今話22

   

 NBAの試合観戦は、2人にとって衝撃だった。シーズンに入ってからじっくり考えて、一番近い場所で開催される日の一番安い席だった。コートからかなり高い位置でも、その熱気は伝わってきた。あの場所を目指して、改めて頑張らねばという気持ちになった。

 

 今季リーグのシーズンは5月いっぱいまでだった。夏の間、オフシーズンに入ってしまうのだ。
「もしかして……オレまたビザがいるのか?」
「……そういうことだな」
「…今度こそ…寿司屋のお世話になろうかな…」
 花道は真剣に悩み始めた。永住権を持っていないチームメイトは帰国する者もいれば、アメリカでのバイトの方が収入が高いからと残る者もいる。流川も花道も日本に帰る気は全くないので、とにかく何とかしなければならなかった。
 リーグの終盤に差し掛かってから、このチームは勝ち続けていた。残りの試合にもしも負けたとしても、万年最下位の汚名を返上することが出来る。監督は首が繋がったと笑っていたし、2人とも9月からまた喚ばれることが決まっていた。他のチームから声がかかる可能性もゼロではないけれど。
「…バラバラに喚ばれてもなァ…」
 花道の呟きに、流川は心の中だけで同意した。上を目指したいとは思うけれど、まとまりつつあるチームで優勝をもぎ取りたいとも思う。この半年で、ずいぶんチームの雰囲気は変わったと感じていた。オフシーズンに入るのが、とても悔しかった。それでも、アメリカに残るチームメイトと練習しようと約束して、最後の練習を終えた。

 6月に入ったら、花道はアルバイトに出かけることになった。寿司屋に電話をしようとすると、なぜか他から電話が来ると花道は首を傾げた。それだけラッキーなのか、と自分の尽きを有り難くも思った。
 ただ、夏休みのキャンプ場で行うバスケ指導が仕事で、州内だけではなく、州外からも参加する小学生の集まりだった。アメリカの子どもたちに自分が対応出来るのだろうか、そんな心配はしなかったけれど、ただ言葉だけは少し不安だった。大人と違って、子どもの話し方は速くて遠慮がないことが多かったから。けれど、バスケットの指導であり、たまの休みにはコートを使えて、そして3ヶ月分のビザをもらう約束を取り付けた。もちろん、キャンプから戻ってからも、ときどきバイトに行くことになるのだが。
「で……どれくらい行くって?」
「…1ヶ月…にはならないくらい…」
 そんなに不在にするのか、と流川は少し驚いたけれど、さして興味のない振りをした。
「…ふーん……まーいいんじゃねぇ」
「……ルカワ? それだけか?」
「……なにが」
「1ヶ月もいねーんだぞ!」
「………でもいずれ帰ってくるだろ?」
 流川はわざとらしいため息をついた。確かに、花道がアメリカに来てから、ほとんど離れたことはなかった。せいぜい3日くらいの遠征に行ったときくらいで。社会人なのだから、こういうこともあるだろうし、と流川は気にしないようにしていた。花道はアルバイトを寿司屋にするかしばらく考えていたけれど、短期バイトでは申し訳ないと考え、結局キャンプにした。

 花道がキャンプに出かけるとき、流川は花道を玄関で見送った。
「…じゃーな…」
「……それだけか?」
「……何を言ってほしい」
 花道はもっと熱烈な見送りを期待しているのだろうか。行かないで、と言ってほしいのか。
 じっと目を合わせていても流川にはわからなかった。花道は少し口を尖らせてから、「もういい」と答えた。
 突き出ている唇に、流川は軽くキスをした。それで機嫌が良くなるかと思ったけれど、花道はまだ満足しないらしい。
「……ルカワ…戸締まりだけはしっかりしろよ…」
 以前にも、同じようなことを言っていた。花道は流川の心配をしているのに、自分はその心配が足りないのだろうか。花道はたいていどこへ行っても、きっと適応できると思っているし、特に子どもが相手なら尚更だった。ああ、こういうことを言えば花道の気も少し楽になったかもしれない。それに気が付いたときには、花道はもう出発していた。
 そして、2〜3日のうちに、花道の不在が想像以上に寂しいことだと知った。
 遠征ではない。1ヶ月戻ってこないのだ。
「…まだ…3日…」
 毎日、バスケットをして、ビデオを観るのだから、これまでとたいして変わらないと想像していた。けれど、食事もすべて独りで、もちろんすべて作らなければならないし、広いベッドの上でもたった独りだった。
「まえと同じ…」
 花道がアメリカに来る前と一緒だと、何度も自分に言い聞かせるけれど、1人での生活が思い出せなかった。自分はどうやって生きていたのだろうか。2人でいた時間の方が長いからだろうか。
「…慣れ慣れ」
 きっと、こういう状態に慣れるはず。流川はそう自分に言い聞かせて、とりあえず規則正しい生活を送った。けれど、今ひとつ、張り合いがない。家の中で指輪をしていても、なぜだか不安になっていく。なるほど、これが心配というものか、と実感した。
 もっと、花道に気の利いた言葉をかけてあげれば良かったと、心底反省した。


