今話1
空気が違う。
桜木花道は、初めて外国に降りたって、まずそう思った。一度深呼吸した後、よく周囲を見回すと、それこそ日本とは全く雰囲気が違う。飛行機に乗るときも多少そう思ったけれど、それどころではない。日本人もたくさんいたはずなのに、このロビーの中はそうではなかった。聞こえてくる言葉はわけがわからず、かろうじて聞き取れた「ハロー」と激しいハグを見て、再会を喜んでるのだろうな、と想像ができる程度だ。
この空港を出て、自分は本当にたどり着けるのだろうか。
花道は、自分の荷物をしっかり持ち、ゴクリと唾を飲み込んだ。教えられたバスが本当に合っているのかわからないけれど、とりあえず最終地まで乗ってみるしかなかった。窓から見える景色は、これも日本とは全く異り、物珍しさからか目を閉じることが出来なかった。
こんなところで、あの男はたった一人、生きているのだろうか。
本当に生きているのだろうか。
花道は、自分の想像にゾッとしてしまった。流川楓を追いかけて、花道はアメリカにやってきた。
流川がアメリカに旅立ったのは、湘北高校を卒業してすぐのことだった。卒業までいたのは、おそらく全国大会優勝を成し遂げられなかったからだろう。流川も、そして自分も、3年生の冬の選抜まで出場したのだ。けれど、結局1年生の夏を越えることは出来なかった。
たとえ自分の技術が伸びても、流川が全日本のエースプレーヤーであっても、湘北高校バスケ部は日本一にはなれなかった。これはなぜなのだろうか。花道は何度も考えたし、何度もビデオを見返した。1つ1つのプレーの反省点はあっても、全体として何が違うのか。花道にはよくわからなかったけれど、それは本当にただ実力の差なのか、それとも運なのか。運といってしまうと、自分達の努力はどこへ行くのかわからなくなってしまうけれど。
そんなことを考えながら、花道の高校生活は終わった。こんな風に卒業するとは、入学した当時には想像もつかなかった。
そして、自分も桜木軍団も、そして花道の家族も周囲の人間も、花道がバスケットで大学に行くと決まったとき、あまりの驚きでその話は冗談かと思われた。具体的な将来像はなかったけれど、「大学の進学する」という選択肢は、最初から捨てていたはずなのに。
ただ、誰もが驚いたあと、皆が皆喜んでくれた。
花道も、自分が認められたようで、本当に嬉しかった。
今は7月で、このアメリカも夏だった。
日差しが日本よりきつく感じた。乾いている暑さは、日本の湿気に慣れた自分には新鮮だった。
花道は、バスの窓から空を見上げ、眩しそうに目を細めた。
高校を卒業して4ヶ月。
あのときは、自分がアメリカに来ることがあるとは思いも寄らなかったのに。
花道が、バスを降りたとき、その街は空港とも別世界で、またゴクリと唾を飲み込んだ。おのぼりさんと思われないように、キョロキョロせず、堂々と歩く。けれど、自分が歩いている方向すら、北なのか東なのか。それどころか、どこへ向かえば良いのかもわからなかった。
とにかく、インフォメーションを探し出し、住所を差し出した。通りの名前と番地が合っている場所を見つけたときには、花道はホッとするよりも、ただただ疲れ果ててしまった。何という緊張感だろうか。日本で知らない土地に行っても、ここまでは労力を使わない。異国を訪れるというだけで、こんなにもエネルギーを使うのか。では、ここに住むというのは、どういう気持ちなのだろうか。
花道は、煉瓦造りらしい壁を見上げた。
この建物の、どこかが、流川の部屋なのだ。
暑さのせいか、窓を開けている部屋やエアコンの室外機が音を立てている部屋もある。
花道は、意を決して、流川の部屋の番号ベルを押した。こんな昼間では仕方がないのかもしれない。もう夕方に近いのかもしれないけれど。
バスケットに行っているのか、買い物なのか、いずれにしても雨さえ降らなければコートに出ていた男が、こんな天気に家にいるとは思えなかった。
