今話6

   

 いつもとだいたい同じ時間に起きて、流川は出かける準備を始めた。
「…もしかして、弁当か?」
「……おにぎりだけ」
 流川が手に力を込めて握るおにぎりから、花道は目をそらすことが出来なくなった。
「…そういえば…中用のバッシュ、持ってるか?」
「あ…ああ…」
「それと……着替え持ってけ」
 いったいどこへ行くのだろうか。内緒にしている理由もわからないけれど、花道はやはり楽しみという気持ちの方が大きかった。何しろ、流川の機嫌が良いことがわかるから。
 行き先はわからないけれど、電車に乗るところを見ると、それなりに遠いところなのだろう。いつもはどこへ行くにも歩いている男なのだ。
 乗り慣れない電車に、花道の目線はつい泳いでしまう。窓から、高層ビルの集まりから遠ざかっていくのが見えた。どうやら郊外の住宅街に向かっているらしい。
 たぶん20分くらい経った頃、流川がようやく口を開いた。
「降りるぞ」
 スタスタと迷いなく歩く流川に、花道は慌てて付いていく。知らない土地では流川が頼りで、堂々としている姿にホッとした。
 駅からしばらく歩いて、流川が振り返った。
「…ここだ」
「………学校?」
「……そー」
 どうやら、日本人向けの学校らしいということはわかった。こんなところで何のボランティアなのだろうか。
 流川は黙ったまま、体育館らしき建物に向かった。
 そういえば、中用の靴と言っていた。ということは、体育館の中でのことなのだろうか。
 体育館横の事務室のような部屋を通り抜け、流川は体育館に入った。花道がその背中から中を覗くと、そこには大勢の子どもたちがいた。皆が練習着で、隅の方にはたぶん親たちと思われる大人もいた。
「……な…なんだ…?」
 花道が驚いてカバンを落としたとき、奥の方から大声で呼ばれた。
「あ、桜木くんじゃないの?!」
 誰かの保護者と思われる女性に、花道は引っ張られてしまった。ここがどこかもわからないし、相手が誰かも知らない。それなのに、相手は自分を知っているらしい。花道は頭にクエスチョンマークを浮かべながら、その腕を邪険に振り払うことも出来なかった。
「桜木くん、大学やめちゃったと思ったら、アメリカに来てたのね!」
 体育館中に響いたのではないかと思われる声に、花道は慌てふためいた。
「な、なんで……知って…」
 そのやりとりは、流川の耳にも当然入ってきていた。
「……やめた…?」
「流川くん…?」
 流川は、自分をこのボランティアに誘った校長先生に挨拶をしようとしていた。花道を勝手に連れてきたので、紹介するつもりだったのに。
「あ……すみません…先生…」
「本当に…桜木くんだね…」
 校長先生が遠くを見ながら同意を求めた。流川は驚いて、返事も出来なかった。
「いやね、お母さん方から聞かれてたんだよ… 同級生だった流川くんなら知ってるかも、と今日は聞くつもりでいたんだけど……」
 花道の動向について尋ねるまでもなく、本人がこのアメリカの体育館に現れた、と校長は笑った。
「あの………桜木のこと…ご存じでしたか?」
「…うん……まあ、日本のことはここまで聞こえてくるしね」
 流川は、自分には聞こえてきていなかったし、当事者の近くにいたのに知らされてなかったことに、心の底から驚いた。
「…スポーツ推薦で入った大学をやめてしまって……ちょっとした騒ぎになってたらしいよ」
「………はぁ……」
 自分は何も知らなかった。未だにお母さんたちに捕まっている花道を見て、流川はしばらく冷静になれなかった。練習を始めようと言われても、少しぼんやりしたままで、終わったあとから子どもたちに申し訳ないと思った。
 このボランティアは、流川には楽しい時間だった。小中学生のバスケットの指導という話に、最初は戸惑ったけれど、出来る範囲でいいと言われたし、何より至福の時間が待っていた。
 練習の後、天気が良ければ外の芝生で昼食を取ることになっていた。流川は自分の弁当も持参していたが、たくさんの保護者から日本食のおかずをもらうことが当たり前になったのだ。だから、自分はおにぎりだけで、有り難く頂戴することにしていた。手作りの日本食にありつける貴重な機会なのだ。もっとも、今日は花道の方が取り囲まれているけれど。
「桜木くん…で、なんでやめちゃったの? 一部リーグの強い大学じゃない」
「は……はぁ……まあ…その…」
 しどろもどろの返答をしながら、花道は隣の流川の表情を伺った。この会話を聞いても、流川は驚いていなかった。それならばやはり、先ほどの叫び声を聞かれてしまったに違いない。まだ流川に話していなかったことが、こんな形で露見してしまったことに、花道はため息をついた。 
 流川は、とりあえず花道の話を後回しにするつもりだった。その後が、もっとも幸せな時間だから。
「じゃあ流川くん…いつものように、戸締まり頼むね」
「…はい」
 校長先生も子どもたちも保護者も、昼食が終わったら帰宅する。そして、流川にだけ短い時間ではあるが体育館を開放してもらう約束なのだ。たった一人で誰にも邪魔されずに練習できるのだ。
「あの…ルカワ…」
「……桜木……テメーの話はあとだ」
 二週間に一度のボランティアなのだ。そしてたった2時間しかない。体育館で話などしたくなかった。
 流川が花道に背を向けて練習し始めたとき、花道は嫌なことをすべて忘れて昔に戻った気がした。まるで、湘北高校での居残り練習のようだったから。
 久しぶりにバッシュの音を聞いた。やはり、体育館はいいなと花道は走り回った。
 それからしばらくして、花道は流川の前に立ちふさがった。
 あれから半年ほど経つが、流川はアメリカでどのように成長したのだろうか。流川の目の鋭さが一層増した気がする。動きが速くなったのではないだろうか。身長は伸びていないみたいなのに、大きく感じられた。花道は、必死で流川を止めようとした。
 一方、流川も、花道との1対1に胸が躍った。懐かしいとも思ったけれど、やはり花道の成長が気になった。相変わらずの体力とジャンプ力は何度も確認できた。身長が少し伸びているかもしれないと思ったけれど、どうも新しい技術が見えなかった。この男は、大学で何をしていたのだろうか、と流川は眉を寄せた。もしかしたら、口で説明されるよりも、この方法が一番わかりやすいかもしれなかった。
「……時間だ…」
 流川はしぶしぶ清掃を始めた。花道も、それに倣った。
 汗を拭いて、着替えるのは、電車に乗るためなのだろうと花道は思った。徒歩圏ならば、汚れたまま帰宅できるけれど。
「……買い物行く」
 いつも行く近所の安いスーパーではなく、今日は学校の近くの日本食を扱うお店に寄るらしい。こういうときでしか買えないものがあるのだと、流川は言葉少なく説明した。どうやら、花道に話すタイミングを与えないつもりらしい。
「あの…ルカワ…?」
「……家に帰ったら…聞いてやる」
 とりあえず、聞くと約束してくれた。花道は少しホッとしながら、また流川に付いて歩いた。

 

 

2008.10.11 キリコ
  
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