 花道は、キャンプ場から毎週電話をかけてきた。それだけでとても懐かしく感じる。流川は、自分の中にこういう感情があることに驚いた。誰かに会いたいと思ったことは、これまでほとんどなかった。
「ルカワ、元気か?」
「……ああ」
「…そっちは…晴れてる?」
「……だいたい」
「こっちは…山だからかな…雨もあって…まあ体育館だけどよ…」
 花道は、あまりキャンプのことを話さなかった。流川のことばかり聞くので、時間がなくなってしまうのだ。そして、流川から電話することが出来ないから、ただ電話を待つしかなかった。電話が鳴るのが待ち遠しいと思うのは、生まれて初めてだった。
「…メシ食ってるか?」
「……テメーは…?」
「おう……けど、ごはん食いたい」
「……そうか…」
 アメリカに来てからも、花道の食生活は日本のものに近かった。外食することはあっても、ここまでずっと和食から離れたことはなかった。
 花道が帰ってくる日には、とにかく白ご飯とみそ汁がいいだろう。流川はそれだけ決めた。


 そして、やっと1ヶ月経ったとき、花道はもの凄い早足で帰宅した。玄関が勢い良く開く音に驚いて、流川は包丁を落とした。シンクにガタガタという音が響いて、流川は心拍が上がった。それだけではなく、間違いない花道の足音にじっと耳を向けていたのだ。あの賑やかな、階段を駆け上がる音。
「…桜木? ドアが壊れる」
 もの凄くドキドキしているのに、流川の口からはそんな言葉しか出てこなかった。ドアが空いたままのキッチンを通り過ぎかけていた花道は、急ブレーキをかけて立ち止まった。
「……ルカワ…」
 肩からかかっていた荷物がドサリと落ちて、流川は両腕を広げて近づいてくる花道をじっと見ていた。そのまま抱きつかれて、久しぶりに花道の匂いを胸一杯吸い込んだ。
「…ただいま」
「………おかえり…」
 久しぶりの挨拶は、2人ともどこかぎこちなかった。ギュッと抱きしめられていたら、挨拶のキスが出来ないではないかと、流川は思っていた。
「……ルカワ…オレ…いろいろ…その…」
 何を言い出したのかわからないので、流川は黙ったまま待っていた。
「バスケとか、メシとか……その、いろいろオメーと一緒に……と思うけど…」
「……けど?」
 花道がご飯を食べたいと言ったから用意していたのに。
「あの……まだ夕方だけど……オレシャワーしてくるから…」
 なるほど、と流川は笑った。自分もそう思っていたとは言えなくて、花道がそう望むのなら、と頷くことにした。けれど、やはり正直に言ってしまった。
「……シャワーはいい…」
 それから花道に引きずられて、あっという間に素っ裸にされてしまった。ベッドのシーツも洗っていたし、自分の体もぴかぴかにしていた。準備万端にしていた自分が恥ずかしくて、流川はそう告げることが出来なかった。

「しばらく離れてると……こう…盛り上がるな…」
 花道が照れながら、大胆なことを言った。花道は笑っているけれど、流川には素直におかしがることが出来なかった。燃え上がったように思ったのは、確かだけれど。
「……メシ……途中…」
「ああ…その、後はオレがするから…」
 花道は、流川にチュッとキスをしてから、ベッドを離れた。
 実際、流川は起きあがれなかった。こんな短時間に、すごく濃厚だったと思う。声が掠れているのは気のせいではないだろう。そんなに嬌声をあげただろうか。きっとそうなのだろう。
 流川が思い出して頬を赤くしているとき、花道がベッドに戻ってきた。
「ルカワ…すまねぇ…」
「……シッパイしたのか?」
「いや…メシはまだだけど…」
 いったい何を謝っているのだろうか。流川は目線だけで促した。
「その……コレ…付けてなかった…」
 花道は、指輪を部屋に置いて行っていた。それは、付ける機会もないし、人に説明するのも大変だろうし、何より無くしたくないと思ったから。付け外しを繰り返さなければならないから、流川も置いて行けと言った。
 その指輪を、帰ってきてからしないまま、行為に及んでしまった。そう謝っているのだ。
 流川はかなり呆れて、寝ころんだままため息をついた。指輪一つでそんな大騒ぎしなくても、と思ったけれど、その気持ちを有り難く思う努力をした。
 花道の首を引っ張って、流川はキスをした。
 キスをしたいと思ったときに出来ることに、感謝した。 

 

 

 

2008.11.11 キリコ
  
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