今話2
流川の部屋は5階だった。エレベーターのない建物に、狭い階段が回るように取り付けてある。階段の下から見上げると、はるか高いところに天窓が見えた。そのせいか、窓のない廊下は比較的明るかった。
挨拶もなければ、もちろんハグもない。久しぶりの再会に、流川も花道も戸惑っていた。おそらく、その戸惑いは流川の方がはるかに上だっただろう。何しろ、突然花道が現れたのだから。「…テキトーに座れ」
いつか聞いたことのあるセリフに、花道は少しホッとした。
流川のアメリカの部屋は、部屋の構造以外は流川らしい気がした。相変わらずバスケットのもので埋め尽くされている。ただ、以前より、部屋は雑然としていた。座れと言われても、台所の椅子か、ベッドしかない。
「あ…あのよ……いきなりでわりーんだけど…トイレは…」
花道の躊躇いながらも申し出に、流川は黙ったまま指を指した。
目の前から花道がいなくなって、流川は目を閉じて深呼吸をした。未だに心臓の音が治まらず、だんだん呼吸が苦しくなっていた。想像もしなかった人物の登場に、流川はまだ心の整理が付かなかった。
誰も招待したことのない部屋で、自分は台所にいるのに、トイレから水洗の音がする。そのことに、肩がビクリと跳ねた。出てきた顔が花道でも、心拍は落ち着かなかった。
「……シャワー浴びるから…」
そう告げるのが精一杯で、流川は花道と入れ替わりにバスルームに入った。実際、練習から帰ってくるこの時間はいつもそうなのだ。そう自分に言い聞かせる自分がおかしいと、流川はため息をついた。花道はベッドに腰掛けながら、何から話そうと考え出した。こうして、流川の部屋にたどり着けたことに安心し、何度かあくびを繰り返す。時差ボケのせいか、会話でもしていないと眠ってしまいそうだった。
ほどなくして、流川はTシャツに短パン姿で出てきた。頭にタオルを巻く姿は見覚えのあるものだった。けれど、それがほんの少しの間だけで、すぐに首に巻くことも自分は知っている。
「あ…あの……ルカワ…」
流川は返事もせずに、またバスルームに消えた。
次に出てきたとき、流川はジーンズを履いていた。
「あれ……出かけンのか?」
ようやく花道に顔を向けた流川は、短く「バイト」と答えた。
バイト。アルバイトのことだろうか。あの流川が、アルバイトをしているのか。
花道は理解するのに、しばらく時間がかかった。
「…な、何時頃…帰ってくる?」
「………10時」
今は夕方の5時前だ。流川が帰るまで5時間あるのか、と花道は愕然とした。
花道が固まっている間に、流川はまるで逃げるように出ていった。
何も言わず、何の話も出来ず、花道がなぜここにいるのか、いつまでいるのかとか、ホテルはどこだとか、何か一つくらい聞いてきてくれると思ったのに。
花道は、流川が出ていったドアを見つめて、少し切なくなった。何よりも、空腹だった。
流川にどんなに冷たくされようとも、花道には出ていくことは出来なかった。たとえ明日追い出されるにしても、今日はただ流川を待つしかない。
それはともかく、部屋のカギがないために、外に買いに出かけることもできなかった。
「うがーーーっ! ハラ減った!!」
申し訳ないと思いながらも、花道は勝手に台所を物色した。
冷蔵庫の中には、レタスや卵、当然のように牛乳がある。大量の食パンとバナナを見つけ、花道は両手を合わせて拝んでから、勢い良く食べた。ただ、流川の朝ご飯分は残すように努力した。
肉類のない夕食になったが、花道のお腹はとりあえず満たされた。
そうなると、もう当然のように眠気が襲ってくる。起きて待っていようと、ベッドの横に座り込む。何か刺激をと思い、テレビを付けてみたが、全く聞き取れない言葉にかえって睡魔に襲われた。
ベッドから落ちかけていたシーツを引っ張ると、流川の匂いがした。
花道はそのシーツを引っ張って、それにくるまるように眠りに落ちた。
聞き慣れない物音が響く場所に来てしまったが、知っている匂いに安心しながら、花道は深く眠った。
その日の流川は、バイト先で冷静を保てなかった。いつも愛想はないけれど、今日は無表情のまま失敗をしていた。その様子に誰もが疲れているのかと心配してくれるあたり、流川の評判は悪いものではないのだろう。けれど、結局最後まで、流川はペースを乱したままだった。
何しろ、帰るのが恐い。
流川はアメリカに来てから、初めてそんな風に思った。
家の中ほど心休まる空間はないはずなのに。
花道は、本当に来たのだろうか。幻にしては、はっきりしすぎていたけれど。流川はその夜、家まで走って帰った。確かめるのが恐いのも本当だったが、期待の方が大きかった。
部屋の中は真っ暗だった。流川の心拍は、夕方と違った感じで跳ねていた。
電気を付けると、部屋の中央に大きく横たわる花道がいた。
伸びた赤い髪が乱れ、流川のシーツを引っ張って眠っている。土足の部屋の床に顔をつけ、花道は気持ちよさそうだった。
「…桜木…?」
小さく呼びかけてみたが、花道には何の反応もなかった。
今日アメリカに着いたばかりなら、仕方のないことかもしれない。
流川は、花道の温かい腕に触れて、本物だと確認した。
眠っている花道が珍しくて、流川はしばらくじっと見つめていた。この男は、どうしてここにいるのだろうか。
流川は、花道をベッドに引き揚げながら、ようやくその疑問に行き着いた。
アメリカに来るなら来ると連絡をくれればよかったのに、と自分が連絡先を知らせていなかったことを忘れて、流川はムッとする。自分にも心の準備期間がほしかった。
ここに来て、ガムシャラに毎日を過ごしている自分にとって、花道という存在はなかった。過去を思い出してしまうと、今の頑張りがペースダウンしてしまいそうで、独りで乗り越えようとしていたのに。
なぜ、ここに来た?
その疑問を、流川は花道の頬を抓ることでぶつけた。
眠ろうと思うのに、隣の存在がいろんな意味で熱くて、眠気がやってこなかった。
こうして一緒に眠っていたのは、ほんの半年前のことなのに。今では、はるか昔のことのようにも思える。
忘れるとか、そういうのではないけれど、バスケットで生きていく自分に過去はいらないと決別してきたつもりなのに。
こうして、目の前に現れられただけで、流川の心は戻ってしまう。
そんなに長い付き合いではなかった。
知り合って、バスケットを通して3年。
その間、深い関係だったのは、ほんの2〜3ヶ月だけ。
たぶん気の迷いと思い合っていたはずなのに、なぜ自分のところにやってきたのか。
アメリカで、バスケットをしたいなら、星の数ほど場所はあるだろうに。流川は目を閉じて、花道の肩に額を当てた。