安堵感と残念な気持ちが入り交じり、花道は大きなため息をついた。
自分には、もうただ流川の帰りを待つしかできないのだから、と意を決した。
けれど、それからすぐに悪い考えばかりが浮かんでくるのだ。
もしかして、ここが流川の部屋ではなかったら。もしかして、今日は外泊だったらどうしよう。
慣れない長旅で疲れた体では、さすがの花道もポジティブには考えられなかった。
もし、ここで流川に会えなかったら、今日の宿さえどうすればよいのか花道には全くわからないのだから。
「いや……と、とりあえず…ニンゲンの住むところだから…」
言葉は通じなくても、何とかなるのではないだろうか。
花道は、無理矢理自分にそう言い聞かせた。
何か、明るい話題を考えよう。そう決めて、花道は頷いた。
花道の高校時代は、充実したものだったと思う。バスケットに出会い、大怪我もし、手術も経験した。リハビリを乗り越えられたのは、バスケットをしたいという気持ちがあったから。バスケットを始めて数ヶ月で、心からのめり込んでしまっていた。自分をバスケに出会わせてくれた晴子は、今でも自分にとって女神のようだった。
流川とのことを考えると、そこにはまずイライラや怒りが出てきてしまう。最初の出会いが悪かったのだ。あれ以来、真剣な殴り合いはグッと減ったけれど。小競り合いはしていないと落ち着かない間柄になった。3年間、ずっとそんな関係だと思っていた。
あるとき、本当に突然、何の前触れもなく、花道と流川の関係は一転してしまった。
その日のことを、花道ははっきりと覚えているし、日付まで云える。
今でも、首を傾げるくらいに、そのきっかけがわからないのだ。
わからないけれど、2人はそういう関係になった。恋愛や恋人というものではなく、肉体だけだった。ロマンティストな自分に、まさかそんなことができるとは思いも寄らなかった。自分はホモなのだろうかと悩んだこともあったけれど、一時的な気の迷いで、流川が留学すれば終わると思っていたし、実際その通りになった。流川は、アメリカに来てから、花道に一度も連絡をくれたことはないのだ。今回は、流川の実家で聞いてきたのだ。
流川も本当にただの肉体関係だと思っていたのだろうか。自分がそう思っているのだから、相手がそう思ったとしても花道には文句の言い様はない。
けれど、もしかしたら、と思うのだ。
最後に会った流川を思い出すたびに、花道の胸は痛む。春休み中には、心臓病になったのではないかと心配するくらいだった。キュンとか、キュウという痛みはずっと昔から感じたことはあったが、これまで知らなかったくらい苦しくて、瞼がじわりと熱くなった。
自分にとって、流川は特別なのかもしれない。
今の花道は、そう思っている。
階段に長く座っていると、だんだんお尻が痛くなってくる。近所の子ども達が広い歩道を走り抜けるのを見て、花道は気持ちが和んだ。けれど、ここはアメリカで、眠くてもうたた寝することはできない。気を張って、荷物もそばに置く。通り過ぎる大人に変な目で見られても、花道はぎこちない笑顔を浮かべた。それまでも、たくさんの足音を聞いて待っていた。
そのせいなのか、それとも昔から知っている音だからか。
流川の足音は、少し離れたところからでもわかった。花道は、流川が自分に気付く前に、勢い良く立ち上がった。この国の様々な色の髪の中で、見慣れた真っ黒なサラサラを確認する。心拍が驚くくらい跳ね上がった。
Tシャツにジャージを履いた流川が、これまで見たことがないくらい大きく目を見開いて、立ち止まった。しばらく瞬きを繰り返し、何度も確かめようとする姿に、花道は思わず声をかけた。「…ルカワ…」
花道は、自分の声が掠れていることに初めて気が付いた。口の中はカラカラで、緊張のせいか、それ以上声が出なかった。
「…桜木…?」
久しぶりに聞いた流川の声は、花道と同じように小さく掠れていた。