に進むから。
「オメーが一番遠いんだよ、花道」
花道は大学の寮に入ることになっている。ここから通えない距離ではないので、桜木軍団とも会えないことはない。けれど、実際どうなるのかわからないから。次の日の朝、花道は寝不足にもかかわらず、いつもの時間に目が覚めた。
見回すと、洋平たちが思い思いの場所で眠っている。この様子の方が長年馴染みがあるはずだったが、最近はすぐそばに別の男がいることが多かったから。つい、「あれ」と思ってしまった。
今日もコートに出ずに、ずっと皆で遊ぶ予定だった。
花道は、部屋で一人になりたくなかった。
一人のコートに出たくなかった。5人でいると、話題は尽きない。何時間でも話していられるし、シンとしてしまっても気にならない間柄だ。
花道は、4人がまた麻雀を始めたとき、お茶を入れに立ち上がった。
そうしていても、また思い出してしまう。
自分のすることを不思議そうに見つめていた場所を、つい振り返った。
そこにいるはずもないのに、と花道は首を横に振った。
5つの茶碗をお盆に乗せたとき、花道は自分の耳を疑った。
さっきから、幻覚を見ている気分だったけれど、もしかして幻聴も始まったのか。
麻雀牌の音が響く中、花道は確かにその足音を聞き分けた。
勢い良く玄関に向かい、花道はドアを思い切り開けた。
「イテッ」
反射神経のよいこの男でも、避けきれなかったらしい。
花道は、目の前に立つ男が本物か、しばらく見定めていた。
自分の目をまっすぐ見返してくる男は、ダッフルコートを着ていて、そして手ぶらだった。自分の知っている姿は、ジャージがほとんどでだった。だから、これは間違いなく、新しい流川だと思った。
流川は、ドアを掴んだままの花道を軽く押して、静かに土間に立った。そこは靴だらけで、立つ場所を確保するのも大変そうで、流川はしばらく俯いていた。
花道は、ただじっと、見つめるしかできなかった。
幻覚や幻影ではなく、人間の質量を持った流川だと、ようやく確認できたとき、花道はやっと瞬きをした。
「…る…ルカワ? オメー…もう行ったンじゃ…」
小声で問う花道に、流川は何も言わなかった。
まるで人形のようにも思えてくる。けれど、流川はいつでも無口だった。
「花道ー? チャーまだかー?」
居間の奥から聞こえる声に、花道は大声で返事をした。
「な、な、ナンでもねぇ…」
それは返答になっていないと、自分で思った。
「そ、その……アイツら…来てて…」
今度は小声で、花道は流川に言った。
花道が首をあちらとこちらに何度も向けているとき、流川が突然花道の両頬を両手で掴んだ。
「へっ…?」
ぐいと力強く首を引っ張られ、花道はバランスを崩した。
未だ廊下に立っていた花道は、玄関のドアに手を付いて、なんとか転けないで済んだ。
何が起こっているのか、理解するのに時間がかかった。
大きく見開いた両目から、ごく至近距離に流川の顔があった。それ自体は初めてではない。けれど、花道が自分の意志で近づく以外、これまでなかったことだった。
流川が、キスをしている。自分に。
どれくらい唇を合わせていたのかわからないが、流川は一度ゆっくりと目を開けながら離れていき、花道をまっすぐ見つめたあと、角度を変えて今度は短いキスをした。
その様を、花道はずっと見ていた。スローモーションで見るように、流川の動きは緩やかだった。両頬を引っ張っていた手のひらが冷たいことも、花道はしっかりと認識した。
これは、本物の流川なのだ。夢ではない。
「…ル…」
何か言わなければ、と花道は思うのに、名前すら呼ぶことが出来ない。
返事をしたくても出来ないというのは、こういうことなのだろうか。
流川は黙ったまま、両腕を花道の首に回し、軽く引っ張った。互いの額をコツンと合わせ、流川はしばらく目を閉じた。花道は瞬きするのも忘れるくらい、ずっと大きく目を開けていた。
少し俯かされた花道は、その視界の中からダッフルコートが消えるのを見ていた。ドアが開いたとわかったのは、自分が支えを失って靴の上に座り込んだときだった。パタンという音を聞いて土間がまた薄暗くなっても、花道はしばらく放心したままだった。
たくさんの靴を見ながら、やはり現実とは思えなかった。けれど、流川がつま先で確保したスペースが、それが現実だったと教えてくれた。
花道は、素足のまま、大急ぎで飛び出した。
「ルカワっ!」
廊下で大きく声が響いたけれど、返事はなかったし、人影も見えなかった。
「は…はくちゅうむ…」
起きているのに夢を見た。つまり幻覚だ。
けれど、額にも頬にも唇にも、確かな感触が残っている。
流川は本当にここに来て、何かを伝えたかったのだろうと、時間が過ぎてから花道はようやく確認した。
いつも、流川は何も言わない。無口だとしても、もう少し会話にならないものだろうか。何度もそう思ったし、そのことで自分は傷ついたと思い込んでいた。
けれど、流川の唇は、雄弁だった。
初めてキスされて、これまで無反応だと思い込んでいた自分の間違いに、気が付いた。
あの流川が、嫌いな人間に会いに来たりしない。
すべてを委ねるくらい、自分は信じられていたのだとようやく思えた。
自分は確かに言葉がほしかったけれど、それを汲み取ることが出来なかったのは自分だと、ようやく自分の非を認めた。それだけでなく、相手から欲しがるばかりで、自分は流川に何か伝えていただろうか。それすらしていなかった自分は、なんて身勝手なのだろうか。
「な……ナニやってンだ…オレ…」
取り返しのつかないことをしてしまったのではないか。
もう、あの男は、そばにはいないのに、今更こんなことに気が付いてどうすればいいのか。
花道は、急に胸が悲鳴を上げ始めたことに、自分で驚いた。ぼんやりとしたまま、花道は先ほどのお茶を運んだ。
居間のドアを開けると、麻雀の音がはっきりと聞こえる。この音を知っていて、流川はキスしてきたのだ。それは、どれほどの覚悟だっただろうか。
花道は、慣れた手つきでお盆を置き、自分の定位置に座った。
「は……花道?」
全員が自分を凝視し始めて、何事だろうといぶかしむ。
「ど…どうした? ダレか来てたみてーだけど…」
「……いや…」
花道は、自分の声が自分のものではないように聞こえた。
それが、大量の涙をポロポロと流し、鼻水が垂れていたからだと、気付かなかった。
心配そうに向けられた顔を見て、花道は顔を歪めた。
「む……ムネが…イテー」
「な、なに? どんな感じだ?」
花道は本当に胸が苦しくて、自分の心臓あたりを手で押さえた。こんな痛みは初めてで、息苦しく感じた。
「イタイ…」
ただ痛いを繰り返しながら俯く親友を、最初は救急車を、とまで心配した。
けれど、どうやらそういうことではないとわかり、桜木軍団はずっと花道のそばにいることにした。悲しいことがあったときも、振られたときも泣いていたが、このような泣き方の花道はこれまで見たことなかったから。何があったのかわからないけれど、ここまで辛そうに哀しむ花道を、心から労った。
第1話の「最後に会った流川」の話です(^^)
次からアメリカ編(?)です。
2008.9.19 キリコ
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